中島みゆき 作詞/作曲『倒木の敗者復活戦』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で
本日2月23日は中島みゆきの誕生日でございます。
中島みゆきの『倒木の敗者復活戦』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました(*´-`)
『倒木の敗者復活戦』は2012年10月にリリースされたアルバム《常夜灯》に収録されています。この1年半前にあの恐ろしい東日本大震災が起こっており、この曲は東北へのエールではないだろうかという指摘が相次いだとのこと。これについて、中島みゆき本人は2016年11月リリースのアルバム《中島みゆき・21世紀ベストセレクション『前途』》のライナーノーツで
<あまりにも悲惨だった東日本大震災は、私の作品に於いても、発表を控えたり、表現を変更せざるを得ない事態が、いくつか起きた。そんな中で、逆にこの曲の「倒木の」が「東北の」と、聞き取れるとして、受け入れていただく結果になったのも、大震災の影響の一つであったと思われるが、それはそれで否定するまでもないと考えている>
と述べています。
どんな分野であれ、ひとたび作品として世に出されたものは容赦ない評価、理不尽な扱い、誤解、曲解などなど、それこそありとあらゆる形で作者の意図と異なる受け取り方・扱いをされるものでして、表現者たるものその全てを否定せず受け入れねばならぬのが定めであり、なんだかんだ言ってそれこそが多様性を育んできた一面がございます。ただど〜も昨今、その方向性が知ろうとしない故のデタラメに変質してきて多様性を育みづらくなっているような気が致しますが、まぁこんなコト思うのは老害な証拠さねwww
さて不肖ワタクシ、2016年11月に『愛される花、愛されぬ花』をアップしてから8年ちょい、今回の動画で1894年製ベーゼンドルファー(など)で弾く中島みゆきシリーズが100曲となりました。中島みゆき唯一無二の個性たるCONTRALTOな低〜い声域は鍵盤楽器では埋もれやすい音域で1オクターヴ上げて編曲されてしまうのが常。それが不満でここしばらく自分で編曲しているのですが、めっっっちゃ嬉しいことに楽譜が欲しいという声がときどき届きましてな。この100曲めの機会を逃すなと関係各所からハッパかけられてwくっっっそ重い腰を上げ、お馴染みiPad用楽譜ビューアー「Piascore」の楽譜販売サイトで販売怪始です。まぁナメクジの歩みでのんびりとゆコトで屋号は『楽譜舎エスカルゴ』、今回は怪店記念のお祭りで『ヘッドライト・テールライト』『地上の星』『倒木の敗者復活戦』『雨が空を捨てる日は』の4曲リリース、どうぞよしなに〜🐌🐌🐌🐌
*楽譜舎エスカルゴ
https://store.piascore.com/search?c=1911
<打ちのめされたら 打ちひしがれたら
値打ちはそこ止まりだろうか
踏み倒されたら 踏みにじられたら
答はそこ止まりだろうか>
負けても負けても喰らいつけという高度経済成長期な根性論なハズもなくw、この疑問形に仕組まれているのは<そこ止まりだろうか(いや、そうではない)>という「反語」であります。たまたまにせよ必然にせよ失敗や挫折のない人生なんて自分を偽らない限りは存在せず、犯罪を犯していない限りは一個の人間として尊重されるのが人の道だと思うのですが、いまだにいわゆる「出世」の道から外れる者を見下しバカにする傲慢な方々って少なくないよなぁと感じています。まぁたとえそのような方々にそのような扱いを受けたところで<値打ちはそこ止まりだろうか><答はそこ止まりだろうか>、いや、そんなハズはございませぬ!
<光へ翔び去る翼の羽音を 地べたで聞きながら>
おなじみの対語法、ここでは<光>と<地べた>ですね。樹木とは高く天を目指す存在の象徴でしょうが、それがひとたび<倒木>となると、<打ちのめされ><打ちひしがれ>て<踏み倒され><踏みにじられ>る存在の象徴へと変わってしまうというところ、単なる言葉の綾というにはな〜かなかに厳しく人生を照らしていると思います。一寸先は闇でござるよ💦
<望みの糸は切れても 救いの糸は切れない
泣き慣れた者は強かろう 敗者復活戦>
ハ長調で始まって<地べたで>でチラッとフラットを見せておいてのここでのシャープ3つのイ長調への転調、グッと来ますね〜。歌詞と同時にガラッと前向きの空気に滑り込むのはまさに調性音楽の妙で、歌詞を原理的に持てない鍵盤楽器ではこのような箇所こそが試金石。過不足なくヤレばイイのは確かで、そう指摘するだけなら理解していない方でも可能ですが、ま〜コレが、たいてい、どっちかに偏っちまうんですわ〜😅
<あざ嗤え英雄よ 嗤うな傷ある者よ
傷から芽を出せ 倒木の復活戦>
<英雄>は他者をあざ嗤ってもまぁ英雄のままでいられましょうが、<傷ある者>が他者をあざ嗤っては自らをさらに貶めるばかりです。<傷ある者>にとっては、その傷こそが復活そして再生、転生のきっかけ。切り倒された切り株の傷からは芽が出ますし、乾燥して何年も眠りについていた種子の固い皮からも傷をつけて水分さえ吸わせてやれば案外と芽が出ます。一般的に<敗者復活戦>とは他者との戦いですが、人生における<復活戦>とは<傷>に象徴される痛手のような何かをきっかけとして自ら動き出す、自らとの戦いでもありま〜す😤
<望みの糸は切れても 救いの糸は切れない
泣き慣れた者は強かろう 敗者復活戦>
あらためてこの2行、応援ソングとして見事に奮い立たせてくれますよね〜。<救いの糸>という<望みの糸>が切れてナイぢゃねぇかと論理的wに突っ込むのはヤボ、ココは対語法の妙を愉しむトコね。いくら<復活戦>が自らとの戦いであるとはいえ、小さき個人の力ではどうにもできずに<望みの糸>が切れたと感じる状況に陥ることだってあるでしょうよ。何度も痛手をこうむれば、もちろん強くはなりますが、倒れてしまうことだってありますもんね。そのようなときでもどこかしらに「糸口」があるものと信じなくては倒れたままなワケで、まぁそれもまた人生ではありますが、起き上がりたい人にとって<救いの糸は切れない>という言葉は力になりますね〜。
<傷から芽を出せ 倒木の復活戦>
この動画で使っているピアノは100年以上昔、1894年製のアンティークピアノ。このような楽器を使ってこのような曲を弾くのはまことに愉しいです。現代では世間で聞こえる音のほとんどは電気を通していますが、このころに世間で聞こえていた音は生音が主流でした。1877年にエジソンが蓄音機を実用化し、このピアノが作られた1894年にはSPレコードの大量生産ができるようになって、次第に「録音」というシロモノが世間に知られるようになった時代。こんな時代の楽器がどれほど豊かな音世界を伝えていたのか、この動画で使っている楽器は奇跡的にオリジナルほぼそのまま、まさに時代の生き証人です。
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