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カテゴリー「音楽>中島みゆき」の52件の記事

2020年12月 2日 (水)

中島みゆき 作詞/作曲『雪傘』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『雪傘』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

『雪傘』は2008年に発売された工藤静香のシングル《NIGHT WING/雪傘》のための1曲です。静かに独りつぶやくような淋しく切なくまことに哀しい唄で、中島みゆきは2010年発売の自身のアルバム《真夜中の動物園》でセルフコピーしています。『雪傘』《真夜中の動物園》ではラスト『愛だけを残せ』の前に置かれていますが、アルバムのラストへの道しるべとして秀逸な一曲と思います。この曲も転調の妙が素晴らしく、まずイントロがロ短調なのに一瞬でロ長調に変わる唄い出しが光ります。そこからニ長調に移るのはまぁ普通なのですが、ラストのラスト、ニ長調で万感の想いを込めて語り終わった刹那、後奏で「ふっ」とヘ長調にすべりこむのがもぅキュン死ですよ〜〜〜〜。

最初から最後まで人類が厄介な疫病の前に屈したこの2020年、こんなやるせない状況を自分の誕生日に語るためにふさわしい曲だと思って選曲したのですが、耳コピしていても弾く稽古をしていても沸き上がってくる無念さを抑えるのがことのほか難しく、たびたび中断を余儀なくされました。詩がしっくりきてしまうというのはなかなかに怖いことでしたが、それでもなにやら救われる感じにしてもらえるのは中島みゆきの力なのでしょうか、詩の力なのでしょうか、音楽の力なのでしょうか。是非ともこの『雪傘』『荒野より』とを併せて味わっていただければと思います。

 迷惑でなければ傍にいて  車を拾うまで雪の中
  これきりと心で決めている私の  最後のわがまま聞いてね
  灯り溢れる窓からは  疑いもしない歌がこぼれ来る
  「Happy Birthday 今日の主役は何処?」
  誰かが気づいて探しに来るまで
  雪傘の柄に指を添えて
  思い出を返しましょう


『雪傘』の1番です。雪の降る日、相手の誕生会にそっと別れを告げにきた主人公。限りない哀しみに満ちているのは確かですが、同時になんとも静かで美しい情景ですね。あくまでもひとときの情景に過ぎないのですがさまざまな感興を呼び起こしてくれますし、最後の<雪傘の柄に指を添えて 思い出を返しましょう>のまぁなんとも美しいこと。この情景からして<雪傘>とは相手が主人公にさしかけている傘のことで、その柄に指を添えるということは相手の手に指を添えているひとときに他ならないんですね。ちょ〜っとウルウル来ませんこと?

 足跡消しながら後ずさる  雪の上逃げる小ギツネみたいに
  小枝の代わりに嘘を抱いて  思い出消しながら遠ざかりましょう

  「Happy Birthday」
  今日を祝う人が居てくれたのなら  安心できるわ
  いつまで1人ずつなんて良くないことだわ  心配したのよ
  雪傘の柄に指を添えて
  ゆく時を聞いている


2番です。部屋の中にはすでに相手の誕生日を祝う人が居るのでしょう。それに対して<安心できるわ>と語るのは、主人公が最後まで相手を優しく思い遣る気持ち、否、精一杯の強がりなのでしょうね。<小枝の代わりに嘘を抱いて 思い出消しながら遠ざかりましょう>ですから、<思い出を消す>のも<安心できるわ>も、そして相手に別れを告げることも、全て主人公の嘘。そりゃまぁ当然のことで、このような状況で未練がなかろうハズがございませんわ。

 ありとあらゆる悲しいことから
  あなたが守ってくれていたんだね
  当たり前のように暮らした  あの頃
  アリガトって伝え忘れたね


3番、まさに起承転結の「転」のお手本のような一連ですね。大切ななにかこそ失ってはじめて存在の大きさを知る、というのは古来言い古されてきた真理ではありますが、それをこんなに短い一節に込められるとは。静かな静かな『雪傘』ですが、この短い一節に込められた激情たるや、まさに万感の想いというにも足りぬ、ほとばしり出る強い強い想いであります。

 「Happy Birthday」
  今日を祝う人が居てくれたのなら  安心できるわ
  いつまで1人ずつなんて良くないことだわ  心配したのよ
  雪傘の柄に指を添えて
  ゆく時を聞いている
  思い出全部  アリガト


厄介な疫病のために人類が失ったものは計り知れず、それはあらゆる人が人生を根本からひっくり返されてしまったほどの衝撃で、今なおとどまるところを知らないですね。既に指摘されていることではありますが、これって実は、従来いわゆる「人類の繁栄」とされてきたシロモノがきわめて脆弱だったことが明るみに出たということではないでしょうか。いわゆる「人類の繁栄」とは基本的に経済的物質的な繁栄だった(過去形にしますぞ)と思いますが、そのような「目に見えやすい何か」は多分に表面的な存在であって儚いものだというのもず〜〜〜っと指摘され続けていますよね。

 かんじんなことは、目に見えないんだよ(サン・テグジュペリ『星の王子さま』1943年/内藤濯訳)

まことに僭越ではありますが、今般の厄介な疫病によって断ち切られてしまった全てのつながりそして「目に見えない大切な何か」のために、この演奏を贈りたいと思います。

 思い出全部  アリガト



もう一本、この厄介な疫病による混乱当初に出演したオンラインコンサート『OLOL2020』で、「目に見えない大切な何か」について中島みゆきの詩と音楽を借りて語りました。併せてご覧くださればと思います。

2020年10月30日 (金)

中島みゆき 作詞/作曲『荒野より』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『荒野より』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

『荒野より』は2011年に発売されたアルバム《荒野より》の口開けの曲です。アルバムの1曲めにふさわしい、前向きな推進力と堂々たる決意表明とを併せ持った歌詞なのですが、コレ、音楽的に両立させるのはなかなか厄介でして。ここでポイントになるのは強〜烈に揺るぎないテンポ設定で、これぞスタジオミュージシャンたちの面目躍如。CDで聴ける決してスピード感を前面に出さずに完璧にメトロノーム的なテンポ設定は見事の一言で、少しでもスピードが速くても遅くても速くなっても遅くなってもこの揺るぎなく堂々と厳しくたゆまず進み続ける雰囲気はにじみ出なくなってしまいます。コレって〜、ユルく揺らぎだらけな音楽ばかりやっているワタクシにとって〜、めっちゃ鬼門なんですね〜ヽ( ̄▽ ̄)ノ

 僕は走っているだろう  君と走っているだろう
  あいだにどんな距離があっても
  僕は笑っているだろう  君と笑っているだろう
  あいだにどんな時が流れても


サビへの導入のこの部分、加速度的に社会的分断が進んでいるところに厄介な疫病が蔓延している2020年現在の我々にズバッと刺さってきますね〜。会いたい人に会えず、仲間と集まろうとしても集まれず、というこの状況がいつまで続くか見当もつかない現在、人と人との間にあるのはつながりではなく、果てしない<距離>と<>ばかりになってしまいました。それでも<>は<>と共に走り共に笑っているという、この姿はまことに美しく気高いですね。中島みゆきの音楽は毒なばかりwでなく、強い強いメッセージなのです。

 望みは何かと訊かれたら  君がこの星に居てくれることだ
  力は何かと訊かれたら  君を想えば立ち直れることだ


『荒野より』の出だしはこのように始まります。<君がこの星に居てくれる>だけが望みで、<君を想う>だけで力が湧いてくるとは、なんといういさぎよさでしょうか。果てしない距離と時が間に立ちふさがっていても、このように強い信頼そして愛があればこその人間の強さではないでしょうか。ただ単純に「強い」だけではそれよりも強い何かに脆くも負けてしまいますが、真に意識を共有できる対象の象徴たる<>がいれば、そこに「粘り」という不思議な助太刀が現れるのでしょうね。はて、みなさんにとって、<>とは? 人とは必ずしも限らないですよね〜。

 朝陽の昇らぬ日は来ても  君の声を疑う日はないだろう
  誓いは嵐にちぎれても  君の声を忘れる日はないだろう


2番はこのように始まります。君の声>に対する無限の信頼そして愛、この閉塞しきって人間が我を失ってしまっている今を生き抜かねばならぬ我々に向けられた輝かしいメッセージですよね〜。我々に生命がある限りこの厄介な疫病から逃れるすべはございませんで、そのため少しでも他者とのつながりを薄くしなければならぬ・・・というそもそもの人間活動を否定されている現在の状況、まさに<朝陽の昇らぬ日>であり<誓いが嵐にちぎれた>状況であるように思えます。それでも疑わないのは<君の声>で、忘れないのも<君の声>。<君の声>とはこのように信頼できる存在の象徴であって、その存在さえあれば人は無敵になれるのではないでしょうか。ここで思い出すのは、やはり『二隻の舟』の一節。

 おまえとわたしは たとえば二隻の舟
  暗い海を渡ってゆくひとつひとつの舟
  互いの姿は波に隔てられても
  同じ歌を歌いながらゆく二隻の舟
『二隻の舟』1992年)

世の中が<荒野>となってしまった現在、一人の人間としてどのように敵(=疫病だけではなく、疫病に惑わされて我を失ってしまっている世間の姿)に屈せずに自らの尊厳を守り続けられるのかが問われていると思います。厳しいと言えばあまりにもあんまりにも厳しいのですが、その厳しい環境の居心地を少しでもわずかでも良くできるのは、ひたすらに藝術であります。我田引水とおっしゃらないでネw

 あらゆる藝術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。(夏目漱石『草枕』1907(M40)年)

『荒野より』は、現在を生きる我々へ中島みゆきそして藝術が向けてくれた、強く厳しく愛にあふれる応援歌です (`・ω・´)

 荒野より君に告ぐ  僕の為に立ち停まるな
  荒野より君を呼ぶ  後悔など何もない


2020年9月 7日 (月)

中島みゆき 作詞/作曲『ほうせんか』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『ほうせんか』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

『ほうせんか』は1978年に発売されたシングルLP《おもいで河/ほうせんか》のB面の曲で、なんとオリジナルアルバムには収録されていません。A面の『おもいで河』もオリジナルアルバムに収録されていないのはなんの因果か。『ほうせんか』はいかにもこの時期の中島みゆきの失恋ソングの体をなしていますが、実は前年の1977年にわずか37歳で急死したディレクター竹田健二への追悼曲とのことです。松山千春を育てた名ディレクターの突然の死を、いつフラれるかわからない心と重ねるという、まぁよくあるネタとも言えるかなぁと。

 悲しいですね 人は誰にも
  明日 流す涙が見えません
  別れる人とわかっていれば
  はじめから 寄りつきもしないのに

いやはや、のっけからめっっっちゃ中島みゆきですね〜。失恋の悲しく淋しい心持ちを軽快なギターのリズムにのせて決して重くなく唄うスタイルは1974年山本コウタローとウィークエンドのシングル『岬めぐり』とカブりますが、関係ありやなしや。

 悲しみ深く 胸に沈めたら
  この旅終えて 街に帰ろう『岬めぐり』1974年/山本コウタローとウィークエンド)

この一節、一人旅をしょっちゅうしていたワタクシにとってけっこうハマる感覚でしてね。ここで<>は当然一人旅ですから孤独の象徴で、<>は人とのつながりの象徴。極めて平易な語法ですが、なにやら妙に心に残るんですよ〜。これこれ、しょっちゅう失恋していたからだろうって、そ〜ゆ〜コトは思っていても言わないようにw

 後姿のあの人に幸せになれなんて 祈れない
  いつか さすらいに耐えかねて 私をたずねて来てよ

コレまためっっっちゃ中島みゆきで、徹頭徹尾恨み節でありたいのに結局は戻ってきてほしいという屈折した主人公がどれだけ詠まれてきたことか。自分から追いかける元気も勇気もなく独り淋しく恨み節を重ねて戻ってこない相手を待ち続けるという、コレ、客観的に記述するとかなりコワい状況だなぁと思いつつ、このような人たちって表に現れないだけで決して少なくないだろうなとも感じさせられます。中島みゆきの詩の「闇」の世界は芝居がかっているとか作り過ぎているとか指摘されることがありますが、そのように感じるのは「闇」な世界とは無縁な「幸せな方々」なんだろうなぁと。いや、それが悪いワケでもなんでもなく、モチロン喜ばしいことなんですがね。

 ほうせんか 私の心
  砕けて 砕けて 紅くなれ
  ほうせんか 空まであがれ
  あの人に しがみつけ

最後の<あの人に しがみつけ>の一文、光ってますね。ググってみたら、ホウセンカは今でも普通に小学校で教材として使われることが多いみたいで。種をいっぱいにためた「さや」が熟するとちょっとの刺激ではじけて種を飛ばすという、なんともホントにヨくデキた仕組みに素直に感心していた時代もあったんですよ、ワタクシw

2020年8月 7日 (金)

中島みゆき 作詞/作曲『記憶』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『記憶』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

『記憶』は2000年『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』オリジナル曲。終結部で演奏された素晴らしく盛り上がる大曲でコアなファンの間では名曲の誉れ高い曲ですが、なんとアルバムに収録されていない秘曲でもあります。『記憶』はとりわけめまぐるしい転調の妙が素晴らしく、ハ長調(1番)→イ長調→変ロ長調(間奏)→変ニ長調→変ロ長調(2番)→ト長調→変ロ長調→ロ長調(後奏、なんとここから2分半!)→へ長調→イ長調→ハ長調という、まさに前世そして現世の断片的な『記憶』の数々をたどるかのようです。9分間というエラく長い曲ですが、是非ともこの転調をじっくり味わってくださいませ〜 (`・ω・´)

『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』は、主人公の女(谷山浩子)と犬(中島みゆき)の周りに現在過去の時空を超えて繰り広げられる不思議な不思議な転生の物語。それぞれ前世の業と関連した人生(犬生w)を過ごしており、断片的に散りばめられている前世そして以前の生活の「かけら」をたよりに自らの生を見つめ、判断し覚悟を決めます。主人公の女は、原野商法に引っかかって不正をはたらいてまで貯めたお金を早晩底なし沼に沈んでしまう物件の頭金として取られてしまったという境遇、犬はその物件に居ついている存在・・・なのですが、この二者の間には前世で極めて複雑な関係があったのでした。『記憶』は、この二者が空に昇った魂のごとく、ともに人間の姿で舞台上空の止まり木で寄り添いながら唄っている、まことに美しい情景です。

 もしも過ぎた事を 総て覚えていたら
  何もかもが降り積もって 辛いかもしれない
  もしも生まれる前を 総て覚えていたら
  ここにいない人を探し 辛いかもしれない

生き物の「忘れる能力」って素晴らしく便利な能力なんですね〜。まぁそれ以前に現実世界は極めて複雑かつ多面性のカタマリですから、そもそも「こうである」と認識した時点でそれは自分の観点というフィルターを通して現実世界の切り口だけを見ているワケでして、実は気づかなかったことをすでに忘れていたりするんですけどそれはともかくw。その切り口が自分にとって素敵な思い出となるだけならそれだけで済むのでしょうが、人の心とは複雑なモンで、素敵な思い出であればあるほど逆にそれが現実でなく思い出にすぎないことに気づいて<辛い>という感覚が沸き起こってきたりもします。あ〜めんどくせ〜。

 思い出すなら 幸せな記憶だけを 楽しかった記憶だけを
  辿れたらいいけれど

幸せな記憶>や<楽しかった記憶>は意外と早く忘れてしまい、苦しかった記憶や辛かった記憶ばかりが残ってしまう経験は誰もがお持ちだと思います。あぁどうして人間の記憶ってこんなに融通がきかないんだろ・・・と思いつつ、記憶はあくまでも記憶であって現実でないことに気づいてしまった人にとっては<幸せな記憶>や<楽しかった記憶>であってもやはり辛くなってしまう記憶なのでしょう。あ〜めんどくせ〜w

 忘れてしまったのは 幸せな記憶ばかり 嬉しかった記憶ばかり
  そうであってほしいけれど

かと言ってこんな感覚になってしまうのもチト歪んでいるような気もします(あ〜めんどくせ〜w)が、記憶と現実との乖離を強く感じるタイプの人にとってはこれが無理もない感覚なのでしょうね。まさにどうしようもなく辛く寂しく悲しい人生を歩まねばならぬ人間の「業」の一つの現れなのでしょうか。

 1人で生まれた日に 誰もが掌に握っていた
  未来は透きとおって 見分けのつかない手紙だ
  何が書いてあるの>

でもね、現実と記憶の乖離を強く感じてしまう人であってもワタクシのように単純なヤツであってもw、<未来は透きとおって 見分けのつかない手紙>なんですね。自らの持つ「業」と向き合いつつ自ら切り開いていくのが人生=<透きとおって 見分けのつかない手紙>であって、<何が書いてある>のかは誰にもわからないワケです。そして、まさに『記憶』こそがそこに何が書いてあったのかを見出すための手がかりに他ならないのでした。

 そんな時代もあったねと いつか話せる日がくるわ
  あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ『時代』(1975年))

中島みゆきが『時代』で『第10回ポピュラーソングコンテストつま恋本選会』そして『第6回世界歌謡祭』にてグランプリを受賞したのは、45年前の1975年のこと。さまざまな経験を経てこのような心境に至るのはなかなか厳しい道のりでしょうが、そのような心境になっても<未来は透きとおって 見分けのつかない手紙>であることに変わりはないはずです。『記憶』とは<そんな時代>であり<あんな時代>であり、ともに一個のにんげんを形づくる礎であるという意味において、実は『記憶』の世界観と『時代』の世界観とは相通ずるものなのではないでしょうか。このような『記憶』ほどの曲をアルバムに入れていないというのはチト不自然(まぁ濃すぎるのかもw)で、なにか中島みゆきの自らの芸能人生に対する深謀遠慮が隠されているような気がしてなりません。

2020年7月 7日 (火)

中島みゆき 作詞/作曲『悪女(シングル版)』ソロ:モーツァルトの旅行用クラヴィコード(1763, J.A.Stein)の複製(2002年)で

中島みゆきの『悪女』を、かの神童モーツァルトが7歳のとき(1763年)に買ってもらったJ.A.シュタイン製の旅行用クラヴィコードの複製で弾きました。クラヴィコードはピアノ以前の鍵盤楽器のなかで最も大切とされていたフシがあり、現代古楽器界w周辺では「独りで音楽の神さまと向き合う」ための楽器とみなされて過度に神聖化wされていたりします。ですが、実は、そのような内なる世界は優しく親密な世界でもあるはずで、現代人にとって大切なのはむしろ後者の性格ですよね。なお、クラヴィコードの音量は世人の想像を超えて小さいですから、背景のノイズが気にならない程度の音量に抑えたうえで少〜し耳を澄ませてくださいませ。聴こえてきますよ〜(・o・ゞ

『悪女』は1981年10月発売のシングルA面、オリコン週間ヒットチャート第1位を飾ったまさに大衆的名曲です。どクラシックガチガチだったワタクシですら唄い出しの「んまぁりこのへぇやへぇ〜(チャカチャ~ン)、んでぇんわをかぁけてぇ〜(チャカチャ~ン)、」という独特の語り口が耳にこびりついているほど、それこそそこら中でかかっていましたモンね〜。『悪女』は1982年3月発売のアルバム《寒水魚》の冒頭にも収録されていますが、耳になじんだアレンジとちがって無理矢理悪ぶっている作りモノっぽさが耳について、ま〜る〜で〜聞いてられないんですよ〜。げに刷り込みとは恐ろしきものなり ( ̄ー ̄)

 マリコの部屋へ 電話をかけて
  男と遊んでる芝居 続けてきたけれど


う〜む、『悪女』というタイトルのワリには、この唄い出しからしていつものフラれて捨てられる中島みゆきのオンナじゃないですか〜σ^_^;

 帰れるあての あなたの部屋も
  受話器をはずしたままね 話し中


この感覚は現代のケ〜タイ時代には完っ全に滅んでしまいましたね〜。つ〜か、現代は音声通話すらしないでラインするんでしょね。あたしゃラインはしないから知らんけどw

 悪女になるなら 月夜はおよしよ
  素直になりすぎる
  隠しておいた言葉が ほろり
  こぼれてしまう 「行かないで」


これぞ有名な、あまりにも有名なサビ。中島みゆきの主人公のフラれ方パターンのひとつで「精一杯強がってみせるけど本音は・・・」ですね。『御機嫌如何』(1987年)が典型的でしょうか。

 涙も捨てて 情も捨てて
  あなたが早く私に 愛想を尽かすまで
  あなたの隠す あの娘のもとへ
  あなたを早く 渡してしまうまで


サビの部分で「ん?」と思った聴き手は2番のココでようやっと腑に落ちるようになっていますが、大ヒット曲の悲しさ、2番のココまでちゃんと歌詞を味わってもらえることは少なかったでしょうw。ワタクシも当〜然そのクチでして、そもそも歌詞に2番があったことすら気づいていなかったのでした。まぁコアなファンでなく流行りモンに乗っかる一般人wは、そもそもそんなもんですわな。

それにしてもこの『悪女』って、耳に残りやすく覚えやすい単純さと飽きさせない複雑さとが絶妙にブレンドされたメジャーちぅのメジャーだったんだなぁとあらためて感じさせられました。シングル販売80万枚オーバーの実力は伊達ぢゃなく、有名になってかつ記憶に残る作品にはやはりそれなりの必然性があるのでしょう。時間の淘汰とは残酷なモンで、「知られざる名作」なんつ〜のが常に探されて提案され続けておりますが、結局のところ残念ながらその圧倒的多数が「マニアックな作品」やら何やらの域を脱することができないワケで。そもそも「発掘されて提案されて主張されている」時点で何百周も遅れをとっているのが冷厳な事実で、そんな無理な主張せずに人それぞれの趣向が異なることを再確認しさえすれば、四海波静か(・x・ゞ

2020年6月 7日 (日)

中島みゆき 作詞/作曲『時刻表』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『時刻表』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

『時刻表』は1982年に発売されたアルバム《寒水魚》のB面後半にさしかかる位置づけであろう佳曲。あくまでも地味な曲調ですが、ひっそりとしかし確固たる何かを秘めている曲に思えてなりません。アルバム《寒水魚》のラストに向かって、この『時刻表』→『砂の船』→『歌姫』という流れ、ホントに見事の一言なんですよ〜。

 きのう午後9時30分に そこの交差点を渡ってた
  男のアリバイを証明できるかい
  あんなに目立ってた酔っぱらい 誰も顔は思い浮かばない
  ただ そいつが迷惑だったことだけしか
  たずね人の写真のポスターが 雨に打たれてゆれている

この空虚きわまりない「日常」の描写、散文の醍醐味ですよね〜。現代社会の「日常」とはこんな感じの雑然としているのに空虚な時間をひたすらくぐり抜けるだけで過ぎ去ってしまうだけのもので、その中では一人一人の存在感なんぞ皆無という。<あんなに目立っていた酔っぱらい>でも<顔は思い浮かばない>ワケで、そんな中では<たずね人の写真のポスター>なんて意味を持つはずもなく、<雨に打たれてゆれている>ばかりなり。

 海を見たといっても テレビの中でだけ
  今夜じゅうに行ってこれる海はどこだろう
  人の流れの中で そっと時刻表を見上げる

そんな虚しい中であっても、自分が生きているという実感さえ持てればそこがかけがえのない居場所となって、ありふれた日常に少しの輝きを見出だすことができます。否、そうでないと人生なんてひたすら空虚なだけになってしまいます(まぁそれでも別にイイっちゃイイんですけどねw)。主人公はそこに気づいており、<テレビの中でだけ>しか見ていない<>を実際に見て空虚さを埋めるべく、「日常」の象徴たる<人の流れ>に抗って<そっと時刻表を見上げる>んですね〜。海は全てを包む大いなる存在であって、そこに行けばいささかなりとも安心が得られるのかもしれませんが、主人公はその<>の場所をまだ見つけていないようです。

 満員電車で汗をかいて肩をぶつけてるサラリーマン
  ため息をつくなら ほかでついてくれ
  君の落としたため息なのか 僕がついたため息だったか
  誰も電車の中 わからなくなるから
  ほんの短い停電のように 淋しさが伝染する

そう。現代の日常とは虚しく淋しいものなのです。そんな日常での他人とのやり取りは満員電車の中でのため息のやり取りばかり、ってなかなかの虚無感ではございませんか。しかもそこに満ちる<淋しさが>無関係な他人どうしであるのに<伝染>して共有できてしまうというのは、社会全体がけっこう華やかだったはずの1982年の初めに出たアルバムとして、けっこう異色な着眼点だったのではないでしょうか。このアルバム《寒水魚》の言葉の切れ味の鋭さは相当なモンですよ〜。

 誰が悪いのかを言いあてて どうすればいいかを書きたてて
  評論家やカウンセラーは米を買う
  迷える子羊は彼らほど賢い者はいないと思う
  あとをついてさえ行けば なんとかなると思う
  見えることとそれができることは 別ものだよと米を買う

自らは一般人とは違うと勘違いwしている存在を<評論家やカウンセラー>として示す皮肉、最高ではございませんか。今現在の新型コロナ騒動の中にあって、このような<評論家やカウンセラー>はそれこそうじゃうじゃ跋扈しておりますが、なんのことはない、一般人とは違うとうぬぼれている彼らとて<米を買う>存在であるという意味では一人一人の顔が見えない一般人とナニ一つ変わらないのでありま〜す。実はワタクシ、おそらく小学生の頃から「ガクシキケイケンシャ」というワケわからない存在にえも言われぬ嫌悪感を抱いておりまして、ど〜せ机上の空論な連中だぜぃとかなんとか軽蔑していたのでした。あ、進歩がないのはワタクシだったのかw

 田舎からの手紙は 文字がまた細くなった
  今夜じゅうに行ってこれる海はどこだろう
  人の流れの中でそっと 時刻表を見上げる

若い日々を過ごした「ふるさと」=<田舎>は居場所としてふさわしい存在の一つになるのかも知れませんが、それは自ら探し出した場所ではなく両親から与えられたにすぎない場所。両親が亡くなればもはやそこは戻る場所ではなくなり、居場所でもなくなってしまうのです。<文字がまた細くなった>というのは、それを現実のものとして主人公に突きつけているような、まことに秀逸なレトリックだなぁと。やはり自らの意思で<人の流れのなかでそっと 時刻表を見上げる>ことこそが、己の人生に向き合うことなんですよね。主人公は<評論家やカウンセラー>のように良くお出来になる方々ではない名も無い普通の人物ですから、あくまでも<そっと>と己の人生と向き合うのが「身の丈」なのでしょう。『時刻表』とは<>に行くための経路を探すための手段ですから論理的には「路線図」が正しいのでしょうが、それでは詩にならんwww。はてさて・・・あなたの<>はどこにありますか?

2020年5月 7日 (木)

中島みゆき 作詞/作曲『PAIN』(アルバム《月-WINGS》版)ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『PAIN』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

『PAIN』は1996年に上演された『夜会 VOL.8 問う女』の最終編を飾ったハンパでないスケールの楽曲、1999年のアルバム《月-WINGS》に収録されています。アルバム《日-WINGS》とアルバム《月-WINGS》は同時発売されており、『夜会 VOL.7 2/2』『夜会 VOL.8 問う女』『夜会 VOL.9 2/2(再演)』『夜会 VOL.10 海嘯』で歌われた楽曲から19曲をセレクト、全てアルバム収録のために録り直されています。『PAIN』の音に指揮者の息遣いがしっかり入っていて珍しいなぁと思っていたのですが、なんとロサンゼルスでフルオーケストラとの一発レコーディングを敢行したとのこと。編集を考えればオーケストラと別室でヘッドフォンを装着して合わせるのが当然ですが、ナマ派の自分としては考えられないですよ〜。

「夜会」とは、コンサートでもなく、演劇でもなく、ミュージカルでもない「言葉の実験劇場」をコンセプトとして1989年に始められた舞台で、言葉の使い手である中島みゆきにとってライフワークとも言える存在。『夜会 VOL.8 問う女』の内容はこんな感じ:ラジオ局でのDJを勤める綾瀬まりあに中島みゆきが扮しています。その番組で自分の男を奪った女に酷い言葉を投げかけて復讐したつもりが同姓同名の別人であり、それを知って自暴自棄になったまりあは夜の歓楽街をさまよいます。酔いつぶれたまりあは東南アジアから来た一人の売春婦に出会い、その「ニマンロクセンエン」という日本語しか言えない彼女との心のつながりが、まりあの人生を大きく変えることになります。

『夜会 VOL.8 問う女』のテーマは「言葉の大切さそして重さ」とされています。ラジオ局のDJが発する言葉は、発しているのはDJであっても実はDJ本人の言葉ではないのかも知れません。同じ言葉が、受け手の置かれている状況次第で正反対の意味になることも珍しくはありません。そして言葉を発した結果が他でもない自分に跳ね返ってくるという、言葉とは人間にとってこの上もなく便利な存在でありますが、同時に大変に危険な存在でもあるんですよね〜。この真実は言葉が通じない人物が登場することで浮き彫りにさせられるという、やはり中島みゆきの作品はアタマを使わせて来るなぁと。

 誰からも傷つけられず
  身を守るため傷つけた


主人公にとって言葉とは身を守る道具であり、防御だけでなく攻撃にまで踏み越えることもあったのでしょう。盤石の防御は攻撃側に致命傷を与え得るもので、まさに「攻撃は最大の防御」でありま〜す。インターネットは個人が簡単に世界中に情報発信ができるという画期的なツールですが、それは同時に世界中に攻撃を仕掛けられるということですね。しかしチト考えていただきたい。『夜会 VOL.8 問う女』には『誰だってナイフになれる』という詩がありますが、それによると<人が幸せ見せるとき 人が背中を見せるとき>だけでなく、<自分を嫌いになるとき>にもヒトはナイフになれるのだそうです。「人を呪わば穴二つ」と申しますが、やはり先人が遺した言葉って尊いです。この言葉が現代に残っているということは、いかにみんなが懲りずに「ヤラかして」いるかwということでもありまして、今まさにそこら中で起こっている自分にとって都合のイイ情報ばかりをあつめた脊髄反射的な主張と反論といがみ合いの数々は必然で、まぁしょ〜がないんでしょうね。人間なんて所詮はそんなモンで、「隣の芝生は青い」ですし「他人の不幸は蜜の味(コレは違うかw)」ですが、同時に「人間万事塞翁が馬」でもあり「覆水盆に返らず」でもあります。なんのこっちゃw

 傷つき汚れても 人はまだ傷つく
  痛まない人などあるだろうか
  見えるだろう
  心の中には淋しさの手紙が
  宛名を書きかけてあふれている


ふと我に返って自分の心を見つめ直してみたとき、<淋しさの手紙>が山となっていることに気づけるひとは幸せなのかも知れません。やはり人間なんて懲りないヤツで、苦い経験こそがその人を形作っているのでしょう。進化や適応の過程では、生命を豊かにするような経験を重ねるよりも生命の危機につながるような危険な経験を決して忘れないことこそが、生き残るための大前提ですからね。ですが同時に、いやしくも人間としてこの世に生を受けたからには苦い経験ばかりでなく快い経験もしたいモンじゃぁございませんか。淋しさの手紙>と共に「愉しさの手紙」も束にしたいという心がそれぞれが内に秘めている「何か」であって、それこそが芸術の源泉なのではないでしょうか。あらゆるひとは芸術家なんですよ〜 (`・ω・´)

 歌え雨よ 笑え雨よ
  救いのない人の 愚かさを
  歌え雨よ 笑え雨よ
  限りのない 人の哀しさを


中島みゆきの描く<>は冷たく陰鬱な存在の象徴であることが少なくない『肩に降る雨』なんてもうね)ですが、この『PAIN』の<>は違いますね。『夜会 VOL.8 問う女』では『PAIN』『RAIN』も唄われており、実はこの二曲の詩はほとんどカブっています。この二曲で唄われる雨はともに優しく包み込んでもらえるような慈雨であり、慈雨とはおよそ全ての生き物にとって欠くことのできない水分の源。「痛み」や「淋しさ」はひとを形作る「何か」でしょうが、それが「慈雨」に包み込まれてこそひとは萎縮することなく育まれるのではないでしょうか。中島みゆきの詩には突き刺してくるようなトゲや傷をえぐるような厳しい表現が少なくないですが、それなのに中島みゆきが40年以上もトップアーティストとして受け入れられ続けているのはそれと同時に「共感」という形をした「慈雨」が常に降り注いでいるからなのでしょう。厳しさにはフォローが不可欠なのであります。

2020年4月19日 (日)

「2週間連続無観客コンサート:On Line / On Live 2020」YouTube公開継続ちぅ

「2週間連続無観客コンサート:On Line / On Live 2020」が幕を閉じてはや20日近くになりますが、ヤツらは鉾を収めるどころかますます元気になってきやがってど〜にもしぶといですよね〜。

こちらも手をこまねいているばかりではオモシロくないですが、ウイルスなくせにしぶとく物体表面で長く生きのびやがるヤツらが相手ですから、制圧するのはなかなかに困難だろうなと思わざるを得ません。やはり逆に考えて、我々人類の「価値観」「人生観」その他もろもろひっくるめた「生き方」にどでかい「?」が突きつけられた、と受け止めねばならぬのではないでしょうか。

ワタクシ、先の「2週間連続無観客コンサート:On Line / On Live 2020」ではこの考え方を根底に据えて、中島みゆきの詩のパワーを借りて目先の競争や勝ち負けばかりを見るようになってしまった現代人の姿に疑問を投げかけてみました。キーワードは「目に見えない大切なナニか」です(『星の王子さま』ですネ)出だしでマイクのスイッチを入れ忘れてw少々グダって、おまけに時間切れで尻切れなんとやらになってしまいましたwが、それなりのメッセージは伝えられたかと思います。

使ったのは愉しいことに、FAZIOLI の新品です。世の中に FAZIOLI 演奏は増えてはきましたが、FAZIOLI とはどのような楽器であるのか、というコンセンサスが全くできていないように感じてしまいます。いまだに未知な楽器であるのが FAZIOLI です。そこも含めてどうぞお楽しみくださいませ!

2020年4月 7日 (火)

中島みゆき 作詞/作曲『スクランブル交差点の渡り方』ソロ:モーツァルトの旅行用クラヴィコード(1763, J.A.Stein)の複製(2002年)で

中島みゆきの『スクランブル交差点の渡り方』を、かの神童モーツァルトが7歳のとき(1763年)に買ってもらったJ.A.シュタイン製の旅行用クラヴィコードの複製で弾きました。少し前にマイクと録音機の間に装着して音量レベルを上げる魔法のジョイントを自作しましたが、今回はそのデビュー。それなりの効果があった模様です(・o・ゞ

『スクランブル交差点の渡り方』は2012年発売のアルバム《常夜灯》に収録されています。全12曲の8曲めという地味な配置の曲で、曲調も諦めに満ちた独白調。でありながら、ギスギスして生きづらくなってしまっている現代、そしてやはり他者との関係なしでは生きていけない人間への鋭い指摘に満ちています。

 初めて渡ったときは気分が悪くなり
  しばらく道の隅で休んでいました


この出だしで「ちょっとメンタル弱過ぎぢゃね?」と思う方は、少なくとも現代の感覚に順応できている方でしょう。多少の無理を感じつつも順応できるだけの心の強さ、そして同時に鈍さ(少し前に「鈍感力」って流行りましたよね〜)を兼ね備えている、いわば「普通の現代人」なんですね。しかし残念ながらこの主人公は、現代を生き抜くにはいささかナイーヴに過ぎるのです。それなら人がいないところが自分の居場所・・・と思うのは当然ですが、な〜んと、2番はこうなっています。

 信号のない島に行ったりしました
  誰も来ない道は  道と呼べませんでした
  3つ隣の  中くらいの島に着いて
  信号の灯に喜んだのは確かでした


他者がいないと勝手にできて楽だろうなぁと思うのは無理もございませんが、それは早計。人間は多かれ少なかれ「自分が存在しているという実感」を求めるもので、それこそが自分が生きている証=灯りなんですね。この<信号の灯>を他者との関わりを示す象徴としているところ、さらりとアタマに入ってくるのがやはり流石の中島みゆきであります。この詩で「喜び」を表現しているのはただ一ヶ所この部分だけなのが印象的ですが、主人公は他人のように醒めた目で<喜んだのは確かでした>と。この行き場の無い閉塞感はいたたまれないほどだと思われませんか? 主人公が感じた世間とは・・・

 おそろしく沢山な敵ばかりでした

であり、そして、コレ。

 あまりにも複雑な競い合いでした

このような厳しい世間を渡れない人たちは弱者という枠に追いやられてしまい、表には出られなくなってしまいます。いや、このような人たちは、自分のできる範囲だけをひっそり続けられる居場所さえあれば充分で、表に出られないこと自体が問題なワケではございません。ですが現代の抜け目ない効率ってぇヤツは、そのようなささやかな願いさえも搾取の対象としやがります。こうして「標準」と称される「都合の良い定型」から外れる人の居場所は狭くなる一方なんですよ〜。それぞれ一連の最後に吐き出されるつぶやきが心に刺さります (´・_・`)

 私には向いていないと思いました

「住めば都」と申しますが、この主人公にとっての「都」って一体どこなんでしょう? <中くらいの島>ならハナシは単純ですが、どうやらそうではなさそうです。3番にこんな一節がございます。

 人と違うほうへ出ようとするから
  人とぶつかるばかりだったんです
  人の後ろに付けばいいんだと知りました
  スクランブル交差点では  渡り方にコツが要る


やはり主人公はスクランブル交差点にとっての「都合の良い定型」から外れていますね。スクランブルといえども一定の秩序があり、それを乱すのは邪魔者に他ならず。そのような者には居場所なんぞあるハズがないようです。小さな一個人のささやかな願いさえも世間の空気を読まねば叶えられない、そんな場所が偉そうにも万物の霊長たるとはほざく人間の社会であってイイのでしょうか? (`ω´)

 それでも時折  意外な所へ着いてしまったりもするので
  人の行く先を予測するのが大事です


うぅむ、そんな世知辛い現代社会にあってなんとか一個人の願いを叶えるためには、やはりそれなりの悪知恵がないとなかなか厳しいらしいですな (`・ω・´)

2020年4月 2日 (木)

On Line / On Live 2020:2週間連続無観客コンサート支援のクラウドファンディング、本日(4/2)まで!

Olol2020_cloud



3/28に行った生配信初体験は、On Line / On Live 2020:2週間連続無観客コンサートの一環だったのですが、本日で終了です。コレ、実は、主催者による全額持ち出しにも関わらず主催者に一銭も収入がないことが大問題でして。持ち出しは決して少ない金額ではなく、具体的に・・・

・出演者への謝礼 計50万円👀
・コンサート運営費用(主にスタッフへの謝礼、会場利用料) 計51万円💦
・配信機材の費用 計60万円😵

しかもクラウドファンディング自体、迅速な対応が難しかったとのことで、始まったのがようやく数日前だったりします。あらゆる業種が大幅な縮小を余儀なくされていますが、なにとぞご支援を賜りたく思います。まずは、ココにお立ち寄りくださいませ!

https://silkhat.yoshimoto.co.jp/projects/1261

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