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カテゴリー「音楽>メーカー>Bösendorfer」の61件の記事

2020年6月30日 (火)

シューベルト『Originaltänze D365(op.9)』から第1〜6曲を、1941年製ベーゼンドルファー200で

ひさびさにウチのピアノ以外で収録できました〜(*´-`)
若きシューベルト(と言っても31歳で早すぎる死を迎えているのですが)が1821年ウィーンで出版した舞曲集 op.9(D365)から第1〜6曲を、1941年製ベーゼンドルファー200で弾きました。この楽器は故イェルク・デムス大先生が日本での稽古用として持ってきていた楽器とされており、元はサローネ・クリストフォリ成城、今はサローネ・フォンタナで一般の用に供されています。

この楽器、スタイル自体は戦前のベーゼンドルファー200でかつ響板にあるシリアル番号も1941年製を示しているのにペダルが3本・・・というところから、故デムス大先生がご自分の稽古用として3本ペダルに改造させたのではないかなぁと邪推しています(それ以前に改造されている可能性もモチロンございますがw)。本体の塗装と脚の塗装が動画で見ても明らかに異なるところも、改造されたことを示しているように思えます。それはさておき、故デムス大先生はいわゆる「目利き」の権化のような御方でさまざまな逸話がございますが、さすがはご自身がお使いになるための楽器、素晴らしく優秀な戦前のベーゼンドルファー200です。今では多少暴れたり疲れたりしているところもなきにしもあらずですが、それはまぁ一般の用に供されている楽器ですから、多かれ少なかれ仕方がないところですね〜。

シューベルトの舞曲集は当時流行していた実用音楽の寄せ集め的な作品集と同じ性格でして、全曲を演奏会で通して演奏されるということは念頭に置かれていないと言えます。そもそもこの op.9(D365)はなんと36曲ものドイツ舞曲的な舞曲の集合体でして、さしものワタクシもこれを通して飽きさせずに弾き通す蛮勇は持ち合わしておりませんで。・・・繰り返しをほとんど省けばという考えが何度もアタマをよぎったことも白状しますけどw

この第2曲は1821年11月末に出版された op.9 の初版では『Trauerwalzer/哀しみのワルツ』という標題がつけられています。実はこの曲は出版前に既に詠み人知らずのままにウィーンで大流行しており、そこに目をつけてこの標題をつけたんだろうなぁ・・・と推測できます。さらに、op.9 出版の5年後の1826年、なんとまぁベートーヴェン作曲『Sehnsuchtswalzer/憧れのワルツ』としても出版されてしまったというオチすらございまして。1826年と言えばベートーヴェンもシューベルトもご存命のタイミング、著作権意識が牧歌的でのどかな時代だったという証ですね〜。ココであ〜でこ〜で善し悪しを申し上げるのは野暮というモンでしょうw(・o・ゞ

2020年6月29日 (月)

チャイコフスキー『四季、ピアノによる12の絵画的描写 op.37bis』から6月「舟歌」を、1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

チャイコフスキーの『四季、ピアノによる12の絵画的描写 op.37bis』の6月『舟歌』を、いつもの1894年製ウィーン式アクションのベーゼンドルファーで弾きました。な〜んとか6月中に間に合いました(^o^;

ときは1875年末からのこと、ペテルブルクで出版されていた月刊誌『ヌヴェリスト(短篇作家)』上に各月の風物にマッチした詩を選んでその詩の性格に合わせた曲を1年間続けて掲載するという、なかなかイキなコラボレーションがございました。したがって作曲は1875年12月から翌年の11月にかけてという計算になり、チャイコフスキーは毎月の締切に苦しんでいた・・・というのが定説で証言もあるのですが、なんとなんと実は実は1876年の5月に既に最後の12月までが完成されていたことがわかっています。ですからこの定説はくつがえされ、証言も偽りであった可能性が高いのでありま〜す(・o・ゞ

この12ヶ月分をまとめて出版したのが、この『四季、ピアノによる12の絵画的描写 op.37bis』で、チャイコフスキーの天才的な音楽での情景描写力がいかんなく発揮されている素晴らしい曲集だと思っています。嬉しいというか困ったというか、チャイコフスキー先生ってばさまざまな楽器の音色や表現力を一台のピアノに見事に詰め込みやがりましてw、その結果、極めて高度な色彩豊かな表現力が演奏者に強要されているのです。エラいこっちゃで(^^;;;;;

1876年当時ロシアはまだ旧暦を使っていたので現代の季節感と1ヶ月ずれているとのことですが、そもそも日本人であるワタクシにはペテルブルクの季節感なんぞ皆無なので逆に無問題。「舟歌」とくればクラシック音楽な世界ではヴェネツィアのゴンドラの歌と相場は決まっているwのですが、この曲はロシアの詩人が描いたロシアの風物に対して作られた曲ですから、ヴェネツィアのゴンドラを念頭に置きつつあくまでもロシアの岸辺がイメージされていることぐらいの妄想力はハタラかせたいものですね〜 ヽ( ̄▽ ̄)ノ

2020年6月19日 (金)

チャイコフスキー『子供のアルバム op.39』から第24曲「教会にて」を、100年前の大型リードオルガン&1894年製ベーゼンドルファーで

ウォルター・ヘンリー・ルイスの『休日の鍵盤愛好家のための曲集 〜あらゆる機会のために〜』(1914年)には小品が36曲おさめられておりますが、実は玉石混淆で弾き手の理解力が問われるのはココだけのハナシw。その中からチャイコフスキーの『In the Church』を、ボストン近郊の Bridgewater で1930年代始めまで頑張っていたパッカード社1905年製の大型棚つきリードオルガンで弾きました。

原曲はチャイコフスキーの『子供のアルバム op.39』の最後、第24曲「教会にて」です。この原曲の英訳題名は “In Church” で、編者はナゼか the を付け加えて "In the Church" としていますが他はとくに目立った改変は行っておらず、まぁおそらく伝言ゲームが発動されたにすぎないのかなぁと。

『子供のアルバム op.39』は、当時7歳の甥っ子に捧げられています。この曲集、教会に始まり教会に終わっているのがなるほどで、しかも7歳の子供が出会うであろうさまざまな日常の情景描写はさすがのチャイコフスキー、見事の一言です。この『教会にて』は教会ですから当然ながら徹頭徹尾オルガン的な表現にあふれており、響きの良い楽器で息をあまり使わずに静かに弾くと素晴らしい雰囲気が出ますよ〜(・o・ゞ

にしても、この楽器のてっぺんが顔文字に見えてしまって、しばらくニヤニヤが止められなかったワタクシってば(・x・ゞ



ピアノもリードオルガンも鍵盤楽器ではありますが、当然ながらそもそもの性格が異なりますから得意不得意も向き不向きもございます。そしてそこには弾き手という人間が必ず介在しますから、ハナシがやたらと複雑になりオカルトも介在しやすくなります。この複雑さこそが芸術の愉しさでして、「ピアノだから〜」とか「リードオルガンだから〜」とか単純に割り切ってしまうのはもったいないと思います。複雑な系を単純化することは理解するためにある意味必要ではありますが、その単純化の過程で必ずナニかが抜け落ちることを忘れてはならないでしょう。なかなか厄介な永遠の課題ですよね〜〜〜 (`・ω・´)

2020年6月16日 (火)

服部克久『Le Rhône 〜ル・ローヌ(河)〜』を1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

つい先日2020年6月11日に83歳で亡くなった日本の音楽界のサラブレッド、服部克久(1936-2020)のおそらくは代表作の一つ『Le Rhône 〜ル・ローヌ(河)〜』を、いつもの1894年ベーゼンドルファー製ウィーンアクションのピアノで弾きました。合掌。

本当にデキる方々の仕事量そしてスタイルの使いわけの多彩さってハンパなく、コミックソングの範疇に入りそうな『すごい男の唄(1987年)』も服部克久の作曲だったのにノケぞった覚えがあります。この『Le Rhône』は服部克久のライフワークたる『音楽畑』シリーズ第3集(1986年)所収、インストゥルメンタルな心地良〜く優しい世界観は、自分にとってある意味理想の音楽の姿だったりします。

「なんとなく居心地が良い雰囲気」やら「雰囲気が一変する感じ」やら「敵が潜んでいるかもしれない雰囲気」やらを察知する能力って、数億年にわたって生き物の血に受け継がれてきた能力ですよね。単純に申し上げてそれに気づけなかった鈍クサいやつらは殺られてきたワケで、実は我々は等しくハンパでない感覚の持ち主だったりするのでありま〜す(・ω・ゞ

現代人は幸いにも自然界のマジで厳しい弱肉強食の世界に置かれていませんから、「見えない敵を雰囲気から察知する」という高度な空間能力を発揮せずとも生きのびられます。それならば、敵に襲われる心配なく「なんとなく居心地の良い雰囲気」をのんびりと愉しんでしまってもバチは当たらないかと。人間が「心地良い」と思う感覚って生き物が長い長い進化の過程で積み重ねてきたいわば「肌感覚」という「本能」レベルの感覚、いかにデジタルやらオンラインやらテレワークやらが進化したと言ってもそうそう簡単に置き換えられるようなものではないと思うんですね〜。この動画はあくまでもYouTubeで「ナマ」でないのがめっちゃ自己矛盾(つ〜かアタリマエw)なのですが、これがナマの世界をユルく愉しむきっかけの一つとなれば、こんなに嬉しいことはございません(*´-`)

2020年6月 7日 (日)

中島みゆき 作詞/作曲『時刻表』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『時刻表』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

『時刻表』は1982年に発売されたアルバム《寒水魚》のB面後半にさしかかる位置づけであろう佳曲。あくまでも地味な曲調ですが、ひっそりとしかし確固たる何かを秘めている曲に思えてなりません。アルバム《寒水魚》のラストに向かって、この『時刻表』→『砂の船』→『歌姫』という流れ、ホントに見事の一言なんですよ〜。

 きのう午後9時30分に そこの交差点を渡ってた
  男のアリバイを証明できるかい
  あんなに目立ってた酔っぱらい 誰も顔は思い浮かばない
  ただ そいつが迷惑だったことだけしか
  たずね人の写真のポスターが 雨に打たれてゆれている

この空虚きわまりない「日常」の描写、散文の醍醐味ですよね〜。現代社会の「日常」とはこんな感じの雑然としているのに空虚な時間をひたすらくぐり抜けるだけで過ぎ去ってしまうだけのもので、その中では一人一人の存在感なんぞ皆無という。<あんなに目立っていた酔っぱらい>でも<顔は思い浮かばない>ワケで、そんな中では<たずね人の写真のポスター>なんて意味を持つはずもなく、<雨に打たれてゆれている>ばかりなり。

 海を見たといっても テレビの中でだけ
  今夜じゅうに行ってこれる海はどこだろう
  人の流れの中で そっと時刻表を見上げる

そんな虚しい中であっても、自分が生きているという実感さえ持てればそこがかけがえのない居場所となって、ありふれた日常に少しの輝きを見出だすことができます。否、そうでないと人生なんてひたすら空虚なだけになってしまいます(まぁそれでも別にイイっちゃイイんですけどねw)。主人公はそこに気づいており、<テレビの中でだけ>しか見ていない<>を実際に見て空虚さを埋めるべく、「日常」の象徴たる<人の流れ>に抗って<そっと時刻表を見上げる>んですね〜。海は全てを包む大いなる存在であって、そこに行けばいささかなりとも安心が得られるのかもしれませんが、主人公はその<>の場所をまだ見つけていないようです。

 満員電車で汗をかいて肩をぶつけてるサラリーマン
  ため息をつくなら ほかでついてくれ
  君の落としたため息なのか 僕がついたため息だったか
  誰も電車の中 わからなくなるから
  ほんの短い停電のように 淋しさが伝染する

そう。現代の日常とは虚しく淋しいものなのです。そんな日常での他人とのやり取りは満員電車の中でのため息のやり取りばかり、ってなかなかの虚無感ではございませんか。しかもそこに満ちる<淋しさが>無関係な他人どうしであるのに<伝染>して共有できてしまうというのは、社会全体がけっこう華やかだったはずの1982年の初めに出たアルバムとして、けっこう異色な着眼点だったのではないでしょうか。このアルバム《寒水魚》の言葉の切れ味の鋭さは相当なモンですよ〜。

 誰が悪いのかを言いあてて どうすればいいかを書きたてて
  評論家やカウンセラーは米を買う
  迷える子羊は彼らほど賢い者はいないと思う
  あとをついてさえ行けば なんとかなると思う
  見えることとそれができることは 別ものだよと米を買う

自らは一般人とは違うと勘違いwしている存在を<評論家やカウンセラー>として示す皮肉、最高ではございませんか。今現在の新型コロナ騒動の中にあって、このような<評論家やカウンセラー>はそれこそうじゃうじゃ跋扈しておりますが、なんのことはない、一般人とは違うとうぬぼれている彼らとて<米を買う>存在であるという意味では一人一人の顔が見えない一般人とナニ一つ変わらないのでありま〜す。実はワタクシ、おそらく小学生の頃から「ガクシキケイケンシャ」というワケわからない存在にえも言われぬ嫌悪感を抱いておりまして、ど〜せ机上の空論な連中だぜぃとかなんとか軽蔑していたのでした。あ、進歩がないのはワタクシだったのかw

 田舎からの手紙は 文字がまた細くなった
  今夜じゅうに行ってこれる海はどこだろう
  人の流れの中でそっと 時刻表を見上げる

若い日々を過ごした「ふるさと」=<田舎>は居場所としてふさわしい存在の一つになるのかも知れませんが、それは自ら探し出した場所ではなく両親から与えられたにすぎない場所。両親が亡くなればもはやそこは戻る場所ではなくなり、居場所でもなくなってしまうのです。<文字がまた細くなった>というのは、それを現実のものとして主人公に突きつけているような、まことに秀逸なレトリックだなぁと。やはり自らの意思で<人の流れのなかでそっと 時刻表を見上げる>ことこそが、己の人生に向き合うことなんですよね。主人公は<評論家やカウンセラー>のように良くお出来になる方々ではない名も無い普通の人物ですから、あくまでも<そっと>と己の人生と向き合うのが「身の丈」なのでしょう。『時刻表』とは<>に行くための経路を探すための手段ですから論理的には「路線図」が正しいのでしょうが、それでは詩にならんwww。はてさて・・・あなたの<>はどこにありますか?

2020年6月 4日 (木)

ベートーヴェン『ピアノソナタ第7番 op.10-3』から第2楽章を1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

ベートーヴェン(1770-1827)の『ピアノソナタ第7番 op.10-3』から第2楽章を、いつもの1894年ベーゼンドルファー製ウィーンアクションのピアノで弾きました。

ベートーヴェンの初期ピアノソナタって、実は最高限度を超えた盤石のメカニックと楽曲の「まとめ方」についての複合的重層的なこれまた最高限度を超えた理解力とを併せ持っていないと全く歯が立たない存在なんですよね〜。中期や後期ならばまだ音が多いので少々理解が浅くてもなんとか聴き手と同時に自分もゴマかせる可能性があるwのですが、初期はシンプルかつ清潔な姿なのにとにかく容赦無く音を暴れまわらせにゃならんのでキツいキツい。リストなどの技巧はまだ「人間が弾ける」ことを意識しているのでなんとかできそうな気にさせてもらえるのですが、ベートーヴェンのピアノ曲に求められる技巧は「機械のように弾かねばならぬ」がごときエゲつなさに満ちているのでありま〜す(`・ω・´)

それでいながら、いわゆる「人間的な感覚」もまた最高限度を超えた(しつこいw)繊細かつ大胆なレベルで表出できないと単なる「がんばっておけいこしましたね〜」以外のナニモノでもなくなってしまうので、ベートーヴェンの音楽に取り組むというのは、もはや難行苦行というか我慢大会に他ならず。しかししかし、少しでもできるとそれがちゃぁんと音楽の充実に直結してくれるのが嬉しくて飽くなき探求の日々に。弾きこもりってこんなに充実していてイイのでしょうかしらん?(*´-`)

ベートーヴェンの作品とは時間の淘汰なんてモノともしない古典ちぅの古典ですので、多少の味つけの偏りなんぞモノともしない堅固な「型」と同時にわずかな味つけの偏りでもバレてしまうような「シビアさ」をも備えています。速い楽章は指の稽古を重ねて音を当てられるようになるだけで充実感を得られてしまいがちですが、遅い楽章はそうは行きません。ベートーヴェンの緩徐楽章を「それっぽくできるかどうか」は音楽の理解力の試金石なのではないでしょうか。

ベートーヴェンの時代のピアノのアクションはウィーン式アクションとイギリス式アクションに大別できてイギリス式アクションが現代のピアノと直結しているのですが、実はベートーヴェン自身はウィーン式アクションのピアノの方を好んでいたのです。この1894年製ベーゼンドルファーとベートーヴェンがまだ生きていた1820年代のウィーン式ピアノを同じ空間で弾き比べる機会があったのですが、なんと音も響きもそっくりでノケぞりました。さすがは時間が止まっているウィーンの楽器、いわゆる「ウィンナトーン」ってぇシロモノはシェーンベルク(1874-1951)が生まれ育った時代まであまり変わっていなかったんですね〜(・ω・ゞ

2020年6月 1日 (月)

ベートーヴェン『ピアノソナタ第6番 op.10-2』から第2楽章を1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

ベートーヴェン(1770-1827)の『ピアノソナタ第6番 op.10-2』から第2楽章を、いつもの1894年ベーゼンドルファー製ウィーンアクションのピアノで弾きました。

この第2楽章は Largo でも Adagio でもなく、Allegretto です。すなはち「小さなAllegro」であって、Allegroの「快適なスピード感」ほどではないのですがあくまでも「遅い楽章ではない」ところが心地よい気がします。3/4拍子というところで舞曲的な要素が加味されやすいのも確かでしょうが、この楽章の雰囲気だとメヌエットというにはチト違うような(まぁ実際メヌエットとは題されてないのであたり前w)

このような楽章ってイイ感じで「雰囲気を出す」のがなかなか難儀でして、ともすれば何かを表現しているように自らをゴマかすためにテンポを揺らしてしまったりするんですよね〜。「曲の全体像を捉える」とかいう言葉を使いさえすれば理解した気になりやすいのは確かですが、このような抽象的な言葉を使ったところで出てくる音楽が変化しないのであれば実はナニも理解していないのがバレバレ。音楽って誰もが等しく取り組めるものですし、そうでなければならないのですが、それだけにちょっとした味のかたよりで「なんか違う感じ〜」という感想が出てきてしまうのがなかなか怖いです。

長い長い時間の淘汰を乗り越えてきた「古典」という人類の財産は、多少の味つけの偏りなんぞモノともしない堅固な「型」を備えていますが、同時にわずかな味つけの偏りでもバレてしまうような「シビアさ」をも備えています。このような楽章を「それっぽくできるかどうか」こそが音楽の理解力の試金石なのであって、指がまわるとか音がそろえられるとかは理解した音楽を楽器で奏でるための「方便」にすぎないのでありま〜す(`・ω・´)

ベートーヴェンの時代のピアノのアクションはウィーン式アクションとイギリス式アクションに大別できてイギリス式アクションが現代のピアノと直結しているのですが、実はベートーヴェン自身はウィーン式アクションのピアノの方を好んでいたのです。この1894年製ベーゼンドルファーとベートーヴェンがまだ生きていた1820年代のウィーン式ピアノを同じ空間で弾き比べる機会があったのですが、なんと音も響きもそっくりでノケぞりました。さすがは時間が止まっているウィーンの楽器、いわゆる「ウィンナトーン」ってぇシロモノはシェーンベルク(1874-1951)が生まれ育った時代まであまり変わっていなかったんですね〜(・ω・ゞ

2020年5月29日 (金)

ベートーヴェン『ピアノソナタ第5番 op.10-1』から第2楽章を1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

ベートーヴェン(1770-1827)の『ピアノソナタ第5番 op.10-1』から第2楽章を、いつもの1894年ベーゼンドルファー製ウィーンアクションのピアノで弾きました。ベートーヴェンの緩徐楽章串刺しシリーズ第5作でございま〜す。

ベートーヴェンの前期って実は素晴らしく美しいメロディーに満ちておりまして、シューベルトと並び立つほどのメロディーメーカーだと密かに信じているワタクシでありま〜す。ですが、美しいメロディーというのは演奏する側にとっては実に厄介な魔物でありましてね。「美しいなぁぁぁ」とか「素晴らしいなぁぁぁ」とか感じながら演奏してしまうと、実は脳内補完が強〜烈に発動してしまって自己陶酔の世界へとまっしぐらに突入してしまうコトになってしまうんですね〜。録音を聴いてみて「こんなハズはない!」とショックを受けた経験は誰にでもあると思いますが、実演と録音とは全く異なることを大〜きく差し引いても、残念ながら悲しいことにそれが己の現実なのであります。とほほほ。

録音を聴いてショックを受け続けていると、脳内補完の恐ろしさというか素晴らしさというか、そのショックを麻痺させるような自己正当化という方向に走り始めます。自分のお金をつかって自分で愉しむのであればそれはそれで非常に結構なことでございますが、音楽を生業にしている身としてこんなドツボに陥ってしまうのは全くもって嬉しくない状況ですね。真面目に音楽をお勉強してしまうと「知識」というシロモノという諸刃の剣の怖さ、理解していなくても「正しさ」という権威にすがることで理論武装という自己正当化が可能になってしまうのであります。まぁ音楽に限ったハナシでもございませんが。

「分けること」と「分かること」とは似て非なること。目的も持たずにヤミクモにばらばらにしたところで理解できるハズはございません。対して、現代のネットはあまりにも親切になってしまっていて検索しさえすれば「分けるまでもなくw」たいていの場合「答え」が勝手に転がってきます。果たしてそれは「分かった」のでしょうかね?

この楽章、まことに美しいメロディーで始まりますが、ベートーヴェン先生ってばときたま妙に速い音符をぶっこんで来ます。速いアルペジオならばまだ楽なのですが、まさかの64分音符での12連符=8分音符のなかに64分音符12個という鬼畜ゾーンが待ち構えています。この箇所を打ち込みでやってみると、もう、めっっっちゃウケますぜ。物理的に音の高さや長さや大小などをヤミクモに再現することと機能和声にもとづいた意味を持たせて音の高さや長さや強弱などを表現することと、まぁなんともこれほどまでに残酷に差がつくモンかと驚かされます。いやホンマ、是非是非やってみてくださいませ!(`・ω・´)

楽譜に表示されているデジタル符号である音符をそのままデジタル操作盤である鍵盤の上にヤミクモに「置き直す」ことは単なる「変換」にすぎず、ワリと昔のコンピューター(AI以前ですよ)でも「打ち込み」という形で簡単にできましたしその方が圧倒的に正確に再現されます。まぁ現代では「打ち込み」の方がふさわしい曲が支配的になってしまった感がございますが、少なくともいわゆる「クラシック音楽と称される何か」な時代の音楽は断じてそうではありません。願わくば、打ち込みでは満足できないようなあなた自身の「ファジーな生き物としての感覚」を大切になさってくださいますように (*´-`)

2020年5月21日 (木)

シューベルト『3つのピアノ小品 D459A』から第1曲「Adagio」を1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

シューベルト(1797-1828)の『3つのピアノ小品 D459A』から第1曲 Adagio を、いつもの1894年ベーゼンドルファー製ウィーンアクションのピアノで弾きました。不善ばかり為しているワケではありませんぞ (*´-`)

この1894年製ベーゼンドルファーはオリジナルの状態が素晴らしく見事に残っており、しかもこのピアノとシューベルトが活躍していた1820年代のウィーン式ピアノを同じ空間で弾き比べる機会があったのですが、なんと音も響きもま〜るでそっくりでノケぞりました。さすがは時間が止まっているウィーンの楽器、いわゆる「ウィンナトーン」ってぇシロモノは、シューベルトの時代からシェーンベルク(1874-1951)が生まれ育った時代まであまり変わっていなかったんですね〜(・ω・ゞ

さてこの曲はシューベルトの遺作の例に漏れずに由来が少々ヤヤこしく、表記を決めるのがチトむつかしござりましてな。世間的には五楽章からなる『ピアノソナタ D459』の第3楽章、ということにされることが多い印象がありますが、そもそも五楽章からなる「ソナタ」でしかもスケルツォ楽章が2つ入っているってめっっっちゃ破格ではないですかぃ。シューベルトが自筆譜に『ソナタ』と明記していたのは『D459』の第1楽章と第2楽章のみで、シューベルトの没後に出版されたときには単なる『5つのピアノ曲』として出版されており、それはそれで立派な見識と思います。そのため現代のシューベルトの作品目録には『5つのピアノ曲』の第1曲と第2曲が『ピアノソナタ D459』とされており、残りの3曲は『3つのピアノ曲 D459A』とされております。まぁこの『3つのピアノ曲』というくくりもムリクリ感満載に思えてしまうのですが、いろいろ憶測するのはワタクシにとっては全く意味がないのでこれにてストップさせてくださいませ。

この楽章の随所に聴かれるシューベルトの「歌」は、いわゆる歌曲の歌心とは一風異なっているように感じます。まぁナンだかよくワカランのですが、いかにも鍵盤楽器に歌わせたい方向性の「歌」である気がしてならないんですわ。これがベートーヴェンだったらもう少しカキッとした表現にしたいのですが、この曲はあくまでもシューベルトなので、できる限り滑〜ら〜か〜なレガ〜〜〜〜トwにしたいのです。コレ、ピアノという鍵盤楽器にとってはきはめて難儀な表現なのですが、あたしゃヤリたいのですからヤルしかないのでありま〜す(`・ω・´)

2020年5月15日 (金)

ベートーヴェン『ピアノソナタ第4番 op.7』から第2楽章を1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

ベートーヴェン(1770-1827)の『ピアノソナタ第4番 op.7』から第2楽章を、いつもの1894年ベーゼンドルファー製ウィーンアクションのピアノで弾きました。

ベートーヴェンの緩徐楽章って、ところどころに顔を出す「sf」の処理がきわめて厄介ですよね〜。その中でこの曲のこの楽章はかなりわかりやすくて助かるのですが、それ以外のところが死ぬほど難しいのが困りモノでして。変イ長調(フラット4つですね)になった中間部、右手が「sempre ten.」で左手が「sempre stacc.」なのはまぁよくあるコトだとは思いますが、それに加えて右手が単音でなくかなり密なオルガン的なテヌートが求められているのが鬼畜極まりない。つまりはピアノという減衰音の楽器で弦楽四重奏で上の3声に加えて旋律をオクターヴで重ねた音型を右手で徹頭徹尾テヌートで弾かされたうえに(下にw)、ベースのチェロはピチカートがごとく徹頭徹尾スタッカートでしかも立体的に弾くことを強制されるんですよ〜〜〜〜!

ペダルを十二分に稽古することは誰もが考えるでしょうが、コレでイイかなと思って録音して聞き直してみて弦楽四重奏とは似ても似つかぬ「がんばっておけいこしました!」で止まっている惨状に愕然とするのがスタートライン。右手のたゆたうような抑揚をもって長〜く流れる雰囲気と、左手のピチカートで示されているコード進行とがベツモノであることに気づいて欲しいと思います。そもそもこの部分はピアノという一つの楽器で弾くのはどだい不可能なのですが、幸か不幸かベートーヴェン先生が「このように弾け!」と強要してくるのですからヤラねばなりませぬ (`・ω・´)

楽譜に表示されているデジタル符号である音符をそのままデジタル操作盤である鍵盤の上にヤミクモに「置き直す」ことは単なる「変換」にすぎず、ワリと昔のコンピューター(AI以前ですよ)でも「打ち込み」という形で簡単にできましたしその方が圧倒的に正確に再現されます。まぁ現代では「打ち込み」の方がふさわしい曲が支配的になってしまった感がございますが、少なくともいわゆる「クラシック音楽と称される何か」な時代の音楽は断じてそうではありません。願わくば、打ち込みでは満足できないようなあなた自身の「ファジーな生き物としての感覚」を大切になさってくださいますように (*´-`)

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