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カテゴリー「音楽>中島みゆき」の57件の記事

2021年4月30日 (金)

中島みゆき 作詞/作曲『あした』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『あした』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

『あした』は、KDD(現KDDI)のCM「001」に使われた、中島みゆき初のCMソングです。1989年3月リリースの第24作めのシングル《あした》が発売され、翌1990年のアルバム《夜を往け》に少しだけアレンジを変えて収録されていまして、この動画はアルバム《夜を往け》収録バージョンを耳コピしました。『あした』『糸』大ヒット以前の定番とも言われることがあるほどの曲だそうですが、なるほど確かにしっとりした落ち着きの中に相手に向けた強い感情に満ちた迫力を秘めた、はかなくも強く美しい曲だと思います。

 イヤリングを外して 綺麗じゃなくなっても
  まだ私のことを見失ってしまわないでね


恋は盲目と申しまして一瞬にして燃え上がるものですが、それが愛となるためには持続可能wになるためのさまざまな障壁がございますね。非日常が日常となるみたいなモンですから、その過程でそれまで気づかなかった相手のしょ〜もない素顔がわらわらとw湧いて出てきて「百年の恋もいっぺんで醒める」ような悲劇も数知れず。しかも、ここでは<見失ってしまわないでね>ですからそれどころではなく、恋人という特別な存在(=目につく存在)が特別でない存在(=目につかない存在)になってしまいかねない、という日常化の残酷な一面をえぐっていますね (`・ω・´)

 カーラジオが嵐を告げている
  2人は黙りこんでいる
  形のないものに 誰が
  愛なんてつけたのだろう 教えてよ


隣に相手がいるのが当たり前の車の中ですが、普通の天気予報ではなく嵐の予報。恋という非日常には形がありますが愛という日常はに形がない・・・と指摘されれば、なるほど、そのような一面があってもおかしくはないのかも知れません。人生にはなんとも皮肉で切ない切り口があるもんですね〜。形がないから日常として持続するのか日常として持続させるために形がなくなるのかで分けてまとめるのも乱暴にすぎますけど。

 もしも明日 私たちが何もかもを失くして
  ただの心しか持たないやせた猫になっても
  もしも明日 あなたのため何の得もなくても
  言えるならその時 愛を聞かせて


『あした』のサビ、中島みゆきは真摯な愛を悲痛な声を絞り出すように唄いあげます。この『あした』が使われたKDD「001」のCMがネット上に2種類とも確認できましてな(すごい時代ですわ〜)。最初のCMはスーツケースが移動するだけの地味なものでAメロの2番が使われており、のちに切り替えられたCMは海外赴任とおぼしき彼氏を出国審査場入り口まで笑顔で見送るも彼氏が背中を見せたとたんに別れの辛さに号泣するというものでさすがのこのサビが使われておりました(この悲しきヒロインは若かりし奥貫薫とのこと)1989年といえばバブル真っ最中、そのような時代にこのような真摯な愛を唄いあげる曲をリリースしてしかもオリコンチャートの100位以内が33週連続を叩き出すとは、やはりさすがの中島みゆきではございませんか。

 ガラスならあなたの手の中で壊れたい
  ナイフならあなたを傷つけながら折れてしまいたい


真摯な愛であってもただひたすらに美しいだけでなくこのようないささか病的な方向に突き進んでしまう場合もあり得るのがひとの心の複雑なところですが、このような少し怖い人間の業を唄わせたら中島みゆきの右に出るものなし。この一連は冷静に考えれば現代のストーカーに他ならないワケですが、それを1989年のバブル真っ最中に唄いつつ、なにやら妙に美しい一連にまとめてくるんですよね〜。中島みゆきってホントに不思議な芸術家なんだなぁと。

 何もかも愛を追い越して
  どしゃ降りの1車線の人生
  凍えながら2人共が
  2人分傷ついている 教えてよ


非日常である恋は全てに勝りますが、ひとたび日常となった愛は形がないがゆえに「支払い」や「成績」などwという形がある生活やら仕事やら子育てやらに追い越されがちでしょう。この『あした』では人生とはどしゃ降りの中を凍えながら歩む1車線の片道道路。中島みゆきはすでに『あした』に先立つこと12年の1977年に『ホームにて』で成功という汽車に乗れるかどうかという比喩で人生を描いておりますし、その5年後の1982年には『傾斜』でひたすら坂道を登るという比喩で人生を描いています。

人生が苦難の連続であるのは誰しも認めざるを得ないと思いますが、この『あした』には同行者と共に1車線の人生を歩んでいるという何よりも大きな救いがありますね。愛には恋のように燃えるような形こそございませんが、愛そのものが人生の同行者という強い味方であり、よりどころなのでしょう。してみると、中島みゆきの絞り出すような悲痛な声はただ悲痛なだけでないように聴こえてきませんか? (*´-`)

 もしも明日 私たちが何もかもを失くして
  ただの心しか持たないやせた猫になっても
  もしも明日 あなたのため何の得もなくても
  言えるならその時 愛を聞かせて


2021年3月31日 (水)

中島みゆき 作詞/作曲『ホームにて』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『ホームにて』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

『ホームにて』は、1977年のアルバム《あ・り・が・と・う》のB面の2曲めという落ち着いた位置に収録されています。また、有名なシングル《わかれうた》のB面でもありますね〜。《あ・り・が・と・う》は中島みゆきのようやく3作めのオリジナルアルバム、いまだ20歳台半ばの若者が「ふるさと」に対する切ないだけでない心持ちをこれほどまで複雑に唄えるのかと驚かされます。まぁ優れた芸術家は年齢なんぞ無関係におそるべき能力を持っているんだなぁ、と絶望感さえ抱かせてくれますわ〜。

 ふるさとへ 向かう最終に
  乗れる人は 急ぎなさいと
  やさしい やさしい声の 駅長が
  街なかに 叫ぶ


もう、この唄い出しからして謎に満ちていますね〜。<乗れる人>という不可思議な表現、「故郷に錦を飾る」という古い言葉がありますが、成功者だけが胸を張って故郷に凱旋できた時代の感覚でしょうか。成功できなかった人物は「負け犬」としてさげすまれましたし、昭和の時代には「ご近所に顔向けできない」という表現もごく普通でしたし。このような感覚って現代でも案外と色濃く残っていて古くさい、ふざけんな、という目でみられますが、なんだかんだ言って結局、人よりもナニかしら優れた一面がなければ社会では「使えない」ヤツとみなされてしまって生き抜くのは難しいではございませんか。このような世間を渡りづらいヒトを差別してしまうのは古くさい感覚というだけでなく、はなはだ遺憾ながら残酷な真理を示している感覚のような気がします。まぁこれって裏を返せば、実は弱肉強食な生き物の世界では到底生き抜けなかった「使えない」存在をも許容してくれる、という人間社会の厳しくも不思議な一面をもあらわしているとも言えようかと思います。

 走りだせば 間に合うだろう
  かざり荷物を ふり捨てて
  街に 街に挨拶を
  振り向けば ドアは閉まる

なりふり構わず人生を急ぎ走ればふるさとに帰る資格をもてるかもしれない、しかし無情にも、今度の仕事でも芽が出なかったなぁとため息をつく主人公でしょうか。まぁ誰しもこのような感覚は身に覚えがあろうかと思います。我々がふだん目にする人物は成功者ですから、世の中のみんなうまく行っているのにどうして自分だけはうまく行かないのさ、と絶望感にうちひしがれて涙にくれる日々もありますよね〜。それほどでもないにしても、取り立てて取り柄もなく立身出世なんぞ関係なく、静かに人生をやり過ごしたいだけのひとも世の中にはたくさんいるに違いありません。それでも世間様とおつき合いしているとどうしても「成功しなければ失敗」という評価にさらされてしまうワケで、そのような世の中って煩わしいだけでしょう。この主人公、ただ単純にふるさとに帰りたい気持ちがあるだけなのに社会の目にさらされて迷い、諦めざるを得ないひとりなのかも知れませんね。

 ふるさとは 走り続けた ホームの果て
  叩き続けた 窓ガラスの果て
  そして 手のひらに残るのは
  白い煙と乗車券


人生は成功という汽車に乗るためのプラットホーム、失敗を許容してくれて長い目で見てくれるのは一見優しいかのように錯覚させられますが、実はいつまでも失敗や挫折しか経験できないひとを本当に救ってはいないのかもしれません。この一節はまことに美しくさらりと流してしまいそうになりますが、そのようなひとの心に寄り添い共感してくれる珠玉の一節であるように感じました。中島みゆきは取り立てて取り柄もなく目立たない普通の存在に光を当てると言われますし事実そうだとも思いますが『地上の星』2000年)、本当に目立たない普通の存在は光を当てられて世間の目にさらされたら煩わしいとしか感じないでしょう。この一節を味わってみると、中島みゆきの光の当て方が人目にさらすような当て方とは全く異なることに気づかされます。『ホームにて』のリリースは1977年で中島みゆきはようやく20歳台半ば、人生に対する徒労感や虚無感をみごとに表現したこの一節には慄然とさせられますわ〜。

 涙の数 ため息の数 溜ってゆく空色のキップ
  ネオンライトでは 燃やせない
  ふるさと行きの乗車券


1968年のいしだあゆみの《ブルー・ライト・ヨコハマ》ではないですが、青白く光る蛍光灯や赤くてもシャープで白熱灯のそれとは全く異なるネオンライトは都会の象徴。ふるさとこそが主人公の失敗や挫折の数々を癒せるのでしょうが、ふるさとという存在は同時に負け犬をさげすむ場所でもありましたね。主人公の傷を癒す場所はいったいどこにあるのでしょうか。

2021年2月23日 (火)

中島みゆき 作詞/作曲『進化樹』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの誕生日は本日2月23日、これに合わせて『進化樹』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

『進化樹』は、テレビ朝日系『帯ドラマ劇場・やすらぎの郷』の続編として2019年4月9日から1年にわたって放送された『テレビ朝日開局60周年記念・帯ドラマ劇場 やすらぎの刻~道』主題歌の1曲です。『やすらぎの刻~道』は前作に引き続き老人ホーム「やすらぎの郷 La Strada」のその後を描く【郷】編と、山梨を舞台に昭和~平成を生き抜いた無名の夫婦の生涯を描いた【道】編の2層仕立て。当初は『進化樹』『離郷の歌』の2曲が主題歌に使われていましたが、【道】の物語が「平成」編に入るタイミングで『観音橋』『終り初物』の2曲が追加されています。

この一連の主題歌群はまず2019年にシングル盤《離郷の歌/進化樹》として2曲発売され、翌2020年の正月明け1月8日に発売が始まった中島みゆき43作めのアルバム《CONTRALTO》に全て収録されています。このアルバム発売開始と同じタイミングで中島みゆきは「最後の全国ツアー」と銘打って2020年の全国ツアーを1月12日にスタートしましたが折悪しく例の厄介な疫病の蔓延にともなう政府からのイベント開催自粛要請のため途中2月28日から中止を余儀なくされてしまいました。中島みゆきの68歳(!)の誕生日が2月23日で、直後2月26日の大阪公演を終えたタイミングでのツアー中止とは、なんだか自然が中島みゆきの全国ツアーを終わらせたくなかったんぢゃね? とすら思える展開に思えたことは白状しますが、う〜ん、まぁ、考えてみればコンサート自体ができなくなっているのでそれはどうなのよとw

 高い空 腕を伸ばして どこまでも咲こうとした
  めぐりあわせの儚さに まだ気づきもせず


『進化樹』はこのように始まります。すでに2行めで不穏な空気を漂わせてくれるところは、安定の中島みゆきクオリティ。この巨木は屋久杉か淡墨桜か、はたまた「この木なんの木」か、巨木って案外と近所の神社に「保存樹木」としてあったりしますね。環境省が「巨樹・巨木林データベース」を公開してますので、興味のある方はどうぞ。日本の巨木のトップクラスってクスノキやイチョウが多いんですよ〜。

 誰か教えて
  僕たちは今 ほんとうに進化をしただろうか
  この進化樹の最初の粒と
  僕は たじろがずに向きあえるのか


1番のサビはこうなっています。人類が個人でも集合体でもなにやらごちゃごちゃ頑張る営みって、時代が変わっても本質的にはな〜んにも変わってないんですよね〜。ホレ、中国の数千年昔の古文書に「最近の若いモノは」と書かれていたって言うぢゃあ〜りませんか(何か違うw)。それでも、自らの生を生き抜くためにもがき苦しみ、人との<めぐりあわせ>に活路を見出し、ウマく行ったと思ったらけつまづいたりして<儚さ>に涙する、ま〜なんとも人間って懲りない生きモノですわ ヽ( ̄▽ ̄)ノ

 踏み固めた道も薄れて また始めから荒れ野原
  人はなんて幼いのだろう 転ばなければわからない


同じ失敗を繰り返すのはアホだとはわかっていても、先人たちが身をもって懇切丁寧に道を示してくれていても、見えないときは見えないんですよね〜。転んだことにさえ気づかずにいることもままあったりしてほんっっっとにイヤになりますが、ここ10年くらいのSNSの興隆のおかげ/せいで、このような人間の愚かさそして醜さってつくづく無限大なんだなぁと思わされます。今般の厄介な疫病って、このようなおバカな人類に対する警告ではないかなぁと感じている人は少なくないと思うのですが、そこでどんなに崇高な人類愛を謳ったところで悪意ある権力/武力/経済力wに対しては無力なのもまた真実で。それだからこそ、せめて自らの近しい範囲でのささやかな幸福を愛でられるような心を大切にはぐくみたいものではございませんか。

 誰か聞かせて
  遥か昔へ 僕は 何を置いて来たのだろう
  何も知らずに 僕はひとりだ
  この樹の根は 何処に在ったのだろう


人類というこの懲りない存在をナゼ神は創り出したもうたのか、自分というこの醜く矛盾に満ちた存在がなんのために産み落とされたのか。人類が遥か昔へ置いて来てしまったのはナニか、<>は本当はナニモノなのか、これまた古来から優秀でメンドーな奴らが邪魔くさくw考え続けていることではございますが、いわゆる「業」やら「原罪」やらはそこを象徴的に提示しているんでしょうね。自らの根っこを見つけられたヒト、そしてその根っこを活かせたヒト、決して多くはいないと思いますが、中島みゆきがその中でもトップクラスの存在であることは疑いないでしょう。

「初心忘るべからず」と申します。出逢ったときのえも言われぬワクワク感って、それが日常となるにしたがってどうしても薄れてしまうもの。ですが、我々が活躍を目にできるほどの大きな存在は新しいワクワク感を感じる豊かさが日常であって、いわゆる「怠惰な日常」とは無縁なんですね。だからこそ到達できた高みを凡人である我々が享受できる豊かさをかみしめつつ、自分がワクワクと出逢ったときの心持ちを折に触れて思い出したいですね〜 (*´-`)

2021年1月28日 (木)

中島みゆき 作詞/作曲『無限・軌道』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『無限・軌道』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

『無限・軌道』のオリジナルは、2004年1月の《夜会VOL.13─24時着 0時発》のために作られ、第8場「法廷」で中島みゆき扮する“あかり”によって唄われています。そして、2005年発売のアルバム《転生(TEN-SEI)》にタイトルを『無限・軌道』と変えて新たに3番を追加して収録されています。なお、アルバム《転生(TEN-SEI)》は《夜会VOL.13─24時着 0時発》のオリジナル曲から11曲をセレクトしたもので、いわばサウンド・トラック盤ともいえるアルバムです。

 無限・軌道は真空の川  終わりと始めを繋ぐ『無限・軌道』2004年)
 今日は倒れた旅人たちも 生まれ変って歩きだすよ『時代』1975年)
 伝えておくれ故郷へ ここで生きてゆくと『麦の唄』2014年)

アルバム《転生(TEN-SEI)》のタイトルともなっている転生という思想は1989年から続く「夜会」すべてに関わっておりまして、中島みゆきの実質のデビュー曲である『時代』の世界観そして中島みゆきの音楽世界で頻繁に目にする思想でもあります。文字通り生まれ変わるのみならず、人生の転換点であっても時代の転換点であっても転生となり得るワケで、今般の厄介な疫病にさらされている我々はすなはち《転生(TEN-SEI)》の真っただ中にいるのかも知れませんね〜。タイトルが無限軌道ではなく『無限・軌道』ですから、軌道が無限に続くという単純なイメージではなく、自然界というか宇宙の果てしなさと人生の限りない可能性とを並列に感じてほしいのではないでしょうか。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を思い起こす方も少なからずいらっしゃるのでは。

 本当のことは  無限大にある
  すべて失くしても  すべては始まる


『無限・軌道』はこのように始まりますが、これ、まさに今の時代にふさわしい語りかけではないでしょうか。厄介な疫病がためにあらゆる人が人生をひっくり返されてしまうほどの激動がとどまるところを知らないですが、厳しくも、始まりは<すべて失くした>ところだったりするんですよね〜。そして、ネタって実はそこいら中に転がっているはずで、それをどのように生活の糧とするか結局はアイディア勝負なのが突きつけられているという。まぁ実はコレって自分にとってはか〜なり厳しいんですけど。ど〜しましょw

 行く先表示のまばゆい灯りは
  列車の中から  誰にも見えない


この指摘はまことにわかりやすく、一瞬にして納得のたとえですね〜。このようなちょっとした視点の変化を使って印象深く語りかけてくるのは、言葉の使い手である中島みゆきのまさに真骨頂。まぁ列車に乗るときにゃ必ず行先表示を確認してから乗るでしょ〜、と突っ込むのはヤボですぜ、ヤボw

 誇らしくもなく  珍しくもなく
  普通の暮らしの一日のように
  或る朝  或る夜  君は乗るだろう
  懐かしいあの人々と  永遠をゆく鉄道の客となって


「夜会」版になくアルバムで追加されたのが、この一節です。そう言われてみると、詩的にも音楽的にもなんとな〜く唐突な印象もなきにしもあらずですが、一聴してそれとさとらせない技術はやはり一流であります。生きとし生けるもの全てその意思とは無関係に無限軌道の客であって、それを意識したタイミングからその人の人生が始まるんですね。それが2回目の『誕生』であり《転生》でもあるということは言い古されておりますが、いやはや、気づいたら最後、ず〜っと厳しくなるんですけどね〜 (`・ω・´)

2020年12月21日 (月)

中島みゆき 作詞/作曲『クリスマスソングを唄うように』ソロ:モーツァルトの旅行用クラヴィコード(1763, J.A.Stein)の複製(2002年)で

中島みゆきの『クリスマスソングを唄うように』を、かの神童モーツァルトが7歳のとき(1763年)に買ってもらったJ.A.シュタイン製の旅行用クラヴィコードの複製で弾きました。クラヴィコードはピアノ以前の鍵盤楽器のなかで最も大切とされていたフシがあり、現代古楽器界w周辺では「独りで音楽の神さまと向き合う」ための楽器とみなされて過度に神聖化wされていたりします。ですが、実は、そのような内なる世界は優しく親密な世界でもあるはずで、現代人にとって大切なのはむしろ後者の性格ですよね。なお、クラヴィコードの音量は世人の想像を超えて小さいですから、背景のノイズが気にならない程度の音量に抑えたうえで少〜し耳を澄ませてくださいませ。聴こえてきますよ〜(・o・ゞ

『クリスマスソングを唄うように』は1986年12月18〜21日に両国国技館でのライヴ『歌暦Page86 -恋歌-』で歌われ、それを収録したライヴCD《歌暦》の第6曲めに置かれています。ギターの音を軽く確かめつつ「クリスマス、もうすぐだね」の一言に続いてイントロが始まり、中島みゆきによるギター弾き語りソロとなっています。「中島みゆきがアマチュア時代に作った唯一のクリスマスソング」という曲でなかなか耳にする機会はないのですが、それにしてもそれにしても、クリスマスソングほど中島みゆきに合わないネタはないじゃないのよ〜・・・というのは誰もが納得できるツッコミではないでしょうか ( ̄ー ̄)

 クリスマスソング唄うように 今日だけ愛してよ
  暦変われば他人に戻る


出だしからして、あぁ、納得の中島みゆきでありました。ここでホッとしてしまうのってなかなかのヒネくれ具合だとも思いますが、中島みゆきの世界に引きずり込まれていればしゃ〜ないんですよね〜w(・x・ゞ

 急に慈悲深くなった人々と
  そして 変わらずに すげない貴方(ひと)


すげない=素気ない=素っ気ない、ですね。この季節、街の人々はみんな「クリスマス、楽しんでね〜」というのが挨拶代わりになりますが、それなのにただ一人だけ変わらずに<すげない>のが主人公の想い人であります。う〜ん、これでこそ中島みゆきですなww

中島みゆきにはクリスマスを歌った曲がもう一曲『LOVERS ONLY』がございますが、コレ、恋人たち「ONLY」という題名なんですね〜。それじゃ恋人になっていない主人公はどないせぇっちゅんじゃ・・・というどころか、クリスマスには二人で幸せになろうと言われた相手にフラれている設定なんですから、も〜、これでこそ中島みゆきwww

 街じゅうが今夜だけのために 何もかも変わろうとする夜
  ほんのひと月前の別れも 昔のことと許される夜
  幸せにならなきゃならないように 人は必ず創られてると
  あの日あなたに聞いたのに
『LOVERS ONLY』2001年)

それにしても、この『クリスマスソングを唄うように』の音楽の切ないこと切ないこと。

 クリスマスを理由に
  雪を理由に
  云えない思いを 御伽噺


中島みゆきは、誰もが簡単に見えるような表面的な華やかさではなくその片隅にひっそりとしかしけなげに息づいている存在に眼を向けます。クリスマスシーズンは華やかで浮き立つような季節ではありますが、今年2020年のクリスマスシーズンは例の厄介な疫病のために様変わりさせられてしまっていますね。それでも人それぞれの心の中にはいつも通りの感覚が残っているに相違なく、見てくれの華やかさではない「目に見えない何か」に満たされていることでしょう。それと同時に無念さに満ちたこの2020年を振り返って、<云えない想い>を少しでも少しでも次につなげられることを祈ります。

2020年12月 2日 (水)

中島みゆき 作詞/作曲『雪傘』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『雪傘』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

『雪傘』は2008年に発売された工藤静香のシングル《NIGHT WING/雪傘》のための1曲です。静かに独りつぶやくような淋しく切なくまことに哀しい唄で、中島みゆきは2010年発売の自身のアルバム《真夜中の動物園》でセルフコピーしています。『雪傘』《真夜中の動物園》ではラスト『愛だけを残せ』の前に置かれていますが、アルバムのラストへの道しるべとして秀逸な一曲と思います。この曲も転調の妙が素晴らしく、まずイントロがロ短調なのに一瞬でロ長調に変わる唄い出しが光ります。そこからニ長調に移るのはまぁ普通なのですが、ラストのラスト、ニ長調で万感の想いを込めて語り終わった刹那、後奏で「ふっ」とヘ長調にすべりこむのがもぅキュン死ですよ〜〜〜〜。

最初から最後まで人類が厄介な疫病の前に屈したこの2020年、こんなやるせない状況を自分の誕生日に語るためにふさわしい曲だと思って選曲したのですが、耳コピしていても弾く稽古をしていても沸き上がってくる無念さを抑えるのがことのほか難しく、たびたび中断を余儀なくされました。詩がしっくりきてしまうというのはなかなかに怖いことでしたが、それでもなにやら救われる感じにしてもらえるのは中島みゆきの力なのでしょうか、詩の力なのでしょうか、音楽の力なのでしょうか。是非ともこの『雪傘』『荒野より』とを併せて味わっていただければと思います。

 迷惑でなければ傍にいて  車を拾うまで雪の中
  これきりと心で決めている私の  最後のわがまま聞いてね
  灯り溢れる窓からは  疑いもしない歌がこぼれ来る
  「Happy Birthday 今日の主役は何処?」
  誰かが気づいて探しに来るまで
  雪傘の柄に指を添えて
  思い出を返しましょう


『雪傘』の1番です。雪の降る日、相手の誕生会にそっと別れを告げにきた主人公。限りない哀しみに満ちているのは確かですが、同時になんとも静かで美しい情景ですね。あくまでもひとときの情景に過ぎないのですがさまざまな感興を呼び起こしてくれますし、最後の<雪傘の柄に指を添えて 思い出を返しましょう>のまぁなんとも美しいこと。この情景からして<雪傘>とは相手が主人公にさしかけている傘のことで、その柄に指を添えるということは相手の手に指を添えているひとときに他ならないんですね。ちょ〜っとウルウル来ませんこと?

 足跡消しながら後ずさる  雪の上逃げる小ギツネみたいに
  小枝の代わりに嘘を抱いて  思い出消しながら遠ざかりましょう

  「Happy Birthday」
  今日を祝う人が居てくれたのなら  安心できるわ
  いつまで1人ずつなんて良くないことだわ  心配したのよ
  雪傘の柄に指を添えて
  ゆく時を聞いている


2番です。部屋の中にはすでに相手の誕生日を祝う人が居るのでしょう。それに対して<安心できるわ>と語るのは、主人公が最後まで相手を優しく思い遣る気持ち、否、精一杯の強がりなのでしょうね。<小枝の代わりに嘘を抱いて 思い出消しながら遠ざかりましょう>ですから、<思い出を消す>のも<安心できるわ>も、そして相手に別れを告げることも、全て主人公の嘘。そりゃまぁ当然のことで、このような状況で未練がなかろうハズがございませんわ。

 ありとあらゆる悲しいことから
  あなたが守ってくれていたんだね
  当たり前のように暮らした  あの頃
  アリガトって伝え忘れたね


3番、まさに起承転結の「転」のお手本のような一連ですね。大切ななにかこそ失ってはじめて存在の大きさを知る、というのは古来言い古されてきた真理ではありますが、それをこんなに短い一節に込められるとは。静かな静かな『雪傘』ですが、この短い一節に込められた激情たるや、まさに万感の想いというにも足りぬ、ほとばしり出る強い強い想いであります。

 「Happy Birthday」
  今日を祝う人が居てくれたのなら  安心できるわ
  いつまで1人ずつなんて良くないことだわ  心配したのよ
  雪傘の柄に指を添えて
  ゆく時を聞いている
  思い出全部  アリガト


厄介な疫病のために人類が失ったものは計り知れず、それはあらゆる人が人生を根本からひっくり返されてしまったほどの衝撃で、今なおとどまるところを知らないですね。既に指摘されていることではありますが、これって実は、従来いわゆる「人類の繁栄」とされてきたシロモノがきわめて脆弱だったことが明るみに出たということではないでしょうか。いわゆる「人類の繁栄」とは基本的に経済的物質的な繁栄だった(過去形にしますぞ)と思いますが、そのような「目に見えやすい何か」は多分に表面的な存在であって儚いものだというのもず〜〜〜っと指摘され続けていますよね。

 かんじんなことは、目に見えないんだよ(サン・テグジュペリ『星の王子さま』1943年/内藤濯訳)

まことに僭越ではありますが、今般の厄介な疫病によって断ち切られてしまった全てのつながりそして「目に見えない大切な何か」のために、この演奏を贈りたいと思います。

 思い出全部  アリガト



もう一本、この厄介な疫病による混乱当初に出演したオンラインコンサート『OLOL2020』で、「目に見えない大切な何か」について中島みゆきの詩と音楽を借りて語りました。併せてご覧くださればと思います。

2020年10月30日 (金)

中島みゆき 作詞/作曲『荒野より』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『荒野より』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

『荒野より』は2011年に発売されたアルバム《荒野より》の口開けの曲です。アルバムの1曲めにふさわしい、前向きな推進力と堂々たる決意表明とを併せ持った歌詞なのですが、コレ、音楽的に両立させるのはなかなか厄介でして。ここでポイントになるのは強〜烈に揺るぎないテンポ設定で、これぞスタジオミュージシャンたちの面目躍如。CDで聴ける決してスピード感を前面に出さずに完璧にメトロノーム的なテンポ設定は見事の一言で、少しでもスピードが速くても遅くても速くなっても遅くなってもこの揺るぎなく堂々と厳しくたゆまず進み続ける雰囲気はにじみ出なくなってしまいます。コレって〜、ユルく揺らぎだらけな音楽ばかりやっているワタクシにとって〜、めっちゃ鬼門なんですね〜ヽ( ̄▽ ̄)ノ

 僕は走っているだろう  君と走っているだろう
  あいだにどんな距離があっても
  僕は笑っているだろう  君と笑っているだろう
  あいだにどんな時が流れても


サビへの導入のこの部分、加速度的に社会的分断が進んでいるところに厄介な疫病が蔓延している2020年現在の我々にズバッと刺さってきますね〜。会いたい人に会えず、仲間と集まろうとしても集まれず、というこの状況がいつまで続くか見当もつかない現在、人と人との間にあるのはつながりではなく、果てしない<距離>と<>ばかりになってしまいました。それでも<>は<>と共に走り共に笑っているという、この姿はまことに美しく気高いですね。中島みゆきの音楽は毒なばかりwでなく、強い強いメッセージなのです。

 望みは何かと訊かれたら  君がこの星に居てくれることだ
  力は何かと訊かれたら  君を想えば立ち直れることだ


『荒野より』の出だしはこのように始まります。<君がこの星に居てくれる>だけが望みで、<君を想う>だけで力が湧いてくるとは、なんといういさぎよさでしょうか。果てしない距離と時が間に立ちふさがっていても、このように強い信頼そして愛があればこその人間の強さではないでしょうか。ただ単純に「強い」だけではそれよりも強い何かに脆くも負けてしまいますが、真に意識を共有できる対象の象徴たる<>がいれば、そこに「粘り」という不思議な助太刀が現れるのでしょうね。はて、みなさんにとって、<>とは? 人とは必ずしも限らないですよね〜。

 朝陽の昇らぬ日は来ても  君の声を疑う日はないだろう
  誓いは嵐にちぎれても  君の声を忘れる日はないだろう


2番はこのように始まります。君の声>に対する無限の信頼そして愛、この閉塞しきって人間が我を失ってしまっている今を生き抜かねばならぬ我々に向けられた輝かしいメッセージですよね〜。我々に生命がある限りこの厄介な疫病から逃れるすべはございませんで、そのため少しでも他者とのつながりを薄くしなければならぬ・・・というそもそもの人間活動を否定されている現在の状況、まさに<朝陽の昇らぬ日>であり<誓いが嵐にちぎれた>状況であるように思えます。それでも疑わないのは<君の声>で、忘れないのも<君の声>。<君の声>とはこのように信頼できる存在の象徴であって、その存在さえあれば人は無敵になれるのではないでしょうか。ここで思い出すのは、やはり『二隻の舟』の一節。

 おまえとわたしは たとえば二隻の舟
  暗い海を渡ってゆくひとつひとつの舟
  互いの姿は波に隔てられても
  同じ歌を歌いながらゆく二隻の舟
『二隻の舟』1992年)

世の中が<荒野>となってしまった現在、一人の人間としてどのように敵(=疫病だけではなく、疫病に惑わされて我を失ってしまっている世間の姿)に屈せずに自らの尊厳を守り続けられるのかが問われていると思います。厳しいと言えばあまりにもあんまりにも厳しいのですが、その厳しい環境の居心地を少しでもわずかでも良くできるのは、ひたすらに藝術であります。我田引水とおっしゃらないでネw

 あらゆる藝術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。(夏目漱石『草枕』1907(M40)年)

『荒野より』は、現在を生きる我々へ中島みゆきそして藝術が向けてくれた、強く厳しく愛にあふれる応援歌です (`・ω・´)

 荒野より君に告ぐ  僕の為に立ち停まるな
  荒野より君を呼ぶ  後悔など何もない


2020年9月 7日 (月)

中島みゆき 作詞/作曲『ほうせんか』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『ほうせんか』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

『ほうせんか』は1978年に発売されたシングルLP《おもいで河/ほうせんか》のB面の曲で、なんとオリジナルアルバムには収録されていません。A面の『おもいで河』もオリジナルアルバムに収録されていないのはなんの因果か。『ほうせんか』はいかにもこの時期の中島みゆきの失恋ソングの体をなしていますが、実は前年の1977年にわずか37歳で急死したディレクター竹田健二への追悼曲とのことです。松山千春を育てた名ディレクターの突然の死を、いつフラれるかわからない心と重ねるという、まぁよくあるネタとも言えるかなぁと。

 悲しいですね 人は誰にも
  明日 流す涙が見えません
  別れる人とわかっていれば
  はじめから 寄りつきもしないのに

いやはや、のっけからめっっっちゃ中島みゆきですね〜。失恋の悲しく淋しい心持ちを軽快なギターのリズムにのせて決して重くなく唄うスタイルは1974年山本コウタローとウィークエンドのシングル『岬めぐり』とカブりますが、関係ありやなしや。

 悲しみ深く 胸に沈めたら
  この旅終えて 街に帰ろう『岬めぐり』1974年/山本コウタローとウィークエンド)

この一節、一人旅をしょっちゅうしていたワタクシにとってけっこうハマる感覚でしてね。ここで<>は当然一人旅ですから孤独の象徴で、<>は人とのつながりの象徴。極めて平易な語法ですが、なにやら妙に心に残るんですよ〜。これこれ、しょっちゅう失恋していたからだろうって、そ〜ゆ〜コトは思っていても言わないようにw

 後姿のあの人に幸せになれなんて 祈れない
  いつか さすらいに耐えかねて 私をたずねて来てよ

コレまためっっっちゃ中島みゆきで、徹頭徹尾恨み節でありたいのに結局は戻ってきてほしいという屈折した主人公がどれだけ詠まれてきたことか。自分から追いかける元気も勇気もなく独り淋しく恨み節を重ねて戻ってこない相手を待ち続けるという、コレ、客観的に記述するとかなりコワい状況だなぁと思いつつ、このような人たちって表に現れないだけで決して少なくないだろうなとも感じさせられます。中島みゆきの詩の「闇」の世界は芝居がかっているとか作り過ぎているとか指摘されることがありますが、そのように感じるのは「闇」な世界とは無縁な「幸せな方々」なんだろうなぁと。いや、それが悪いワケでもなんでもなく、モチロン喜ばしいことなんですがね。

 ほうせんか 私の心
  砕けて 砕けて 紅くなれ
  ほうせんか 空まであがれ
  あの人に しがみつけ

最後の<あの人に しがみつけ>の一文、光ってますね。ググってみたら、ホウセンカは今でも普通に小学校で教材として使われることが多いみたいで。種をいっぱいにためた「さや」が熟するとちょっとの刺激ではじけて種を飛ばすという、なんともホントにヨくデキた仕組みに素直に感心していた時代もあったんですよ、ワタクシw

2020年8月 7日 (金)

中島みゆき 作詞/作曲『記憶』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『記憶』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

『記憶』は2000年『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』オリジナル曲。終結部で演奏された素晴らしく盛り上がる大曲でコアなファンの間では名曲の誉れ高い曲ですが、なんとアルバムに収録されていない秘曲でもあります。『記憶』はとりわけめまぐるしい転調の妙が素晴らしく、ハ長調(1番)→イ長調→変ロ長調(間奏)→変ニ長調→変ロ長調(2番)→ト長調→変ロ長調→ロ長調(後奏、なんとここから2分半!)→へ長調→イ長調→ハ長調という、まさに前世そして現世の断片的な『記憶』の数々をたどるかのようです。9分間というエラく長い曲ですが、是非ともこの転調をじっくり味わってくださいませ〜 (`・ω・´)

『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』は、主人公の女(谷山浩子)と犬(中島みゆき)の周りに現在過去の時空を超えて繰り広げられる不思議な不思議な転生の物語。それぞれ前世の業と関連した人生(犬生w)を過ごしており、断片的に散りばめられている前世そして以前の生活の「かけら」をたよりに自らの生を見つめ、判断し覚悟を決めます。主人公の女は、原野商法に引っかかって不正をはたらいてまで貯めたお金を早晩底なし沼に沈んでしまう物件の頭金として取られてしまったという境遇、犬はその物件に居ついている存在・・・なのですが、この二者の間には前世で極めて複雑な関係があったのでした。『記憶』は、この二者が空に昇った魂のごとく、ともに人間の姿で舞台上空の止まり木で寄り添いながら唄っている、まことに美しい情景です。

 もしも過ぎた事を 総て覚えていたら
  何もかもが降り積もって 辛いかもしれない
  もしも生まれる前を 総て覚えていたら
  ここにいない人を探し 辛いかもしれない

生き物の「忘れる能力」って素晴らしく便利な能力なんですね〜。まぁそれ以前に現実世界は極めて複雑かつ多面性のカタマリですから、そもそも「こうである」と認識した時点でそれは自分の観点というフィルターを通して現実世界の切り口だけを見ているワケでして、実は気づかなかったことをすでに忘れていたりするんですけどそれはともかくw。その切り口が自分にとって素敵な思い出となるだけならそれだけで済むのでしょうが、人の心とは複雑なモンで、素敵な思い出であればあるほど逆にそれが現実でなく思い出にすぎないことに気づいて<辛い>という感覚が沸き起こってきたりもします。あ〜めんどくせ〜。

 思い出すなら 幸せな記憶だけを 楽しかった記憶だけを
  辿れたらいいけれど

幸せな記憶>や<楽しかった記憶>は意外と早く忘れてしまい、苦しかった記憶や辛かった記憶ばかりが残ってしまう経験は誰もがお持ちだと思います。あぁどうして人間の記憶ってこんなに融通がきかないんだろ・・・と思いつつ、記憶はあくまでも記憶であって現実でないことに気づいてしまった人にとっては<幸せな記憶>や<楽しかった記憶>であってもやはり辛くなってしまう記憶なのでしょう。あ〜めんどくせ〜w

 忘れてしまったのは 幸せな記憶ばかり 嬉しかった記憶ばかり
  そうであってほしいけれど

かと言ってこんな感覚になってしまうのもチト歪んでいるような気もします(あ〜めんどくせ〜w)が、記憶と現実との乖離を強く感じるタイプの人にとってはこれが無理もない感覚なのでしょうね。まさにどうしようもなく辛く寂しく悲しい人生を歩まねばならぬ人間の「業」の一つの現れなのでしょうか。

 1人で生まれた日に 誰もが掌に握っていた
  未来は透きとおって 見分けのつかない手紙だ
  何が書いてあるの>

でもね、現実と記憶の乖離を強く感じてしまう人であってもワタクシのように単純なヤツであってもw、<未来は透きとおって 見分けのつかない手紙>なんですね。自らの持つ「業」と向き合いつつ自ら切り開いていくのが人生=<透きとおって 見分けのつかない手紙>であって、<何が書いてある>のかは誰にもわからないワケです。そして、まさに『記憶』こそがそこに何が書いてあったのかを見出すための手がかりに他ならないのでした。

 そんな時代もあったねと いつか話せる日がくるわ
  あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ『時代』(1975年))

中島みゆきが『時代』で『第10回ポピュラーソングコンテストつま恋本選会』そして『第6回世界歌謡祭』にてグランプリを受賞したのは、45年前の1975年のこと。さまざまな経験を経てこのような心境に至るのはなかなか厳しい道のりでしょうが、そのような心境になっても<未来は透きとおって 見分けのつかない手紙>であることに変わりはないはずです。『記憶』とは<そんな時代>であり<あんな時代>であり、ともに一個のにんげんを形づくる礎であるという意味において、実は『記憶』の世界観と『時代』の世界観とは相通ずるものなのではないでしょうか。このような『記憶』ほどの曲をアルバムに入れていないというのはチト不自然(まぁ濃すぎるのかもw)で、なにか中島みゆきの自らの芸能人生に対する深謀遠慮が隠されているような気がしてなりません。

2020年7月 7日 (火)

中島みゆき 作詞/作曲『悪女(シングル版)』ソロ:モーツァルトの旅行用クラヴィコード(1763, J.A.Stein)の複製(2002年)で

中島みゆきの『悪女』を、かの神童モーツァルトが7歳のとき(1763年)に買ってもらったJ.A.シュタイン製の旅行用クラヴィコードの複製で弾きました。クラヴィコードはピアノ以前の鍵盤楽器のなかで最も大切とされていたフシがあり、現代古楽器界w周辺では「独りで音楽の神さまと向き合う」ための楽器とみなされて過度に神聖化wされていたりします。ですが、実は、そのような内なる世界は優しく親密な世界でもあるはずで、現代人にとって大切なのはむしろ後者の性格ですよね。なお、クラヴィコードの音量は世人の想像を超えて小さいですから、背景のノイズが気にならない程度の音量に抑えたうえで少〜し耳を澄ませてくださいませ。聴こえてきますよ〜(・o・ゞ

『悪女』は1981年10月発売のシングルA面、オリコン週間ヒットチャート第1位を飾ったまさに大衆的名曲です。どクラシックガチガチだったワタクシですら唄い出しの「んまぁりこのへぇやへぇ〜(チャカチャ~ン)、んでぇんわをかぁけてぇ〜(チャカチャ~ン)、」という独特の語り口が耳にこびりついているほど、それこそそこら中でかかっていましたモンね〜。『悪女』は1982年3月発売のアルバム《寒水魚》の冒頭にも収録されていますが、耳になじんだアレンジとちがって無理矢理悪ぶっている作りモノっぽさが耳について、ま〜る〜で〜聞いてられないんですよ〜。げに刷り込みとは恐ろしきものなり ( ̄ー ̄)

 マリコの部屋へ 電話をかけて
  男と遊んでる芝居 続けてきたけれど


う〜む、『悪女』というタイトルのワリには、この唄い出しからしていつものフラれて捨てられる中島みゆきのオンナじゃないですか〜σ^_^;

 帰れるあての あなたの部屋も
  受話器をはずしたままね 話し中


この感覚は現代のケ〜タイ時代には完っ全に滅んでしまいましたね〜。つ〜か、現代は音声通話すらしないでラインするんでしょね。あたしゃラインはしないから知らんけどw

 悪女になるなら 月夜はおよしよ
  素直になりすぎる
  隠しておいた言葉が ほろり
  こぼれてしまう 「行かないで」


これぞ有名な、あまりにも有名なサビ。中島みゆきの主人公のフラれ方パターンのひとつで「精一杯強がってみせるけど本音は・・・」ですね。『御機嫌如何』(1987年)が典型的でしょうか。

 涙も捨てて 情も捨てて
  あなたが早く私に 愛想を尽かすまで
  あなたの隠す あの娘のもとへ
  あなたを早く 渡してしまうまで


サビの部分で「ん?」と思った聴き手は2番のココでようやっと腑に落ちるようになっていますが、大ヒット曲の悲しさ、2番のココまでちゃんと歌詞を味わってもらえることは少なかったでしょうw。ワタクシも当〜然そのクチでして、そもそも歌詞に2番があったことすら気づいていなかったのでした。まぁコアなファンでなく流行りモンに乗っかる一般人wは、そもそもそんなもんですわな。

それにしてもこの『悪女』って、耳に残りやすく覚えやすい単純さと飽きさせない複雑さとが絶妙にブレンドされたメジャーちぅのメジャーだったんだなぁとあらためて感じさせられました。シングル販売80万枚オーバーの実力は伊達ぢゃなく、有名になってかつ記憶に残る作品にはやはりそれなりの必然性があるのでしょう。時間の淘汰とは残酷なモンで、「知られざる名作」なんつ〜のが常に探されて提案され続けておりますが、結局のところ残念ながらその圧倒的多数が「マニアックな作品」やら何やらの域を脱することができないワケで。そもそも「発掘されて提案されて主張されている」時点で何百周も遅れをとっているのが冷厳な事実で、そんな無理な主張せずに人それぞれの趣向が異なることを再確認しさえすれば、四海波静か(・x・ゞ

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