フォト

カテゴリー

カテゴリー「音楽>中島みゆき」の50件の記事

2020年9月 7日 (月)

中島みゆき 作詞/作曲『ほうせんか』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『ほうせんか』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

『ほうせんか』は1978年に発売されたシングルLP《おもいで河/ほうせんか》のB面の曲で、なんとオリジナルアルバムには収録されていません。A面の『おもいで河』もオリジナルアルバムに収録されていないのはなんの因果か。『ほうせんか』はいかにもこの時期の中島みゆきの失恋ソングの体をなしていますが、実は前年の1977年にわずか37歳で急死したディレクター竹田健二への追悼曲とのことです。松山千春を育てた名ディレクターの突然の死を、いつフラれるかわからない心と重ねるという、まぁよくあるネタとも言えるかなぁと。

 悲しいですね 人は誰にも
  明日 流す涙が見えません
  別れる人とわかっていれば
  はじめから 寄りつきもしないのに

いやはや、のっけからめっっっちゃ中島みゆきですね〜。失恋の悲しく淋しい心持ちを軽快なギターのリズムにのせて決して重くなく唄うスタイルは1974年山本コウタローとウィークエンドのシングル『岬めぐり』とカブりますが、関係ありやなしや。

 悲しみ深く 胸に沈めたら
  この旅終えて 街に帰ろう『岬めぐり』1974年/山本コウタローとウィークエンド)

この一節、一人旅をしょっちゅうしていたワタクシにとってけっこうハマる感覚でしてね。ここで<>は当然一人旅ですから孤独の象徴で、<>は人とのつながりの象徴。極めて平易な語法ですが、なにやら妙に心に残るんですよ〜。これこれ、しょっちゅう失恋していたからだろうって、そ〜ゆ〜コトは思っていても言わないようにw

 後姿のあの人に幸せになれなんて 祈れない
  いつか さすらいに耐えかねて 私をたずねて来てよ

コレまためっっっちゃ中島みゆきで、徹頭徹尾恨み節でありたいのに結局は戻ってきてほしいという屈折した主人公がどれだけ詠まれてきたことか。自分から追いかける元気も勇気もなく独り淋しく恨み節を重ねて戻ってこない相手を待ち続けるという、コレ、客観的に記述するとかなりコワい状況だなぁと思いつつ、このような人たちって表に現れないだけで決して少なくないだろうなとも感じさせられます。中島みゆきの詩の「闇」の世界は芝居がかっているとか作り過ぎているとか指摘されることがありますが、そのように感じるのは「闇」な世界とは無縁な「幸せな方々」なんだろうなぁと。いや、それが悪いワケでもなんでもなく、モチロン喜ばしいことなんですがね。

 ほうせんか 私の心
  砕けて 砕けて 紅くなれ
  ほうせんか 空まであがれ
  あの人に しがみつけ

最後の<あの人に しがみつけ>の一文、光ってますね。ググってみたら、ホウセンカは今でも普通に小学校で教材として使われることが多いみたいで。種をいっぱいにためた「さや」が熟するとちょっとの刺激ではじけて種を飛ばすという、なんともホントにヨくデキた仕組みに素直に感心していた時代もあったんですよ、ワタクシw

2020年8月 7日 (金)

中島みゆき 作詞/作曲『記憶』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『記憶』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

『記憶』は2000年『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』オリジナル曲。終結部で演奏された素晴らしく盛り上がる大曲でコアなファンの間では名曲の誉れ高い曲ですが、なんとアルバムに収録されていない秘曲でもあります。『記憶』はとりわけめまぐるしい転調の妙が素晴らしく、ハ長調(1番)→イ長調→変ロ長調(間奏)→変ニ長調→変ロ長調(2番)→ト長調→変ロ長調→ロ長調(後奏、なんとここから2分半!)→へ長調→イ長調→ハ長調という、まさに前世そして現世の断片的な『記憶』の数々をたどるかのようです。9分間というエラく長い曲ですが、是非ともこの転調をじっくり味わってくださいませ〜 (`・ω・´)

『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』は、主人公の女(谷山浩子)と犬(中島みゆき)の周りに現在過去の時空を超えて繰り広げられる不思議な不思議な転生の物語。それぞれ前世の業と関連した人生(犬生w)を過ごしており、断片的に散りばめられている前世そして以前の生活の「かけら」をたよりに自らの生を見つめ、判断し覚悟を決めます。主人公の女は、原野商法に引っかかって不正をはたらいてまで貯めたお金を早晩底なし沼に沈んでしまう物件の頭金として取られてしまったという境遇、犬はその物件に居ついている存在・・・なのですが、この二者の間には前世で極めて複雑な関係があったのでした。『記憶』は、この二者が空に昇った魂のごとく、ともに人間の姿で舞台上空の止まり木で寄り添いながら唄っている、まことに美しい情景です。

 もしも過ぎた事を 総て覚えていたら
  何もかもが降り積もって 辛いかもしれない
  もしも生まれる前を 総て覚えていたら
  ここにいない人を探し 辛いかもしれない

生き物の「忘れる能力」って素晴らしく便利な能力なんですね〜。まぁそれ以前に現実世界は極めて複雑かつ多面性のカタマリですから、そもそも「こうである」と認識した時点でそれは自分の観点というフィルターを通して現実世界の切り口だけを見ているワケでして、実は気づかなかったことをすでに忘れていたりするんですけどそれはともかくw。その切り口が自分にとって素敵な思い出となるだけならそれだけで済むのでしょうが、人の心とは複雑なモンで、素敵な思い出であればあるほど逆にそれが現実でなく思い出にすぎないことに気づいて<辛い>という感覚が沸き起こってきたりもします。あ〜めんどくせ〜。

 思い出すなら 幸せな記憶だけを 楽しかった記憶だけを
  辿れたらいいけれど

幸せな記憶>や<楽しかった記憶>は意外と早く忘れてしまい、苦しかった記憶や辛かった記憶ばかりが残ってしまう経験は誰もがお持ちだと思います。あぁどうして人間の記憶ってこんなに融通がきかないんだろ・・・と思いつつ、記憶はあくまでも記憶であって現実でないことに気づいてしまった人にとっては<幸せな記憶>や<楽しかった記憶>であってもやはり辛くなってしまう記憶なのでしょう。あ〜めんどくせ〜w

 忘れてしまったのは 幸せな記憶ばかり 嬉しかった記憶ばかり
  そうであってほしいけれど

かと言ってこんな感覚になってしまうのもチト歪んでいるような気もします(あ〜めんどくせ〜w)が、記憶と現実との乖離を強く感じるタイプの人にとってはこれが無理もない感覚なのでしょうね。まさにどうしようもなく辛く寂しく悲しい人生を歩まねばならぬ人間の「業」の一つの現れなのでしょうか。

 1人で生まれた日に 誰もが掌に握っていた
  未来は透きとおって 見分けのつかない手紙だ
  何が書いてあるの>

でもね、現実と記憶の乖離を強く感じてしまう人であってもワタクシのように単純なヤツであってもw、<未来は透きとおって 見分けのつかない手紙>なんですね。自らの持つ「業」と向き合いつつ自ら切り開いていくのが人生=<透きとおって 見分けのつかない手紙>であって、<何が書いてある>のかは誰にもわからないワケです。そして、まさに『記憶』こそがそこに何が書いてあったのかを見出すための手がかりに他ならないのでした。

 そんな時代もあったねと いつか話せる日がくるわ
  あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ『時代』(1975年))

中島みゆきが『時代』で『第10回ポピュラーソングコンテストつま恋本選会』そして『第6回世界歌謡祭』にてグランプリを受賞したのは、45年前の1975年のこと。さまざまな経験を経てこのような心境に至るのはなかなか厳しい道のりでしょうが、そのような心境になっても<未来は透きとおって 見分けのつかない手紙>であることに変わりはないはずです。『記憶』とは<そんな時代>であり<あんな時代>であり、ともに一個のにんげんを形づくる礎であるという意味において、実は『記憶』の世界観と『時代』の世界観とは相通ずるものなのではないでしょうか。このような『記憶』ほどの曲をアルバムに入れていないというのはチト不自然(まぁ濃すぎるのかもw)で、なにか中島みゆきの自らの芸能人生に対する深謀遠慮が隠されているような気がしてなりません。

2020年7月 7日 (火)

中島みゆき 作詞/作曲『悪女(シングル版)』ソロ:モーツァルトの旅行用クラヴィコード(1763, J.A.Stein)の複製(2002年)で

中島みゆきの『悪女』を、かの神童モーツァルトが7歳のとき(1763年)に買ってもらったJ.A.シュタイン製の旅行用クラヴィコードの複製で弾きました。クラヴィコードはピアノ以前の鍵盤楽器のなかで最も大切とされていたフシがあり、現代古楽器界w周辺では「独りで音楽の神さまと向き合う」ための楽器とみなされて過度に神聖化wされていたりします。ですが、実は、そのような内なる世界は優しく親密な世界でもあるはずで、現代人にとって大切なのはむしろ後者の性格ですよね。なお、クラヴィコードの音量は世人の想像を超えて小さいですから、背景のノイズが気にならない程度の音量に抑えたうえで少〜し耳を澄ませてくださいませ。聴こえてきますよ〜(・o・ゞ

『悪女』は1981年10月発売のシングルA面、オリコン週間ヒットチャート第1位を飾ったまさに大衆的名曲です。どクラシックガチガチだったワタクシですら唄い出しの「んまぁりこのへぇやへぇ〜(チャカチャ~ン)、んでぇんわをかぁけてぇ〜(チャカチャ~ン)、」という独特の語り口が耳にこびりついているほど、それこそそこら中でかかっていましたモンね〜。『悪女』は1982年3月発売のアルバム《寒水魚》の冒頭にも収録されていますが、耳になじんだアレンジとちがって無理矢理悪ぶっている作りモノっぽさが耳について、ま〜る〜で〜聞いてられないんですよ〜。げに刷り込みとは恐ろしきものなり ( ̄ー ̄)

 マリコの部屋へ 電話をかけて
  男と遊んでる芝居 続けてきたけれど


う〜む、『悪女』というタイトルのワリには、この唄い出しからしていつものフラれて捨てられる中島みゆきのオンナじゃないですか〜σ^_^;

 帰れるあての あなたの部屋も
  受話器をはずしたままね 話し中


この感覚は現代のケ〜タイ時代には完っ全に滅んでしまいましたね〜。つ〜か、現代は音声通話すらしないでラインするんでしょね。あたしゃラインはしないから知らんけどw

 悪女になるなら 月夜はおよしよ
  素直になりすぎる
  隠しておいた言葉が ほろり
  こぼれてしまう 「行かないで」


これぞ有名な、あまりにも有名なサビ。中島みゆきの主人公のフラれ方パターンのひとつで「精一杯強がってみせるけど本音は・・・」ですね。『御機嫌如何』(1987年)が典型的でしょうか。

 涙も捨てて 情も捨てて
  あなたが早く私に 愛想を尽かすまで
  あなたの隠す あの娘のもとへ
  あなたを早く 渡してしまうまで


サビの部分で「ん?」と思った聴き手は2番のココでようやっと腑に落ちるようになっていますが、大ヒット曲の悲しさ、2番のココまでちゃんと歌詞を味わってもらえることは少なかったでしょうw。ワタクシも当〜然そのクチでして、そもそも歌詞に2番があったことすら気づいていなかったのでした。まぁコアなファンでなく流行りモンに乗っかる一般人wは、そもそもそんなもんですわな。

それにしてもこの『悪女』って、耳に残りやすく覚えやすい単純さと飽きさせない複雑さとが絶妙にブレンドされたメジャーちぅのメジャーだったんだなぁとあらためて感じさせられました。シングル販売80万枚オーバーの実力は伊達ぢゃなく、有名になってかつ記憶に残る作品にはやはりそれなりの必然性があるのでしょう。時間の淘汰とは残酷なモンで、「知られざる名作」なんつ〜のが常に探されて提案され続けておりますが、結局のところ残念ながらその圧倒的多数が「マニアックな作品」やら何やらの域を脱することができないワケで。そもそも「発掘されて提案されて主張されている」時点で何百周も遅れをとっているのが冷厳な事実で、そんな無理な主張せずに人それぞれの趣向が異なることを再確認しさえすれば、四海波静か(・x・ゞ

2020年6月 7日 (日)

中島みゆき 作詞/作曲『時刻表』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『時刻表』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

『時刻表』は1982年に発売されたアルバム《寒水魚》のB面後半にさしかかる位置づけであろう佳曲。あくまでも地味な曲調ですが、ひっそりとしかし確固たる何かを秘めている曲に思えてなりません。アルバム《寒水魚》のラストに向かって、この『時刻表』→『砂の船』→『歌姫』という流れ、ホントに見事の一言なんですよ〜。

 きのう午後9時30分に そこの交差点を渡ってた
  男のアリバイを証明できるかい
  あんなに目立ってた酔っぱらい 誰も顔は思い浮かばない
  ただ そいつが迷惑だったことだけしか
  たずね人の写真のポスターが 雨に打たれてゆれている

この空虚きわまりない「日常」の描写、散文の醍醐味ですよね〜。現代社会の「日常」とはこんな感じの雑然としているのに空虚な時間をひたすらくぐり抜けるだけで過ぎ去ってしまうだけのもので、その中では一人一人の存在感なんぞ皆無という。<あんなに目立っていた酔っぱらい>でも<顔は思い浮かばない>ワケで、そんな中では<たずね人の写真のポスター>なんて意味を持つはずもなく、<雨に打たれてゆれている>ばかりなり。

 海を見たといっても テレビの中でだけ
  今夜じゅうに行ってこれる海はどこだろう
  人の流れの中で そっと時刻表を見上げる

そんな虚しい中であっても、自分が生きているという実感さえ持てればそこがかけがえのない居場所となって、ありふれた日常に少しの輝きを見出だすことができます。否、そうでないと人生なんてひたすら空虚なだけになってしまいます(まぁそれでも別にイイっちゃイイんですけどねw)。主人公はそこに気づいており、<テレビの中でだけ>しか見ていない<>を実際に見て空虚さを埋めるべく、「日常」の象徴たる<人の流れ>に抗って<そっと時刻表を見上げる>んですね〜。海は全てを包む大いなる存在であって、そこに行けばいささかなりとも安心が得られるのかもしれませんが、主人公はその<>の場所をまだ見つけていないようです。

 満員電車で汗をかいて肩をぶつけてるサラリーマン
  ため息をつくなら ほかでついてくれ
  君の落としたため息なのか 僕がついたため息だったか
  誰も電車の中 わからなくなるから
  ほんの短い停電のように 淋しさが伝染する

そう。現代の日常とは虚しく淋しいものなのです。そんな日常での他人とのやり取りは満員電車の中でのため息のやり取りばかり、ってなかなかの虚無感ではございませんか。しかもそこに満ちる<淋しさが>無関係な他人どうしであるのに<伝染>して共有できてしまうというのは、社会全体がけっこう華やかだったはずの1982年の初めに出たアルバムとして、けっこう異色な着眼点だったのではないでしょうか。このアルバム《寒水魚》の言葉の切れ味の鋭さは相当なモンですよ〜。

 誰が悪いのかを言いあてて どうすればいいかを書きたてて
  評論家やカウンセラーは米を買う
  迷える子羊は彼らほど賢い者はいないと思う
  あとをついてさえ行けば なんとかなると思う
  見えることとそれができることは 別ものだよと米を買う

自らは一般人とは違うと勘違いwしている存在を<評論家やカウンセラー>として示す皮肉、最高ではございませんか。今現在の新型コロナ騒動の中にあって、このような<評論家やカウンセラー>はそれこそうじゃうじゃ跋扈しておりますが、なんのことはない、一般人とは違うとうぬぼれている彼らとて<米を買う>存在であるという意味では一人一人の顔が見えない一般人とナニ一つ変わらないのでありま〜す。実はワタクシ、おそらく小学生の頃から「ガクシキケイケンシャ」というワケわからない存在にえも言われぬ嫌悪感を抱いておりまして、ど〜せ机上の空論な連中だぜぃとかなんとか軽蔑していたのでした。あ、進歩がないのはワタクシだったのかw

 田舎からの手紙は 文字がまた細くなった
  今夜じゅうに行ってこれる海はどこだろう
  人の流れの中でそっと 時刻表を見上げる

若い日々を過ごした「ふるさと」=<田舎>は居場所としてふさわしい存在の一つになるのかも知れませんが、それは自ら探し出した場所ではなく両親から与えられたにすぎない場所。両親が亡くなればもはやそこは戻る場所ではなくなり、居場所でもなくなってしまうのです。<文字がまた細くなった>というのは、それを現実のものとして主人公に突きつけているような、まことに秀逸なレトリックだなぁと。やはり自らの意思で<人の流れのなかでそっと 時刻表を見上げる>ことこそが、己の人生に向き合うことなんですよね。主人公は<評論家やカウンセラー>のように良くお出来になる方々ではない名も無い普通の人物ですから、あくまでも<そっと>と己の人生と向き合うのが「身の丈」なのでしょう。『時刻表』とは<>に行くための経路を探すための手段ですから論理的には「路線図」が正しいのでしょうが、それでは詩にならんwww。はてさて・・・あなたの<>はどこにありますか?

2020年5月 7日 (木)

中島みゆき 作詞/作曲『PAIN』(アルバム《月-WINGS》版)ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『PAIN』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

『PAIN』は1996年に上演された『夜会 VOL.8 問う女』の最終編を飾ったハンパでないスケールの楽曲、1999年のアルバム《月-WINGS》に収録されています。アルバム《日-WINGS》とアルバム《月-WINGS》は同時発売されており、『夜会 VOL.7 2/2』『夜会 VOL.8 問う女』『夜会 VOL.9 2/2(再演)』『夜会 VOL.10 海嘯』で歌われた楽曲から19曲をセレクト、全てアルバム収録のために録り直されています。『PAIN』の音に指揮者の息遣いがしっかり入っていて珍しいなぁと思っていたのですが、なんとロサンゼルスでフルオーケストラとの一発レコーディングを敢行したとのこと。編集を考えればオーケストラと別室でヘッドフォンを装着して合わせるのが当然ですが、ナマ派の自分としては考えられないですよ〜。

「夜会」とは、コンサートでもなく、演劇でもなく、ミュージカルでもない「言葉の実験劇場」をコンセプトとして1989年に始められた舞台で、言葉の使い手である中島みゆきにとってライフワークとも言える存在。『夜会 VOL.8 問う女』の内容はこんな感じ:ラジオ局でのDJを勤める綾瀬まりあに中島みゆきが扮しています。その番組で自分の男を奪った女に酷い言葉を投げかけて復讐したつもりが同姓同名の別人であり、それを知って自暴自棄になったまりあは夜の歓楽街をさまよいます。酔いつぶれたまりあは東南アジアから来た一人の売春婦に出会い、その「ニマンロクセンエン」という日本語しか言えない彼女との心のつながりが、まりあの人生を大きく変えることになります。

『夜会 VOL.8 問う女』のテーマは「言葉の大切さそして重さ」とされています。ラジオ局のDJが発する言葉は、発しているのはDJであっても実はDJ本人の言葉ではないのかも知れません。同じ言葉が、受け手の置かれている状況次第で正反対の意味になることも珍しくはありません。そして言葉を発した結果が他でもない自分に跳ね返ってくるという、言葉とは人間にとってこの上もなく便利な存在でありますが、同時に大変に危険な存在でもあるんですよね〜。この真実は言葉が通じない人物が登場することで浮き彫りにさせられるという、やはり中島みゆきの作品はアタマを使わせて来るなぁと。

 誰からも傷つけられず
  身を守るため傷つけた


主人公にとって言葉とは身を守る道具であり、防御だけでなく攻撃にまで踏み越えることもあったのでしょう。盤石の防御は攻撃側に致命傷を与え得るもので、まさに「攻撃は最大の防御」でありま〜す。インターネットは個人が簡単に世界中に情報発信ができるという画期的なツールですが、それは同時に世界中に攻撃を仕掛けられるということですね。しかしチト考えていただきたい。『夜会 VOL.8 問う女』には『誰だってナイフになれる』という詩がありますが、それによると<人が幸せ見せるとき 人が背中を見せるとき>だけでなく、<自分を嫌いになるとき>にもヒトはナイフになれるのだそうです。「人を呪わば穴二つ」と申しますが、やはり先人が遺した言葉って尊いです。この言葉が現代に残っているということは、いかにみんなが懲りずに「ヤラかして」いるかwということでもありまして、今まさにそこら中で起こっている自分にとって都合のイイ情報ばかりをあつめた脊髄反射的な主張と反論といがみ合いの数々は必然で、まぁしょ〜がないんでしょうね。人間なんて所詮はそんなモンで、「隣の芝生は青い」ですし「他人の不幸は蜜の味(コレは違うかw)」ですが、同時に「人間万事塞翁が馬」でもあり「覆水盆に返らず」でもあります。なんのこっちゃw

 傷つき汚れても 人はまだ傷つく
  痛まない人などあるだろうか
  見えるだろう
  心の中には淋しさの手紙が
  宛名を書きかけてあふれている


ふと我に返って自分の心を見つめ直してみたとき、<淋しさの手紙>が山となっていることに気づけるひとは幸せなのかも知れません。やはり人間なんて懲りないヤツで、苦い経験こそがその人を形作っているのでしょう。進化や適応の過程では、生命を豊かにするような経験を重ねるよりも生命の危機につながるような危険な経験を決して忘れないことこそが、生き残るための大前提ですからね。ですが同時に、いやしくも人間としてこの世に生を受けたからには苦い経験ばかりでなく快い経験もしたいモンじゃぁございませんか。淋しさの手紙>と共に「愉しさの手紙」も束にしたいという心がそれぞれが内に秘めている「何か」であって、それこそが芸術の源泉なのではないでしょうか。あらゆるひとは芸術家なんですよ〜 (`・ω・´)

 歌え雨よ 笑え雨よ
  救いのない人の 愚かさを
  歌え雨よ 笑え雨よ
  限りのない 人の哀しさを


中島みゆきの描く<>は冷たく陰鬱な存在の象徴であることが少なくない『肩に降る雨』なんてもうね)ですが、この『PAIN』の<>は違いますね。『夜会 VOL.8 問う女』では『PAIN』『RAIN』も唄われており、実はこの二曲の詩はほとんどカブっています。この二曲で唄われる雨はともに優しく包み込んでもらえるような慈雨であり、慈雨とはおよそ全ての生き物にとって欠くことのできない水分の源。「痛み」や「淋しさ」はひとを形作る「何か」でしょうが、それが「慈雨」に包み込まれてこそひとは萎縮することなく育まれるのではないでしょうか。中島みゆきの詩には突き刺してくるようなトゲや傷をえぐるような厳しい表現が少なくないですが、それなのに中島みゆきが40年以上もトップアーティストとして受け入れられ続けているのはそれと同時に「共感」という形をした「慈雨」が常に降り注いでいるからなのでしょう。厳しさにはフォローが不可欠なのであります。

2020年4月19日 (日)

「2週間連続無観客コンサート:On Line / On Live 2020」YouTube公開継続ちぅ

「2週間連続無観客コンサート:On Line / On Live 2020」が幕を閉じてはや20日近くになりますが、ヤツらは鉾を収めるどころかますます元気になってきやがってど〜にもしぶといですよね〜。

こちらも手をこまねいているばかりではオモシロくないですが、ウイルスなくせにしぶとく物体表面で長く生きのびやがるヤツらが相手ですから、制圧するのはなかなかに困難だろうなと思わざるを得ません。やはり逆に考えて、我々人類の「価値観」「人生観」その他もろもろひっくるめた「生き方」にどでかい「?」が突きつけられた、と受け止めねばならぬのではないでしょうか。

ワタクシ、先の「2週間連続無観客コンサート:On Line / On Live 2020」ではこの考え方を根底に据えて、中島みゆきの詩のパワーを借りて目先の競争や勝ち負けばかりを見るようになってしまった現代人の姿に疑問を投げかけてみました。キーワードは「目に見えない大切なナニか」です(『星の王子さま』ですネ)出だしでマイクのスイッチを入れ忘れてw少々グダって、おまけに時間切れで尻切れなんとやらになってしまいましたwが、それなりのメッセージは伝えられたかと思います。

使ったのは愉しいことに、FAZIOLI の新品です。世の中に FAZIOLI 演奏は増えてはきましたが、FAZIOLI とはどのような楽器であるのか、というコンセンサスが全くできていないように感じてしまいます。いまだに未知な楽器であるのが FAZIOLI です。そこも含めてどうぞお楽しみくださいませ!

2020年4月 7日 (火)

中島みゆき 作詞/作曲『スクランブル交差点の渡り方』ソロ:モーツァルトの旅行用クラヴィコード(1763, J.A.Stein)の複製(2002年)で

中島みゆきの『スクランブル交差点の渡り方』を、かの神童モーツァルトが7歳のとき(1763年)に買ってもらったJ.A.シュタイン製の旅行用クラヴィコードの複製で弾きました。少し前にマイクと録音機の間に装着して音量レベルを上げる魔法のジョイントを自作しましたが、今回はそのデビュー。それなりの効果があった模様です(・o・ゞ

『スクランブル交差点の渡り方』は2012年発売のアルバム《常夜灯》に収録されています。全12曲の8曲めという地味な配置の曲で、曲調も諦めに満ちた独白調。でありながら、ギスギスして生きづらくなってしまっている現代、そしてやはり他者との関係なしでは生きていけない人間への鋭い指摘に満ちています。

 初めて渡ったときは気分が悪くなり
  しばらく道の隅で休んでいました


この出だしで「ちょっとメンタル弱過ぎぢゃね?」と思う方は、少なくとも現代の感覚に順応できている方でしょう。多少の無理を感じつつも順応できるだけの心の強さ、そして同時に鈍さ(少し前に「鈍感力」って流行りましたよね〜)を兼ね備えている、いわば「普通の現代人」なんですね。しかし残念ながらこの主人公は、現代を生き抜くにはいささかナイーヴに過ぎるのです。それなら人がいないところが自分の居場所・・・と思うのは当然ですが、な〜んと、2番はこうなっています。

 信号のない島に行ったりしました
  誰も来ない道は  道と呼べませんでした
  3つ隣の  中くらいの島に着いて
  信号の灯に喜んだのは確かでした


他者がいないと勝手にできて楽だろうなぁと思うのは無理もございませんが、それは早計。人間は多かれ少なかれ「自分が存在しているという実感」を求めるもので、それこそが自分が生きている証=灯りなんですね。この<信号の灯>を他者との関わりを示す象徴としているところ、さらりとアタマに入ってくるのがやはり流石の中島みゆきであります。この詩で「喜び」を表現しているのはただ一ヶ所この部分だけなのが印象的ですが、主人公は他人のように醒めた目で<喜んだのは確かでした>と。この行き場の無い閉塞感はいたたまれないほどだと思われませんか? 主人公が感じた世間とは・・・

 おそろしく沢山な敵ばかりでした

であり、そして、コレ。

 あまりにも複雑な競い合いでした

このような厳しい世間を渡れない人たちは弱者という枠に追いやられてしまい、表には出られなくなってしまいます。いや、このような人たちは、自分のできる範囲だけをひっそり続けられる居場所さえあれば充分で、表に出られないこと自体が問題なワケではございません。ですが現代の抜け目ない効率ってぇヤツは、そのようなささやかな願いさえも搾取の対象としやがります。こうして「標準」と称される「都合の良い定型」から外れる人の居場所は狭くなる一方なんですよ〜。それぞれ一連の最後に吐き出されるつぶやきが心に刺さります (´・_・`)

 私には向いていないと思いました

「住めば都」と申しますが、この主人公にとっての「都」って一体どこなんでしょう? <中くらいの島>ならハナシは単純ですが、どうやらそうではなさそうです。3番にこんな一節がございます。

 人と違うほうへ出ようとするから
  人とぶつかるばかりだったんです
  人の後ろに付けばいいんだと知りました
  スクランブル交差点では  渡り方にコツが要る


やはり主人公はスクランブル交差点にとっての「都合の良い定型」から外れていますね。スクランブルといえども一定の秩序があり、それを乱すのは邪魔者に他ならず。そのような者には居場所なんぞあるハズがないようです。小さな一個人のささやかな願いさえも世間の空気を読まねば叶えられない。そんなのが万物の霊長たる人間の社会なんでしょか? (`ω´)

 それでも時折  意外な所へ着いてしまったりもするので
  人の行く先を予測するのが大事です


うぅむ、そんな世知辛い現代社会にあってなんとか一個人の願いを叶えるためには、やはりそれなりの悪知恵がないとなかなか厳しいらしいですな (`・ω・´)

2020年4月 2日 (木)

On Line / On Live 2020:2週間連続無観客コンサート支援のクラウドファンディング、本日(4/2)まで!

Olol2020_cloud



3/28に行った生配信初体験は、On Line / On Live 2020:2週間連続無観客コンサートの一環だったのですが、本日で終了です。コレ、実は、主催者による全額持ち出しにも関わらず主催者に一銭も収入がないことが大問題でして。持ち出しは決して少ない金額ではなく、具体的に・・・

・出演者への謝礼 計50万円👀
・コンサート運営費用(主にスタッフへの謝礼、会場利用料) 計51万円💦
・配信機材の費用 計60万円😵

しかもクラウドファンディング自体、迅速な対応が難しかったとのことで、始まったのがようやく数日前だったりします。あらゆる業種が大幅な縮小を余儀なくされていますが、なにとぞご支援を賜りたく思います。まずは、ココにお立ち寄りくださいませ!

https://silkhat.yoshimoto.co.jp/projects/1261

2020年3月 7日 (土)

中島みゆき 作詞/作曲『忘れな草をもう一度』ソロ:モーツァルトの旅行用クラヴィコード(1763, J.A.Stein)の複製(2002年)で

中島みゆきの『忘れな草をもう一度』を、かの神童モーツァルトが7歳のとき(1763年)に買ってもらったJ.A.シュタイン製の旅行用クラヴィコードの複製で弾きました。

クラヴィコードはピアノ以前の鍵盤楽器のなかで最も大切とされていたフシがあり、現代古楽器界w周辺では「独りで音楽の神さまと向き合う」ための楽器とみなされて過度に神聖化wされていたりします。ですが、実は、そのような内なる世界は優しく親密な世界でもあるはずで、現代人にとって大切なのはむしろ後者の性格ですよね。なお、クラヴィコードの音量は世人の想像を超えて小さいですから、背景のノイズが気にならない程度の音量に抑えたうえで少〜し耳を澄ませてくださいませ。聴こえてきますよ〜(・o・ゞ

『忘れな草をもう一度』は1982(昭和57)年発売の中島みゆき13枚目のシングル《横恋慕》のB面で、実はアルバムには収録されていない曲です。忘れな草は春から夏にかけて咲く青い可憐な花、花言葉は「私を忘れないで」そしてそこから転じて「真実の愛」。3月は卒業や別れの季節でもあり、あちこちで「私を忘れないで」「真実の愛=ずっと一緒だよ」という場面が繰り広げられていることでしょう。この季節の花はなんといっても桜でしょうが、忘れな草も忘れないで・・・って、忘れな草ってホントに地味ですからね〜 ヽ( ̄▽ ̄)ノ

それにしてもこの曲の世界はまことに荒涼としていて、果てのないような淋しさを感じてしまいます。2番の出だしと言ったらもうね(T_T)

 春や夏や秋が あるのは
  しあわせ行きの 駅の客です
  君を乗せた 最後の汽車が
  消えた荒野は 長い冬です


主人公(「僕」なので男性です)の置かれた境遇は<長い冬>のままですが、1番の出だしがこうなっているので、主人公が失ってしまった「君」には春が来たのでしょうか。失ってしまった相手が幸せになってしまった経験は誰にでもあるでしょうが、コレ、ホントにホントにホントに切ないですよね。

 ふいに聞いた 噂によれば
  町はそろそろ 春のようです
  君のいない 広い荒野は
  いつも 今でも 冬というのに


まぁそれにしても、主人公の未練がましさもまたなかなかでw この曲の歌詞は中島みゆきにしてはストレートで読みやすいのがイイのか悪いのか。

 君は今も 咲いていますか
  誰のために 咲いていますか
  僕はここで 生きてゆきます
  未練な手紙になりました


さて・・・一定以上の年齢の方で<しあわせ行きの駅>で思い出されるのは、旧国鉄広尾線の『愛国から幸福ゆき』の切符ではないでしょうか。広尾線は中島みゆきが青春を送った帯広から南に伸びていた渋い渋いローカル線で、広大な十勝平野をトコトコ走る風情はなんとも通好みwでございました。そんなローカル線の一枚の切符が一大ブームとなったのは1974(昭和49)年ごろからとのこと、この区間の切符をいったい何百万人が買い求めたことでしょう。この切符を買っても幸せになれなかったヒトたちが国鉄職員に文句を言ったところ、とんちの利いたその職員、「そりゃ〜、アナタがたの最寄り駅から愛国までの往復切符を一緒にしてなきゃダメですよ、キセルじゃ幸せはやってきませんぜと返したとか返さなかったとかwww

1986031408

広尾線の廃止は国鉄民営化直前の1987(昭和62)年2月2日、ワタクシ、前年の3月の一浪めの入試直後に広尾線を訪ねてそこそこの記録を撮ることができましたが入試の結果は惨敗で二浪へと道が開かれてしまいました(爆)。「愛国→幸福」も「幸福→愛国」も、そのとき使ったなつかしの北海道ワイド周遊券も一緒にしていたのになんたることぞw

国鉄広尾線 大正ー幸福 1986.3.14.
 Camera: FUJICA ST-701 Lens: FUJINON 55mm F1.8
1986031412

2020年2月 7日 (金)

中島みゆき 作詞/作曲『二隻の舟』(アルバム《10 WINGS》版)ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『二隻の舟』を、いつもの1894年製アンティークベーゼンドルファーで弾きました。

『二隻の舟』は既に1992年のアルバム《EAST ASIA》の中に入っていましたが、1995年に発売されたアルバム《10 WINGS》ではリメイクされて冒頭を飾っています。『二隻の舟』はファン筋には言わずと知れた「夜会」のテーマソング。「夜会」とは、コンサートでもなく、演劇でもなく、ミュージカルでもない「言葉の実験劇場」をコンセプトとして1989年に始められた舞台で、言葉の使い手である中島みゆきにとってライフワークとも言える存在。そのテーマソングですからワタクシごときが軽々しく見解を述べるのもおこがましく思うのですが、まぁ弾いてしまったからには書かないワケにもいきませぬ。

 おまえとわたしは たとえば二隻の舟
  暗い海を渡ってゆくひとつひとつの舟
  互いの姿は波に隔てられても
  同じ歌を歌いながらゆく二隻の舟


この詩は<おまえとわたし>は<二隻>の<>に乗って<暗い海>を渡っている設定。「隻」という漢字は「ひとつの」という意味を持ち、すなわちそれぞれの舟は分かれておらず「二つでひとつ」という、1+1=1の世界が示されています。・・・という解説はそれこそそこら中にあふれていますね。この曲の歌詞の比喩は中島みゆきにしては異常なまでにwわかりやすく、同時に抽象性をも十全に兼ね備えています。それだけに聴き手それぞれにさまざまな感興を呼び起こすのでしょう。

 時は全てを連れてゆくものらしい
  なのにどうして寂しさを置き忘れてゆくの
  いくつになれば人懐かしさを
  うまく捨てられるようになるの


この曲のイントロはこれ。どんなに人生経験を積んでも<寂しさ>や<人懐かしさ>を捨て去るのは不可能ですもんね。だいたい、人間なんつ〜弱い存在は他者との関係が希薄だと不安に陥るwもので、孤独感とは他者から必要とされていないだけで生じるものではなく、他者を必要としないと思い込んでいるはずの「己」にも実はのしかかってくるんだよなぁ・・・と。

 ひとりでも私は生きられるけど
  でもだれかとならば 人生ははるかに違う
  強気で強気で生きてる人ほど
  些細な寂しさでつまずくものよ
『誕生』1992年)

だからこそ、真に心を通わせられる相手/対象が見つけられたヒトは無敵であります。しみじみと「いぃなぁ」と思わせられるような素敵な老夫婦に出会うたびに、「生涯の伴侶」という日本語は表面的な夫婦関係にとどまらず精神的なつながりをも表現しているんだろうなぁ、と思います。ですが、この『二隻の舟』の世界はあくまでも舟が「ふたつ」ですから、ちぃとばかし状況は異なるようです (´・ω・`)

 敢えなくわたしが波に砕ける日には
  どこかでおまえの舟がかすかにきしむだろう
  それだけのことでわたしは海をゆけるよ
  たとえ舫い綱は切れて嵐に飲まれても


『二隻の舟』とは、心を通わせているとは言えあくまでも他者どうしなのでわかり合えることは絶対にない他者どうしのつながりなのでしょうね。しかしその他者どうしは<互いの姿は波に隔てられても><同じ歌を歌いながらゆく>という、特別な関係の他者なのです。この両者の間には確固たる信頼感がありますが、そこに茫漠たる不安感と静かな覚悟が同居しており、なんとも言い表せぬ心持ちにさせられますね。まぁそもそも人間なんて全てが他者どうしですから、「わかり合う」とはなんぞや、と併せて考えたいかも。

さて、ここで全く別の切り口を提示しておきましょうか。この『二隻の舟』の世界は舞台人にとって「客席」と「舞台」であり、同時に「芸術の神」と「自分」であり、はたまた「自分」と「自分」なんですね〜。神はおのれの心の裡にあり (`・ω・´)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

イベント・演奏会 グルメ・クッキング ファッション・アクセサリ レッスン 写真>Instagram 写真>昔のレンズ/カメラ 学問・資格 文化・芸術 旅行>アジア>フィリピン 旅行>アジア>中国 旅行>アジア>台湾 旅行>アジア>韓国 旅行>アジア>香港 旅行>ヨーロッパ 旅行>中南米 旅行>北米 旅行>北米>アメリカ 旅行>日本>中国 旅行>日本>中部 旅行>日本>九州 旅行>日本>北海道 旅行>日本>北陸 旅行>日本>四国 旅行>日本>山陰 旅行>日本>東北 旅行>日本>甲信越 旅行>日本>近畿 旅行>日本>関東 旅行・地域 日記・コラム・つぶやき 書籍・雑誌 鉄道 鉄道>写真 鉄道>模型 鉄道>模型>マヌ34 音楽 音楽>Soundcloud 音楽>YouTube 音楽>アンドレ・ギャニオン 音楽>クリストフォリピアノ 音楽>ピアノなど鍵盤楽器の歴史 音楽>ピアノ工房ピアピット 音楽>メーカー>BECHSTEIN 音楽>メーカー>Blüthner 音楽>メーカー>Broadwood 音楽>メーカー>Bösendorfer 音楽>メーカー>DIAPASON 音楽>メーカー>EHRBAR 音楽>メーカー>FAZIOLI 音楽>メーカー>Grotrian 音楽>メーカー>Gröber 音楽>メーカー>HORUGEL 音楽>メーカー>KAWAI 音楽>メーカー>NISHIKAWA 音楽>メーカー>Packard 音楽>メーカー>PETROF 音楽>メーカー>Pleyel 音楽>メーカー>Steinway 音楽>メーカー>Streicher 音楽>メーカー>YAMAHA 音楽>中島みゆき 音楽>作曲家>Alberti 音楽>作曲家>Alkan 音楽>作曲家>Bach 音楽>作曲家>Battmann 音楽>作曲家>Beethoven 音楽>作曲家>Boëllmann 音楽>作曲家>Boëly 音楽>作曲家>Brahms 音楽>作曲家>Bruckner 音楽>作曲家>Burgmüller 音楽>作曲家>Buxtehude 音楽>作曲家>Cabezón 音楽>作曲家>Cage(1912-1992) 音楽>作曲家>Chopin 音楽>作曲家>Clark 音楽>作曲家>Clementi 音楽>作曲家>Couperin 音楽>作曲家>Czerny 音楽>作曲家>Debussy 音楽>作曲家>Dubery(1948- ) 音楽>作曲家>Dvořák 音楽>作曲家>Faurè 音楽>作曲家>Fibich 音楽>作曲家>Field 音楽>作曲家>Fischer 音楽>作曲家>Flor Peeters(1903-1986) 音楽>作曲家>Franck 音楽>作曲家>Frescobaldi 音楽>作曲家>Froberger 音楽>作曲家>Galuppi 音楽>作曲家>Giustini 音楽>作曲家>Granados 音楽>作曲家>Grieg 音楽>作曲家>Haydn 音楽>作曲家>Händel 音楽>作曲家>Janáček 音楽>作曲家>Lefébure-Wély 音楽>作曲家>Liszt 音楽>作曲家>MacDowell 音楽>作曲家>Marcello 音楽>作曲家>Mendelssohn 音楽>作曲家>Merikanto 音楽>作曲家>Moir 音楽>作曲家>Mompou 音楽>作曲家>Monti 音楽>作曲家>Mozart 音楽>作曲家>Pachelbel 音楽>作曲家>Ponce 音楽>作曲家>Rinck 音楽>作曲家>Royer 音楽>作曲家>Rubinstein 音楽>作曲家>Satie 音楽>作曲家>Scarlatti 音楽>作曲家>Schubert 音楽>作曲家>Schumann 音楽>作曲家>Scriabin 音楽>作曲家>Sibelius 音楽>作曲家>Suk 音楽>作曲家>Séverac 音楽>作曲家>Tchaikovsky 音楽>作曲家>Wagner 音楽>作曲家>三島元樹 音楽>作曲家>中国人作曲家 音楽>作曲家>吉松隆 音楽>作曲家>大中寅二 音楽>作曲家>鷲見五郎 音楽>楽器>アップライトピアノ 音楽>楽器>クラヴィコード 音楽>楽器>スクエアピアノ 音楽>楽器>チェンバロ 音楽>楽器>フォルテピアノ 音楽>楽器>リードオルガン 音楽>楽器>特殊管楽器 音楽>楽器>鍵盤ハーモニカ 音楽>楽譜作成(lilypond) 音楽>蓄音器 音楽>高橋靖志ハープシコード&クラヴィコード 音楽に思うこと

2020年9月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

最近のコメント

無料ブログはココログ