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カテゴリー「音楽>中島みゆき」の116件の記事

2026年5月28日 (木)

中島みゆき 作詞/作曲『孤独の肖像1st.』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『孤独の肖像1st.』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました(*´-`)
*この編曲譜はこちらから入手できます
https://store.piascore.com/scores/419175

『孤独の肖像1st.』は、1993年にリリースされた中島みゆきのアルバム《時代 -Time goes around-》のラストから2曲めの曲です。

この曲、1985年に『孤独の肖像』としてシングル《孤独の肖像》A面とアルバム《miss M.》のA面ラストに収録された作品の元ネタです。1985年当時の中島みゆきには音楽として使えなかった音域があったとか、プロデューサーの意向と合わなかったとか情報が転がってますが、結果として同じ着想の歌詞で全く異なる曲が生まれたので良きことだったのではないでしょうか。ちなみにこの1993年のオリジナルバージョン『孤独の肖像1st.』の最高音はト音記号真ん中のB(シ)で、中島みゆきの声域として確かにか〜なり高いです😳

 悲しみは あなたを失くしたことじゃなく
  もう二度と だれも信じられなくなることよ
  どうせみんなひとりぽっち 海の底にいるみたい
  だからだれかどうぞ上手な嘘をついて嘘をついて


難解な歌詞が少なくない中島みゆきですが、最初の2行の設定がヒネっているのに巧みです〜っと心に沁みてきますね〜。それでいながら題名の『孤独の肖像』の「孤独」も「肖像」も歌詞に全く出現しないところがニクく、歌詞自体は一見わかりやすく感じられるのに同時に象徴のカタマリとなっているようです。否、そもそも「孤独」という形のないナニか(=抽象概念)に「肖像」が存在し得るとは考えづらく、題名がすでにナゾでござるな🧐

あなたを失くしたこと>で<だれも信じられなく>なってしまった、という主人公の感覚はなかなかにネジくれているなぁと思いつつ、中島みゆきの歌詞にこのような主人公は頻繁に登場するワケで、こんな感覚になるヒトがいても不思議じゃないよなぁと思わせられてしまいます。この時点で中島みゆきの術中にハマっているのでしょうがw、このような芸風で半世紀も第一人者として続いているということは、その説得力が不特定多数を納得させられるだけのパワーに満ちている証左でありましょう。

主人公は<どうせみんなひとりぽっち>と物わかりの良いフリを装いつつ、やはりそれは耐え難いこと。それを癒してほしくて<だれか>に<上手な嘘をついて>という切なる叫びであります。

 いつも僕が側にいる、と
  夢でいいから囁いて
  それで少しだけ眠れる
  本当の淋しさ忘れて
  たぶん


ココは主人公が求める<上手な嘘>の具体的内容ですね。主人公は<どうせみんなひとりぽっち>と物わかりの良いフリを装いつつ、求めているのはやはり側にいてくれる<だれか>なのでした。ですが、<嘘をついて>そして<夢でいいから>と願っている時点で主人公は<どうせみんなひとりぽっち>が真実であって<いつも僕が側にいる>のは真実ではない、と薄々気づいているワケで、このネジれこそが孤独の<本当の淋しさ>ですね〜。さらにダメ押しの<たぶん>がむちゃくちゃ効いているではございませんか。この<たぶん>で、結局は主人公は救済されぬままそれでも救済を切に願ってしまっている、というネジれの構造が強固になってしまいました。

さてこれを踏まえた2番。

 愛なんて何処にも無いと思えば気楽
  はじめからないものはつかまえられないわ
  隠している心の中 うずめている心の中
  もう二度と悲しむのはこりごりだから暗闇の中へ


イヤ、ちょっと、イジけ過ぎでしょうよ、と思う反面、中島みゆきの歌詞に出てくる主人公ですからこれこそが通常営業、安心してしまうのがファンのサガ😅

 いつも僕が側にいる、と
  夢でいいから囁いて
  それで少しだけ眠れる
  本当の淋しさ忘れて


主人公が救済されぬままそれでも救済を切に願っているこの部分を過ぎるとポピュラーの常套手段で変ホ長調から半音上げのホ長調に飛びますが、半音上げでありがちな無理やり感のカケラもない巧みな処理にウナらせられました。前のフレーズの<忘れて>の「て」が変ホ長調下属音の変イ(As)なのですが、それを異名同音のホ長調第3音の嬰ト(Gis)に読み替えて<消えないわ>の同音反復で乗り換えるという発想ですが、あれっと思う間もなくスルッと調性が半音上がるのがまことにお見事👀

 消えないわ心の中 消えやしないわ
  消せないわ心の中 消せやしないわ
  手さぐりで歩きだして暗闇の中
  もう一度はじめから愛を探したい


しかもこの部分では、一連の進行が<いつも僕が側にいる、と 夢でいいから囁いて それで少しだけ眠れる 本当の淋しさ忘れて>と全く同じに仕組まれており、中島みゆきが高らかに歌い上げている裏で同時に弦楽合奏に歌わせるという大技を決めています。コレをやられると鍵盤楽器ソロとして編曲する難易度がハネ上がってしまうのですが、クラシック鍵盤楽器を弾いている人間としては複旋律を弾けないなんて弱音を吐くなんて許されざること。いやはや、果たしてむちゃくちゃ難しい編曲になってしまったですわ〜😅💦

 消えないわ心の中 消えやしないわ
  消せないわ心の中 消せやしないわ
  手さぐりで歩きだして暗闇の中
  もう一度はじめから愛を探したい


主人公は<どうせみんなひとりぽっち>が真実で<いつも僕が側にいる>のは真実ではない、と薄々気づいてしまっていますから、そのような心のうちはどんなに<>をつかれても<>を見せてもらっても<消えやしない>し<消せやしない>のであります。それでも主人公はけなげにも<暗闇の中>を<手さぐりで歩きだして>、<もう一度はじめから愛を探したい>と動こうとしています。このような主人公の姿は中島みゆきの歌詞には枚挙にいとまがございませんね。そっか、この『肩にふる雨』『孤独の肖像』と同じアルバム《miss M.》に入っていたんですね💡

 肩に降る雨の冷たさは生きろと叫ぶ誰かの声
  肩に降る雨の冷たさは生きたいと迷う自分の声『肩にふる雨』1985年)

さてと題名の「孤独」はともかく「肖像」とは何ぞや、というのが怪決できていませんが、コレはなっかなか難しいです。「肖像」とは人物に用いられる言葉ですが、そもそも抽象概念である「孤独」を具体的な人格や表情を示す「肖像」として描いているところがミソと思います。もちっと踏み込むと「肖像」には「顔がある」ワケで、『孤独の肖像』とは「孤独」そのものが主人公という人間の顔をして歩いている歌であるように思えてきます。

 Flame & Aqua 求めずにいられない
  私たちは
  あまりにひとりでは担い過ぎる炎と水
『炎と水』1991年)

どうせみんなひとりぽっち>だと薄々気づいていながら、それでも<求めずにいられない>主人公。その矛盾こそが、この『孤独の肖像1st.』という歌を暗闇の中で歩かせ続けているのかもしれません



この動画で使っているピアノは100年以上昔、1894年製のアンティークピアノ。このような楽器を使ってこのような曲を弾くのはまことに愉しいです。現代では世間で聞こえる音のほとんどは電気を通していますが、このころに世間で聞こえていた音は生音が主流でした。1877年にエジソンが蓄音機を実用化し、このピアノが作られた1894年にはSPレコードの大量生産ができるようになって、次第に「録音」というシロモノが世間に知られるようになった時代。こんな時代の楽器がどれほど豊かな音世界を伝えていたのか、この動画で使っている楽器は奇跡的にオリジナルほぼそのまま、まさに時代の生き証人です。

2026年4月29日 (水)

中島みゆき 作詞/作曲『ひとり遊び』ソロ:モーツァルトの旅行用クラヴィコード(1763, J.A.Stein)の複製(2002年)で

中島みゆきの『ひとり遊び』を、かの神童モーツァルトが7歳のとき(1763年)に買ってもらったJ.A.シュタイン製の旅行用クラヴィコードの複製で弾きました。
*この編曲譜はこちらから入手できます
https://store.piascore.com/scores/412617

『ひとり遊び』は、1976年4月25日にリリースされた中島みゆきの初アルバム《私の声が聞こえますか》のB面2曲めに収録されているまことに寂しくちょっと不気味な曲です。2枚めのアルバム《みんな去ってしまった》のリリースは1976年10月25日、そして1976年12月27日に銀座ガスホールでコンサートを開催しています。このコンサートのタイトルは「ひとり遊び」だったようで、デビューまもない新星のコンサートタイトルとしてはまことに地味とも思えますが、初アルバム《私の声が聞こえますか》とセカンドアルバム《みんな去ってしまった》というタイトルの方向性を鑑みれば大アリでしょうな💡

幼少期の中島みゆきは万事あまりにもマイペースに過ぎて、周囲とそれなりにうまくやっていくという、いわゆる「馴染む」という行動がま〜るでダメダメだったと自ら語っています。デビュー間もない1976年に放送された『ポプコン・アウトアンドイン』(FM大阪)にゲスト出演したとき、

あんまり器用に仲間に入れなかったですね。女の子っていったら徒党を組むでしょ? あれになかなか入れなくてね。何て声をかけたらグループに入れてもらえるか分かんなくて、おたおたしてるうちに通り過ぎていったりね。だんだんそれが繰り返されると、声かけても入れなかったらどうしようって思っちゃうの。

と語ったそうです。周囲の輪に入れない、という経験それ自体は取り立てて珍しくもないでしょうけれど、その経験から最後の

だんだんそれが繰り返されると、声かけても入れなかったらどうしようって思っちゃうの。

が導き出されるという頭脳構造は、昭和30年代の子供としてはよく言えば内向的な方向にむっちゃ早熟、単純に言い切ってしまえばむっちゃネジくれた個性であるように思わざるを得ませんね。この時代の北海道の産婦人科医の家庭ですから中島美雪嬢(本名)が育った家庭環境が周囲に比べて相当に「進んで」いたであろうことは想像に難くないですが、このような形で内向的早熟さが育まれたということは、家庭環境のみならず本人の素質なくしてはあり得なかったのではないでしょうか。まぁ、やはり天才は最初っから天才なんでしょう。月並みにすぎる表現にて御免w

さて1番です。

 もう長いこと あたしは ひとり遊び
  独楽を回したり 鞠をついたりして
  日も暮れるころ あたしは追いかけるよ
  独楽を抱えた 影のあとをね


あぁなるほど、『ひとり遊び』の歌詞は中島みゆき本人が語っている幼少期の姿と見事に重なっていますね〜。前半の<ひとり遊び>は単なる独白ですが、その前半から導き出された後半の不思議な情景にはゾクッとさせられます。後半は倒置法ですから

 <日も暮れるころ 独楽を抱えた 影のあとを あたしは追いかけるよ>

となり、前半を考えれば<あたし>が独楽を回して<ひとり遊び>しているので、自分の影を追いかけるように家路につく情景がふんわりと立ち上がってきます。こまをわざわざ<独楽>と漢字にしているのも、ひとりで廻り続けるこまという存在を孤独の象徴と読みやすくしているのかも。

ときに、<>とは物体が光を遮って光の反対側に生じる光の当たらない部分のことですが、自分の影が見えるということは光が差してくる方向を見ていないワケです。ちょ〜っと穿ち過ぎとも思いますが、主人公は光が差してくる方ではなく光が当たらない方を見ながら家路についているとも読めそうで、幼き主人公の孤独をことさらに重層的に象徴しているとも思われます。

 鬼さんこちら 手の鳴るほうへ
  鬼さんこちら 手の鳴るほうへ
  鬼さんこちら 手の鳴るほうへ
  鬼さんこちら 手の鳴るほうへ
  あたしの影を 追いかけて
  あたしの影を 追いかけてよ…


鬼さんこちら 手の鳴るほうへ>をなんと4回も繰り返しており、極めて強い呼びかけとなっています。主人公は自分の影を追いかけているのに主人公を追いかけてくれる存在は人間界には存在しておらず、鬼でもいいから自分の影を一緒に追いかけてほしい、そして自分を追いかけてほしい、という切実な叫びですね。幼少期の中島美雪嬢(本名)が本当にこのような感覚を抱いていたかどうかはわかりませんし、正直どうでもイイですが、それにしても、この折り重なり積み重なる孤独はもはや現世ではなく「あちら側」とさえ思えます。デビューアルバム《私の声が聞こえますか》には中島みゆき本人の意向は全く反映されていなかったというのが公式な情報ですが、この『ひとり遊び』が入っていることと同時にまさかの1曲めの『あぶな坂』の存在を鑑みると、公式情報は物語として単純化されているんじゃないかなぁと思いませんか〜?

さて、2番です。

 もう長い影 果てない ひとり遊び
  声は 自分の 泣き声ばかり
  日も暮れ果てて あたしは追いかけるよ
  影踏み鬼は 悲しい遊び


影踏み鬼>はお互いの影を踏み合う鬼ごっこで、鬼が逃げる人の影を足で踏めばその人が新たな鬼となって延々と遊び続けられる遊びです。ですが『ひとり遊び』の主人公はひとりですから遊び相手は自分の影しかおらず、自分で自分の影を追いかけて遊ぶことになり、孤独が孤独を呼び起こすなんともやるせない寂しく悲しい姿が現れてきます。まぁ自分の影を相手に<影踏み鬼>をするためには自分の影の影を踏む、もしくは自分の影が影自身を踏む、ことがゲームが成立する条件ですが、もはやワケわかりません。詩作はファンタジーですから厳密な論理性を求めること自体がズレた姿勢で、これぞ簡潔に孤独の極限を示すための詩作の妙ですね〜。

 鬼さんこちら 手の鳴るほうへ
  鬼さんこちら 手の鳴るほうへ
  鬼さんこちら 手の鳴るほうへ
  鬼さんこちら 手の鳴るほうへ
  あたしの影を 追いかけて
  あたしの影を 追いかけてよ…>




ここで使っているクラヴィコードは筒井本人の所有、モーツァルトが7歳のとき(1763年)にアウグスブルクのシュタインの工房で父親のレオポルドに買ってもらって以後終生愛用した、旅行用クラヴィコード(現在、ブダペスト、ハンガリー国立博物館所蔵)の忠実な複製です。旅行用クラヴィコードは、18世紀の旅の空に生きる演奏家や作曲家によく使われていました。このモーツァルトが使っていた旅行用クラヴィコードはたった1m程度の幅しかありませんが意外と重く丈夫で、音域はなんと4オクターヴ半もあったのでした。

2026年3月30日 (月)

中島みゆき 作詞/作曲『炎と水』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『炎と水』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました(*´-`)
*この編曲譜はこちらから入手できます
https://store.piascore.com/scores/405080

『炎と水』は、1991年10月23日にリリースされた中島みゆきの19枚めのアルバム《歌でしか言えない》のラストを飾る大曲で、低くドスの効いた声質が大きな魅力である中島みゆきにとって異例に高い音域でサビを堂々と歌い上げていますが、なんとこれまで一度もステージで演奏されたことがない曲でもあります。

そういえば『孤独の肖像』という曲を収録するとき当時(1985年)の中島みゆきには高過ぎて音楽として使えなかった音域があって別バージョン『孤独の肖像』としてリリース、後年(1993年)オリジナルバージョンを『孤独の肖像1st.』としてリリースしたという情報が存在し、オリジナルバージョン『孤独の肖像1st.』の最高音はト音記号真ん中のB(シ)だったりします。

ふりかえって、この1991年リリースの『炎と水』ではどうかと言うと『孤独の肖像1st.』最高音のさらに半音上のC(ド)でサビを歌い上げたうえにB(シ)を伸ばしてサビを歌い終えており、歌い手にとって最高音を半音上げるというのは死活問題ということを考えると、ライヴで歌うにはリスクがあまりにも高過ぎる曲なのだろうなと感じさせられます。人間の肉体ってば消耗品という側面から逃れられることはできないワケで、ステージという常に「表現」と「やり過ぎ」とが車の両輪である場では、歌い手という職業人にとって生命線である声を損なう危険も常に伴っているワケです。まぁ、コレだけをステージで歌っていない理由と決めつけるのはいくらなんでも夢がなさすぎなんですけどねぇぇぇwww

 あなたは炎の大地を歩き 途切れた未来へ注ぎ込む者
  けれども情の深さのあまり 己れを癒せず凍えゆく者

  私は凍った大地を歩き 凍てつく昨日を暖める者
  けれども思いの熱さのあまり 己れを癒せず身を焦がす者


やはり対語法あっての詩作、しかもここでは対語法が重層的に絡み合わされており、なかなかにヤヤこしいです。そして<あなた>は<注ぎ込む者>ですから水を連想させて<>は<暖める者>ですから炎を連想させていますが、困ったことに<注ぎ込む者>の前に<炎の大地>が配されて<暖める者>の前に<凍った大地>が配されているので歌詞をちょっと聞いただけでは判別しづらく、<あなた>と<>のどちらが水なのか炎なのか確証しきれてない状態で歌が進行するようになっています。さらに、この段では対語法を絡み合わると同時に<あなた>も<>も<己れを癒せず>というところでは共通性を持つ存在という設定にもされており、か〜なり脳ミソがかき混ぜられる歌い出しでございますことよ。

 Flame & Aqua なんて遠い者たち
  私たちは互いに誰より遠い
  Flame & Aqua なんて同じ者たち
  いちばん遠い者が いちばん近いの


な〜かなか哲学的に攻めてますよね〜。そっか、な〜るほど、<いちばん遠い者が いちばん近いの>という一節があることで、前段の<あなた>も<>も<己れを癒せず>というところでは共通性を持つ存在、という設定が回収されているのでしたか。いわゆる「対極」を表す比喩は「車の両輪」とか「水と油」とか「光と影」とか「コインの裏表」とか枚挙にいとまがございませんが、一見すると正反対であるかのように見えてもそこに共通性を見出すことは可能だったりしますね〜。「愛」と「憎しみ」も正反対に見えますが、実は相手に対する強い感情がベースにあるという一点で共通性があるわけでして💡
さて短い間奏を挟んで2番です。

 私はあなたを傷つける者 誰よりあなたを傷つける者
  けれども唯一 癒せるすべを それとは知らずに持っている者


「あなたを傷つける私こそが唯一あなたを癒せる」とは相〜当に矛盾に満ちた状況ですが、1番のネジれた歌詞をふまえている聴き手にとっては、案外と素直に「あぁそうなのか」と受け入れてしまえそうです。<あなたを傷つける者>を単純に繰り返さずに<誰よりあなたを傷つける者>と<誰より>を加えていることで<炎と水>の両者が誰よりも近しい関係にあると示しており、このような両者だからこそ互いの影響力がきはめて強く、それが傷つける方向にも癒す方向にもなり得るのでしょうか。なお、歌っているのが女性である中島みゆきですから<あなた>が男性で<>が女性、と解釈するのが普通でしょうが、そうしてしまうとせっかくの歌詞の抽象性を狭めてしまうようで、固定させない方に一票です。

 Flame & Aqua なんて遠い者たち
  私たちは互いに誰より遠い
  Flame & Aqua なんて同じ者たち
  いちばん遠い者が いちばん近い


1番のサビはここまででごく普通の声域でしたが、2番以降はさらにキーを上げて続きます。

 Flame & Aqua 互いから生まれあう
  あなたが いなければ
  私はまだ生まれていないような者


これは強い強い強い。ここで中島みゆきはなんと4度もキーを上げて(開始音のA(ラ)をD(レ)まで上げてます)、ほぼ絶叫とすら思えるほどの歌いっぷりを見せています。<炎と水>はアリストテレスの四元素論の構成要素の2つですが、この元素どうしが<互いから生まれあう>とは、独立しているはずの元素どうしが実はともに必須であったのだ、と詩的に誇張しているわけです。これこそが詩作の妙、すなはち、<炎と水>とのつながりは原初的なつながりであって互いの存在にとってなくてはならぬ最も大切なつながりだったという、壮大な愛の抒情詩として歌い上げられているのですぞ✨
ここで金管アンサンブル的な音色をつかったカッコいい間奏が入り、3番に移ります。

 あなたがあなたになればなるほど
  私が私になればなるほど
  互いは互いが必要になる 誰から教えられることもなく


互いは互いが必要になる>とはいかにも壮大な愛の抒情詩らしい一連であると同時に、これまた哲学的ですな。確かに、<あなたがあなたになればなるほど>そして<私が私になればなるほど>に「らしさ」を突き詰めるということはともすれば他の存在を排除することにもなりかねず、それって実は独善という好ましからざる状態につながりかねない危険性も兼ね備えていますね。「こだわり」というものは何かを突き詰める原動力として必須なのは確かでしょうが、冷静にチトいぢわるく考えてみると「こだわり」とは「そのこだわりは無条件に正しいものとみなす」ことに他ならず、実は判断停止と表裏一体となり得る危険性をはらんでいるのでありました。うむむ、ナニやら壮大な愛の抒情詩から逸脱してきたような気もしますが、歌詞の怪釈は妄想をふくらませてナンボでござる😎

 Flame & Aqua あなたは一途な水
  私たちの行方を指し示す者
  Flame & Aqua 私は揺れる炎
  私たちの行方を照らし出す者
  Flame & Aqua 求めずにいられない
  私たちは
  あまりにひとりでは担い過ぎる炎と水


この一連だけでも、アルバム《歌でしか言えない》のラストを飾るにふさわしい歌詞として完結していると思います。<>が<行方を指し示す者>の象徴として用いられているのは流れる先が基本的に重力によって規定されることでw「水の流れ」が方向性や連続性そして不可逆性などの象徴として生み出されるからで、同時に<一途な>にもかけられていますね。そして<>が<私たちの行方を照らし出す者>の象徴として用いられているのは、炎は明るいですからこれは簡単、そして炎は揺れますから<揺れる>にもかけられるのも明白。

炎と水>は<行方を照らし出す者>と<行方を指し示す者>ですからそれぞれが自己のアイデンティティを確立しているワケで、このような<炎と水>の関係性ならば歪んだ「共依存」関係に陥る危険は少なそうです。なるほど<互いは互いが必要になる>でしょうし、そりゃ〜<求めずにいられない>ですね。このような関係性を示す言葉は「無いものねだり」とか「相互補完」とかこれまた枚挙にいとまがありませんが、人生は<あまりにひとりでは担い過ぎる>ほどに不可解で豊かすぎる、という証左なのではないでしょうか💡

 Flame & Aqua なんて遠い者たち
  私たちは互いに誰より遠い
  Flame & Aqua なんて同じ者たち
  いちばん遠い者が いちばん近い




この動画で使っているピアノは100年以上昔、1894年製のアンティークピアノ。このような楽器を使ってこのような曲を弾くのはまことに愉しいです。現代では世間で聞こえる音のほとんどは電気を通していますが、このころに世間で聞こえていた音は生音が主流でした。1877年にエジソンが蓄音機を実用化し、このピアノが作られた1894年にはSPレコードの大量生産ができるようになって、次第に「録音」というシロモノが世間に知られるようになった時代。こんな時代の楽器がどれほど豊かな音世界を伝えていたのか、この動画で使っている楽器は奇跡的にオリジナルほぼそのまま、まさに時代の生き証人です。

2026年2月23日 (月)

中島みゆき 作詞/作曲『愛だけを残せ』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

本日2月23日は中島みゆきの誕生日ですよ〜。『愛だけを残せ』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました(*´-`)
*この編曲譜はこちらから入手できます
https://store.piascore.com/scores/397265

『愛だけを残せ』は2009年11月14日公開の映画『ゼロの焦点』の主題歌として書き下ろされ、映画公開の10日前の11月4日に中島みゆきの41枚めのシングルのA面としてリリースされました。なおB面は『闘りゃんせ』。そして2010年発売の37枚めのアルバム《真夜中の動物園》に優しいスローバラードのアルバムバージョンとして収録、2013年発売のシングルコレクションアルバム《十二単 〜Singles 4〜》にはリミックスバージョンで収録、2020年発売のベストアルバム《ここにいるよ》にもリミックスバージョンが収録されました。この結果『愛だけを残せ』のシングルバージョンは2026年現在でもアルバム未収録となっていますが、コレ、うっかり聴けてないのが痛恨💦

この動画のアレンジ元は、リミックスバージョンを踏襲しながらアルバムではか〜なり強〜かった声色を和らげて歌われた、2024年1月19日から2024年5月31日にかけて行われたコンサート『歌会 Vol.1』としました。映画の原作は松本清張の小説『ゼロの焦点』で、紆余曲折を経て1958~1960年に連載されています。それではいつもの妄想怪説を怪陳しますが、この『愛だけを残せ』の歌詞は詩的な表現が得意とする、論理的展開をあえて無視して自由に飛躍するテクニックを存分に使っていますので、ワタクシの芸風な論理的怪析が通じなくて参りましたわ〜w

 愛だけを残せ 壊れない愛を
  激流のような時の中で
  愛だけを残せ 名さえも残さず
  生命の証に 愛だけを残せ


『愛だけを残せ』は歌い出しからサビを高らかに歌い上げて始まります。ここはアルバムでは中島みゆきが歌っていますが、『歌会 Vol.1』ではバックコーラスが歌っています。このサビはこのままでも充分に意味が通りますが、倒置法を鑑みてわかりやすく再構成すると・・・

 「激流のような時の中で 愛だけを残せ・・・壊れない愛を
  生命の証に 名さえも残さず 愛だけを残せ」


てな感じでしょうか。<激流のような時>には一介の人間ごときが抗うことなんぞできぬ、自分の名前とか形の決まったナニかとして歴史的に記録されたところで跡形もなく流されてしまう。だからこそ<激流のような時>を泳ぎ抜こうともがき続ける我々のつながりである<愛だけを残せ>、<壊れない>強固な<>こそが我々が<激流のような時>に流されずに残り得る<生命の証>なのだ。ま〜、いつもながらほんっっっとに見事なサビだよなぁと嘆息しかないですわよ✨

 やむにやまれぬ人生は綱渡りだ
  選ぶつもりで選ばされる手品だ


綱渡り>とは危ういバランスの象徴であると同時に、行き先が綱の向こう側と規定されていますね。このような<綱渡り>の性格を、<選ぶつもりで選ばされる手品>とより具体的に言い直しています。確かに確かに、それなりに長く人生を泳いでいると、後から考え直してみると線が一本につながって必然だったのかなぁ、とか運命だったのかなぁ、とか思わされることって少なくないですもんね。若かりしころの想い出がかなりの年月が経ってからつながって、これは最初っから仕組まれていた運命だったのかとすら思えてじ〜んと来たことなど、程度の差こそあれ誰しも経験しているのではないでしょうか。ねぇ、そうですよね?

 闇の中の風のように
  突然に愛は居どころを求める


突然に>を<闇の中の風のように>と直喩するセンスよ。しかも<闇の中>を使うことで、前段で<綱渡り><手品>と象徴されていた<人生>がより具体的に象徴し直されることとなり、人生の当事者である我々にとっては<人生>ってば<闇の中>なんだよなぁ、とも納得させられてしまいます。なるほど、このような多層的な仕掛けを随所に仕込めてこそ言葉の使い手である優秀な詩人なんでしょうね〜。それにしても、歌い出しで<名さえも残さず><愛だけを残せ>と歌い上げておきながら、その<>自体が形ある<居どころを求める>とはいかに。

 弱き者汝の名を名乗れ しなやかに
  強き者汝の名を名乗れ ささやかに


この2行はいかにも詩的なテクニックで、明確な意味を取るのが困難かつ明確化する必要もない、前後と関係しないリズミカルな対語法による挿入句と見えます。ですが同時に<名を名乗れ>とは自己の存在を他に意識させよ、ということに他ならず、しかも<しなやかに><ささやかに>ですから自己の存在を声高には主張するな、というメッセージであるとも読めます。これは冒頭のサビで歌い上げた<名さえも残さず><愛だけを残せ>と異なるメッセージですから、読み手の意識がか〜なり混乱させられる箇所でもあります。

ここはホントに難しくて、<>という概念の複雑さを浮かび上がらせていると思います。冒頭のサビで歌い上げたように<名さえも残さず>に<>という抽象的な関係性をどんなに残そうとしたところで、その関係性ってばそもそもが個々人という<>を持つ存在どうしの関係性でありますからして、具体的に形のあるきっかけナシには<>なんぞ生まれようがないのであります。すなはち、突然に<>が求めた<居どころ>とは個々人という<名>を持つ存在であって、それを<汝の名>で象徴しているのではないでしょうか。

 地上にある星を誰も覚えていない
  人は空ばかり見てる
 <名立たるものを追って 輝くものを追って
  人は氷ばかり掴む
『地上の星』2000年)

人ってばともすれば自己の名を歴史に刻もうとしてしまいますが、<激流のような時>の中ではそんなモンは無力。そのように自己の存在を声高に主張するのではなく、<名さえも残さず><愛だけを残せ>。わざわざ<汝の名>という普段使わない強い表現を使いながら、それを<しなやかに><ささやかに>と和らげる巧みさが輝いてますぞ。

 みんな儚くて みんな愛しくて
  振り返ってしまうから
    愛だけを残せ 壊れない愛を
    激流のような時の中で
    愛だけを残せ 名さえも残さず
    生命の証に 愛だけを残せ


>なる概念は決まった形あるナニかではございませんが、同時にナニかとナニかとの関係性があってはじめて生み出され得る概念でもありますから、歌詞の中で<>が二面的に語られることはある意味当然の帰結なのではないでしょうか。そして<>を生み出すナニかは<みんな儚くて みんな愛しくて>、中島みゆきはそのような<>を生み出す存在それぞれに温かな眼差しを注いでいると読もうではありませんか💡 中島みゆきが映画『ゼロの焦点』の台本を読んで監督がサスペンスなストーリーばかりでなくむしろ主人公の女性たちの生き方に眼を向けていることを知ってようやく『愛だけを残せ』作詞作曲の糸口が見出せたとのこと、この怪説とそれなりに符合していてホッとしました。

 形のないものに 誰が
  愛なんて つけたのだろう 教えてよ
『あした』1989年)

さて2番です。

 思いがけない幻に誘われて
  思いがけない風向きに運ばれて
  偶然の朝 偶然の夜
  我々は何も知らされず 踏み出す
  縁は不思議 それと知らぬ間に探し合う
  縁は不思議 それと知りながら迷い合う


1番を頑張って読み解いてくると、これらはそのまんまスッと心に沁みてきますね〜。

 みんな哀しくて みんな恋しくて
  立ち止まってしまうから
    愛だけを残せ 壊れない愛を
    激流のような時の中で
    愛だけを残せ 名さえも残さず
    生命の証に 愛だけを残せ




この動画で使っているピアノは100年以上昔、1894年製のアンティークピアノ。このような楽器を使ってこのような曲を弾くのはまことに愉しいです。現代では世間で聞こえる音のほとんどは電気を通していますが、このころに世間で聞こえていた音は生音が主流でした。1877年にエジソンが蓄音機を実用化し、このピアノが作られた1894年にはSPレコードの大量生産ができるようになって、次第に「録音」というシロモノが世間に知られるようになった時代。こんな時代の楽器がどれほど豊かな音世界を伝えていたのか、この動画で使っている楽器は奇跡的にオリジナルほぼそのまま、まさに時代の生き証人です。

2026年1月28日 (水)

中島みゆき 作詞/作曲『童話』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『童話』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました(*´-`)
*この編曲譜はこちらから入手できます
https://store.piascore.com/scores/391712

『童話』は中島みゆきの44作め(!)のアルバム《世界が違って見える日》のど真ん中に収録されています。

2020年に中島みゆきのラストツアーとして10都市11会場24公演が予定されていた『中島みゆき 2020 ラスト・ツアー《結果オーライ》』は新型コロナウイルスの拡大の影響で8公演のみで終了、幻のツアーとなってしまいました。その後人類はこの厄介極まる感染症に翻弄され続けましたが、ようやく付き合いがわかってきて世の中が落ち着いてきたタイミングの2023年3月にリリースされたアルバムが、この《世界が違って見える日》であります。このアルバムのタイトル《世界が違って見える日》から、戦争や感染症に翻弄された2020年以来数年間の人類世界を類推するのは容易でしょう。それでいながら中島みゆきの尋常ならざる洞察力は、このアルバムを前向きなものとして作ってのけたのです。

例によってですが、この曲の『童話』というタイトルから我々が単純に思い描ける程度の歌詞ではまっっったくナイところ、やはりやはり安定の中島みゆきでございますな。しかも、いかにも童話っぽいオルゴールの出だしで油断させられていきなりのロックな調子にガツンとヤラれるという瀬尾一三のアレンジもやはりむっちゃ冴えてますね〜。

 美しい物語 読み聞かせていた
  良い夢を見なさいと 寝かしつけていた
  おはなしのお終いは どれも必ず
  報われた幸せで 満ちあふれていた
  目を醒まして見るのは 片付かない結末
  どうして 善い人が まだ泣いているの
  童話は童話 世界は世界
  子供たちに何んと言えばいいのだろうか


この歌詞はヒネって読み解くようなモンじゃなく、単純にそのまま受け取るのが力量をストレートに感じ取れそうな気がします。否、いかにこの歌詞をヒネって読み解こうとしても、ここまで現実を冷酷に残酷に見据えられては、頷くより他ないでしょうね。最初の4行をひっくり返す次の2行のコントラストの強烈なことと言ったら、もう眩暈すらしますよ。実は、この5行めの<片付かない結末>の箇所で歌詞の方向性がガラッと変わると同時になかなか不思議な和音の使い方がされていまして、ここをカラオケで歌うのは至難でしょうね〜w

 勇ましい物語 悪者は倒されて
  囚われの人々は 救われて いだき合い
  穏やかな物語 長い旅路の果て
  たどり着くふるさとで 青い鳥が待っている
  目を醒まして見るのは 不思議な 現の闇
  泣き歩く人々が なぜまだ居るの
  童話は童話 世界は世界
  子供たちに何んと言えばいいのだろうか>


2番の歌詞もどストレートに現実をえぐってきますね〜。童話の中の「正義は勝つ」「戦いの果ての安寧」なんてぇのはゲンジツの人間社会のドロドロな不条理さの中では所詮は理想論にすぎず、ホント、空々しいったらありゃ〜しないですわよ。童話の中では悪は悪と決められていて正義は正義と決められていますがゲンジツにはさまざまな正義が入り乱れているワケで、両者ともに自分が信じる正義のために突き進んでいるんですよね。おりしも国会冒頭での衆議院解散で1月27日衆議院議員選挙公示、なかなかに エ ゲ つ な い 正 義 の 多 様 性 を目の当たりにして、否が応でも<童話は童話 世界は世界>だよなぁぁぁ、と感じさせられるワタクシ庶民でございますことよ😮‍💨

 童話は童話 世界は世界
  子供たちに何んと言えばいいのだろうか


結局、人間社会の中でそれぞれが生きていかねばならぬのですから、割り切るところは割り切って受け入れないとど〜しよ〜もないんですよね。現代はもはや幼いうちから社会の不条理も童話もわざわざ親から教わるまでもなく簡単に見聞きできる時代となりましたから、もはや童話を無批判に信じる子供なんて存在しないような気すらしますし、ひょっとしたら親世代よりも冷静にドライに社会の不条理を見据えているかも知れません。それはそれで親世代としては「親の心子知らず」で寂しいところですが、それでも温かい目線を若い世代に投げ掛けたいのが親世代でございますぞ。

アルバムのあとがきで中島みゆきはこう呼びかけました。これぞ親世代。

 ときには世界が180°絶望方向へ見えてしまうような
  出来事もあるけれど。
  それでも、きっと次の瞬間には、世界が180°希望方向へ
  見えて来るような出来事が、あなたにも、ありますように




この動画で使っているピアノは100年以上昔、1894年製のアンティークピアノ。このような楽器を使ってこのような曲を弾くのはまことに愉しいです。現代では世間で聞こえる音のほとんどは電気を通していますが、このころに世間で聞こえていた音は生音が主流でした。1877年にエジソンが蓄音機を実用化し、このピアノが作られた1894年にはSPレコードの大量生産ができるようになって、次第に「録音」というシロモノが世間に知られるようになった時代。こんな時代の楽器がどれほど豊かな音世界を伝えていたのか、この動画で使っている楽器は奇跡的にオリジナルほぼそのまま、まさに時代の生き証人です。

2026年1月 1日 (木)

中島みゆき 作詞/作曲『バクです』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

2026年、明けましておめでとうございます。今年もよろしくおつき合いのほどを。

中島みゆきの『バクです』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました(*´-`)
*この編曲譜はこちらから入手できます
https://store.piascore.com/scores/385285

『バクです』は2011年11月にリリースされたアルバム《荒野より》の一曲で、それに1ヶ月先立って『荒野より』とのカップリングのシングルが発売されています。2011年といえば3月11日にあの恐ろしい東日本大震災が起きた年、このアルバム《荒野より》にはそれを意識してメッセージが随所に込められているという解釈が少なくなく、それぞれに説得力ある論が展開されていて興味深いです。

この曲は中島みゆきのアレンジを長年任されて絶大なる信頼を置かれている瀬尾一三をイメージした曲とされています。瀬尾一三は1973年に『貘』というタイトルのソロアルバムを発表しており、「中島みゆきTOUR2010」のツアーパンフの「自分を動物に例えると?」という質問に「貘」と答えていたりもしますね〜。

「バク」とは漢字では「貘(獏)」で、人の悪夢を喰うといわれている想像上の動物です。もともと中国では貘が悪夢を喰うという記述はありませんが邪気を払うとはされており、それが日本に伝わったタイミングかどこかで「悪夢を喰う」と解釈されるようになったようで、室町時代末期には貘が「悪夢を喰う」という設定になっていたとのことです。いい初夢が見られるように七福神が乗る宝島の絵を枕の下に敷いて眠るという風習がありますが、江戸時代には悪い夢を喰ってくれる「貘」の字を宝島の帆の部分に書くことがあったとか。

 バクです バクです 今の今からバクになる
  バクです バクです バクになることに したんです


最初に主人公が<バクになることに したんです>と決意表明していますが、コレって悪夢を食べる存在になるという決意表明ですから、優しく無邪気そうな声色とは裏腹にちょ〜っと穏やかならざる雰囲気を感じてしまいませんか?

 あんたの 悪い夢を喰っちまいます
  あんたの 怖い夢を喰っちまいます
  あんたの つらい夢を喰っちまいます
  あんたの 泣いた夢を喰っちまいます


これぞ中島みゆきによる悪夢諸相、これら全部(いや、もっといろいろ)を<喰っちまう>存在になろうとしているのですから、実はなみなみならぬ悲壮な覚悟だったりするのですぞ。バクは悪夢を喰う設定な想像上の動物ですが、それだけに終わらせずに悪夢を喰ったバクがどうなるのかに眼差しを向けるところ、も〜いかにも中島みゆきならではの穿ちかたですね〜。

 <バクはまったく平気なんです 痛くもかゆくもないんです

ほらね。いくらバクが夢を喰う想像上の動物でも、バクになった主人公が<あんた>の悪夢全てを喰い続けて<痛くもかゆくもない>ハズはございません。<痛くもかゆくもないんです>ってわざわざ言うってぇコトは一種の自己暗示、まぁかゆくはないかもしれませんがw、ホントはすっっっごく痛いんですよ〜💦

 腹いっぱいになりすぎたなら ふわりふわりと浮きそうだ
  そしたらバクは夢を見るんだ そしたらバクは夢を見るんだ
  笑ってるあんたの夢を見る


バクになった主人公は<あんたの>悪夢を喰ってすっっっごく怖く、つらく、泣きたいはずなのに、<ふわりふわりと浮きそうだ>と。こりゃ〜カラ元気でしょうが、<腹いっぱいになりすぎたなら>眠くなってふわりふわりと夢の世界にいざなわれることもまた確かですな。それでいながらバクになった主人公の見る夢は<笑ってるあんたの夢>なのですから、<ふわりふわりと>軽く実態感のない夢の中であっても、ど〜しようもなく寂しい。あんたの悪夢を喰って<笑ってるあんた>を実際に見ているのではなく<笑ってるあんた>を夢の中で見ているのですから、その<笑ってるあんた>は夢から覚めたら消えてしまうんですよ〜〜〜😭

だいたいそもそも、夢を喰らうバクが夢を見るところからしてめっちゃネジくれてまして、この『バクです』でバクが見ている夢は実は寝ている時に見る夢であると同時に、「あんたのバク」になろうと決意した主人公の「あんた」へ向ける切なる願い、とも読めます。「夢」とはこのように二面性を備える単語で、「願い」を「夢」と読み替えるとき、往々にしてその願いが叶う可能性は低いワケです。主人公から<あんた>への切なる願いは<>ですから、叶う可能性はかなり低いのです。いやはや、ホントに、泣けますね。

そういえば、中島みゆきは《CONCERT'95 LOVE OR NOTHING》の舞台で

 <夢は、叶った方がいいです。でも叶わない夢もあります。
  姿を変えでもしない限り、叶いようのない夢もあります。
  だからどんなに、姿形を変えようとも、どんなに傷ついてでも、
  あなたの夢がいつか叶いますように>


と言ってましたっけ。1995年は阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件が立て続けに起こった年、この言葉が呼び覚ましてくれる何かはただひたすらに大きいです。それにとどまらず、2011年の東日本大震災があって最初にリリースしたのが『荒野より』と『バクです』とのカップリングのシングルですから、ここにも深く重いメッセージを感じます。一流の芸術家は常人の浅知恵が及びもしないほどの関連づけ・意味づけを行う存在ですから、これが偶然であろうハズがないのではないでしょうか。

 あんたの 悲しいことを喰っちまいます
  あんたの 寂しいことを喰っちまいます
  あんたの 苦しいことを喰っちまいます
  あんたの 痛いことを喰っちまいます


2番ですが、1番を「あんたのバク」になろうと決意した主人公の心の痛みの現れと読んでしまうと、<悲しい><寂しい><苦しい><痛い>と繰り返されるだけで胸が締めつけられます。<こと>は「夢」をさらに抽象化させており、ここで「夢」を「願い」と置き換えると

 <あんたの 悲しい願いを喰っちまいます
  あんたの 寂しい願いを喰っちまいます
  あんたの 苦しい願いを喰っちまいます
  あんたの 痛い願いを喰っちまいます>

となり、「あんたのバク」になろうと決意した主人公は、願いを果たせなかった<あんた>の痛みを自らの痛みとして受け入れる存在となったのです。

 バクはまったく悪もの喰いで 何んでも彼んでも喰うんです
  心配されても その心配さえ うまいうまいと喰いそうだ
  バクは1人で喰い続けてる バクは1人で喰い続けてる
  笑ってるあんたの夢を見るまで


2度繰り返される<バクは1人で喰い続けてる>がめ〜っちゃグッときますね。主人公は<あんた>の痛みを自らの心の痛みとして受け入れて、それだけでなく願いを果たして<笑ってるあんた>になって欲しいと切に願い続けているのでしょう。この一連の最後は倒置法で、平易に直すと
 笑ってるあんたの夢を見るまで
  バクは1人で喰い続けてる


ですね。1番では腹いっぱいになって笑ってるあんたの夢を見るだけですが、2番では<笑ってるあんたの夢を見るまで><1人で喰い続けてる>のですから、このバクの寂しさたるやいかばかりでしょう。

 バクの上に夢よ降り積め あんたの捨てたい夢よ降れ

三好達治の『雪』ですね。『雪』はたった2行だけの詩ですが、この一度見たら忘れられない強い印象は一体全体ナンなんでしょうね。1927年の発表ですから、な〜んと100年前😳

 <太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
  次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。>
(三好達治『雪』1927年)

バクの上に降り積むのがあんたの悪夢であってそれを腹いっぱいに喰ったバクが寝るのですから、ここでは三好達治の『雪』を<>に読み替えて読み手の妄想をふくらませているのかも。それにしても、この<あんたの捨てたい夢よ降れ>を『バクです』の歌詞の中にどう位置づけるかの難しいこと難しいこと😅

 <あんたの捨てたい悪夢よ バクの上に降れ、降り積もれ>
を倒置法を交えて詩的に表現して、悪夢より抽象的かつ二面性を備える<夢>を用いることで<あんたの捨てたい夢>を「あんたが果たせなかった願い」と読ませるのでしょうか。「あんたのバク」になった主人公は、<あんた>が願いを果たせるまでただひたすらに待ち続ける存在なのでしょう。中島みゆきの楽曲には聴き手に対して力強くエールを送る歌詞が多いですが、この『バクです』はただひたすらに待つことで<あんた>が象徴する聴き手ひとりひとりにエールを送る曲なんですね。傷つきながらも優しく無邪気そうな声色でただひたすらに待つ存在、なるほど、ひとの悪夢を喰ってくれるバクに相応しいです。

さて、今さらですが、『バクです』を瀬尾一三との連関として読み直してみましょう。
アレンジャー/プロデューサーとは欠くことができない大切な立ち位置であると同時に、創作者であって創作者ではないという微妙な立ち位置でもあります。1973年にソロアルバム『貘』を出すも必ずしも商業的成功は得られずにアレンジャー/プロデューサーに転身して大成功を収めた瀬尾一三、なるほど、中島みゆきという創作者が笑えるまでとことんその<>=願いを喰い続けてくれる「」ですね。ただ寂しく待つだけでない、能動的にあんたの夢を喰い続ける「貘」が瀬尾一三なのでしょう。

 バクは1人で喰い続けてる バクは1人で喰い続けてる
  笑ってるあんたの夢を見るまで


実は、クラシック音楽を演奏するってぇコトも基本的には他人の創作物を演奏するのですから、創作者であって創作者でない立ち位置なんですぜ💡

今年(2026年)もよろしくお願いします。さぁ、あんたの初夢が悪くなくても喰っちまいましょかね😎



この動画で使っているピアノは100年以上昔、1894年製のアンティークピアノ。このような楽器を使ってこのような曲を弾くのはまことに愉しいです。現代では世間で聞こえる音のほとんどは電気を通していますが、このころに世間で聞こえていた音は生音が主流でした。1877年にエジソンが蓄音機を実用化し、このピアノが作られた1894年にはSPレコードの大量生産ができるようになって、次第に「録音」というシロモノが世間に知られるようになった時代。こんな時代の楽器がどれほど豊かな音世界を伝えていたのか、この動画で使っている楽器は奇跡的にオリジナルほぼそのまま、まさに時代の生き証人です。

2025年12月 2日 (火)

中島みゆき 作詞/作曲『昔から雨が降ってくる』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

本日(12/2)はワタクシの60回めの誕生日、いろいろありつつも59歳を迎えることができました。

さて恒例の中島みゆき、『昔から雨が降ってくる』をいつもの1894年製アンティークピアノで弾きました(*´-`)
*ワタクシの編曲譜はこちらから入手できます
https://store.piascore.com/scores/379184

『昔から雨が降ってくる』は、2007年4月15日にリニューアル再スタートしたMBS/TBS系ドキュメントバラエティ番組「世界ウルルン滞在記“ルネサンス”」のエンディング曲です。同番組のオープニング曲『一期一会』とともに2007年7月にシングルが発売、そして同年10月に発売されたアルバム《I Love You, 答えてくれ》のラストから2曲めの所収です👌

この曲ってば、そもそも題名が謎かけで考えさせられますよね〜。「雨が降っている」ではなく「雨が降ってくる」ですから、単純な「昔から雨が降り続けている」にとどまる程度の題名ではございませぬぞ。これ、言うなれば「昔降っていた雨がそのころの降り方そのままに、現在の我々にも降って来ているのだ」という、悠久の時の流れを象徴するまことに大きな題名だと思います。この意図を明解にしたいならば『雨が昔から降って来る』とするのが妥当でしょうが、こんなきっちりした題名な雨の降り方では詩的な情感もへったくれもなく、<なつかしく降ってくる>なぁんて情緒とはおよそ無縁になりますなw

 あの雨が降ってくる
  僕は思い出す
  僕の正体を
  昔から降ってくる
  なつかしく降ってくる


だからこそのこのサビで、前世やそれ以前に<>が体験していたであろうさまざまを<あの雨>で象徴しているワケであります。現代に降っている雨は実は太古からの雨でもあり、これすなはち「時は循環して連続する」という、中島みゆきの楽曲に頻繁に登場する「輪廻転生」に通じる考え方でありましょう。そしてそれは、あらゆるひとの一生の中で育まれている過去から現在そして未来への人生行路をも象徴しており、転じて他者と人生体験を分かち合うところにまで想いを馳せたくなるような気にさせられますね〜💡

 昔、僕はこの池のほとりの
  1本の木だったかもしれない
  遠い空へ手を伸ばし続けた
  やるせない木だったかもしれない


やるせない【遣る瀬ない】とは辞書によると、憂い・悲しみを紛らわそうとしても、晴らしどころが無(くて、せつな)いという意をもちます。樹木は大地にどっしり根を下ろす力強く雄大な象徴であるばかりでなく、この1番の歌詞では遠い空に象徴される手の届かない存在に対するやるせなさの象徴。ある程度長く人生を経験していれば、誰しもこのような感情に駆られる時があっても仕方ないでしょう。まことに印象的な起承転結の「起」ですね。

 昔、僕はこの海のほとりの
  1匹の魚(うお)だったかもしれない
  話しかける声を持とうとした
  寂しがる魚(うお)だったかもしれない


魚は水中に生きる存在で、なるほど、いかにも声は出せなさそうですし、よしんば声を出せたとしても人類には聞こえないでしょうね。魚にとっての声に象徴される持ちたくても持ち得ない何かを持てずに寂しがる様子、これまたある程度長く人生を経験していれば、誰しもこのような感情に駆られる時があっても仕方ないでしょう。1番の<やるせない>を受けた2番の<寂しがる>が中島みゆきらしさ充分な、起承転結の「承」でしょう。

 昔、大きな恐竜も
  昔、小さな恐竜も
  同じ雨を見あげたろうか
  同じ雨にうなだれたのだろうか


この1連の前に穏やかな間奏が入り、ここで<恐竜>が入る2段だけ変ト長調(フラット6個)からニ長調(シャープ2個)への転調をぶっ込んでくる、というなかなか衝撃的な技術(実は単なる長三度下降にすぎないのですが)。ニ長調はフラットで書き換えればフラット10個の重変ホ長調で、ショパンならシャープでなくフラットで書いただろうなと思って楽譜にするときにチト迷ったのはココだけのハナシwww。太古から流れ続けている悠久の時の流れ、そして今も昔も変わらぬ喜怒哀楽・毀誉褒貶な人間模様に想いを馳せられる、名実ともに起承転結の「転」ですな。

 昔、僕はこの崖の極みの
  1粒の虫だったかもしれない
  地平線の森へ歩きだした
  疑わない虫だったかもしれない


ここまでの3連は<やるせない>とか<寂しがる>とか<うなだれた>とか、半端なく美しいのにどうにもこうにも後ろ向きで忸怩たる雰囲気に満ちていますが、ここで満を持して前に進む<1粒の虫>の登場であります。この将来に対する期待に満ちた高揚感、少し前に動画を出しましたねん😛

 砂は海に海は大空に
  そしていつかあの山へ
『小石のように』1979年)

この<1粒の虫>の一連で落ち着いた変ト長調からスッと半音上げて前向きなト長調に転調しており、曲も歌詞もグッと前向きに進むように書かれています。ほ〜んと、お手本のような起承転結の「結」ですね〜。我々は悠久の時の流れの中では一粒の虫に過ぎない存在でしょうけれど、昔から降ってくるあの雨を感じられる我々は、もはや単なる虫ではございませぬ💪

 あの雨が降ってくる
  なつかしく降ってくる



この動画で使っているピアノは100年以上昔、1894年製のアンティークピアノ。このような楽器を使ってこのような曲を弾くのはまことに愉しいです。現代では世間で聞こえる音のほとんどは電気を通していますが、このころに世間で聞こえていた音は生音が主流でした。1877年にエジソンが蓄音機を実用化し、このピアノが作られた1894年にはSPレコードの大量生産ができるようになって、次第に「録音」というシロモノが世間に知られるようになった時代。こんな時代の楽器がどれほど豊かな音世界を伝えていたのか、この動画で使っている楽器は奇跡的にオリジナルほぼそのまま、まさに時代の生き証人です。

2025年10月31日 (金)

中島みゆき 作詞/作曲『ピエロ』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『ピエロ』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました(*´-`)
*ワタクシの編曲譜はこちらから入手できます
https://store.piascore.com/scores/372721

『ピエロ』は1979年9月21日にリリースされたシングル《りばいばる/ピエロ》のB面です。『ピエロ』は根津甚八への提供曲で、なんとこちらも同じキャニオン・レコードから同じ1979年9月21日にシングル《ピエロ/まだ浅い別れ》としてリリースされています。根津甚八の方も YouTube に転がっているので聴いてみましたが、さすがさすがの舞台人の歌、語り口がバツグンでございましたぞよ〜👌

 思い出の部屋に 住んでちゃいけない
  古くなるほど 酒は甘くなる
  えらそうに俺が 言うことでもないけど
  出てこいよ さあ 飲みにゆこうぜ


この『ピエロ』の歌詞の情景描写は単純ですが描かれている人間関係はなかなかシビれますね〜。フラれて手酷く傷ついた心を癒せずに幸せだった<思い出の部屋>という世界に閉じこもってしまっている女性、そしてその女性に片想いし続けていて気が気じゃないと思いつつもチャンスと狙っている<>という関係。失恋は立ち直ってこそ人生の糧となり得る経験ですが、立ち直れないままに思い出に浸って心を麻痺させてしまうのは危うい、ということを<古くなるほど 酒は甘くなる>と表現しており、同時にすぐ後に現れる<麻酔>の伏線としています。この中島みゆきの言葉の切れ味、いつもながらですがもぅさすがとしか言いようがないですね〜。片想いの相手が失恋したらチャンスと思うのはごくフツーと思いますがw、それにしても主人公の<>ってば、ほんとにホントに優しすぎるオトコですな😅

 かまれた傷には 麻酔が必要
  俺でも少しは 抱いててやれるぜ


コレ、要は「どうした? ハナシ聞こうか?」であわよくば、という単純なネタでしょうが、そこに<>と<麻酔>とを掛けるという歌詞のテクニックをしれっとぶっ込むセンスに脱帽ですわよ。

 思い出の船を おまえは降りない
  肩にかくれて 誰のために泣く
  まるで時計か ゆりかごみたいに
  ひとりで俺は さわぎ続ける


優しすぎる主人公のせいなのか、女性にとっての<思い出>があまりにもよろしかったからでしょうか、主人公の心配も期待も虚しく空回りし続けているようです。<時計>は時間の経過と同時にその無情さも象徴しており、<ゆりかご>は<思い出の船>を揺らす波であると同時に女性の心を動かそうと孤軍奮闘する主人公の心の動き。<ひとりで俺は さわぎ続ける>は、まさに主人公が女性が受けた失恋の痛手をどうにかして癒し忘れさせようと孤軍奮闘している様子。同時に、<時計>と<ゆりかご>とは同じ運動を繰り返す存在で、主人公の心配も期待も虚しく空回りし続けていることも象徴していたりしますね。これぞ題名の『ピエロ』=道化、という、表面はおどけて見せていても内面にはなんとも言いようのない哀しみそして翳りを抱えている存在、癒し手になりたくても果たせない恋の痛みを抱えている存在、ピエロの輪舞から抜け出せない存在でありま〜す💡

 飲んでりゃ おまえも うそだと思うか
  指から 鍵を奪って
  海に 放り投げても


この一連は難しいですが、まずは単純にココは倒置法ですから・・・

 指から 鍵を奪って 海に 放り投げても
  飲んでりゃ おまえも うそだと思うか


となり、<>とは<思い出の部屋/船>の鍵。その鍵をおまえの指から奪って海に放り投げるのですから、女性を閉じこもった殻の外に連れ出せて(=出てこいよ)、首尾良く失恋の痛手を癒すことができた(=かまれた傷には 麻酔が必要)、という状況を主人公が仮定というか妄想していると読みます。そして、<うそだと思うか>の「か」は反語ではなく詠嘆をあらわす終助詞「か」と読みます。しかし悲しいかな、その仮定・妄想の中であっても女性がかけられた麻酔のような何かは<かまれた傷>だけに効くワケもなし、主人公が失恋の痛手を癒してくれたということにも効いてしまって<うそだと思>われてしまうんだろうなぁぁぁ=<>の片想いは結局は女性に通じないんだろうなぁぁぁ、というな〜んともやるせなく逡巡する主人公の心でありますことよ(詠嘆)

ここで思い出すのは

 二人だけ この世に残し
  死に絶えてしまえばいいと
  心ならずも願ってしまうけど
  それでもあなたは 私を選ばない
『この世に二人だけ』1983年)



この動画で使っているピアノは100年以上昔、1894年製のアンティークピアノ。このような楽器を使ってこのような曲を弾くのはまことに愉しいです。現代では世間で聞こえる音のほとんどは電気を通していますが、このころに世間で聞こえていた音は生音が主流でした。1877年にエジソンが蓄音機を実用化し、このピアノが作られた1894年にはSPレコードの大量生産ができるようになって、次第に「録音」というシロモノが世間に知られるようになった時代。こんな時代の楽器がどれほど豊かな音世界を伝えていたのか、この動画で使っている楽器は奇跡的にオリジナルほぼそのまま、まさに時代の生き証人です。

2025年9月26日 (金)

中島みゆき 作詞/作曲『小石のように』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『小石のように』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました(*´-`)
*ワタクシの編曲譜はこちらから入手できます
https://store.piascore.com/scores/365165

『小石のように』は1979年にリリースされたアルバム《親愛なる者へ》のB面5曲の真ん中です。軽快で聴きやすく、なんとなく箸休めな位置づけっぽく感じられます。ナニしろ前の曲が絶望の先を見据えたような怖い怖い切れ味の『ダイヤル117』ですから、も〜、なんちゅ〜曲順なのよ〜😅

 山をくだる流れにのせて
  まだ見ぬ景色あこがれ焦がれ
  転がりだす石は16才
  流れはおもい次第


守られている環境から足を踏み出すときのワクワク感、それを上流から川をくだるナニかに例えるのは取り立てて珍しい着想ではないと思いますが、最後の<流れはおもい次第>の最後で明るいメジャーな曲調からふっと翳るようにマイナーで終えるところがニクい技術。そりゃ、ワクワクだけでなく不安もよぎるのは当然の感覚でありま〜す。

 旅をとめる親鳥たちは
  かばおうとするその羽根がとうに
  ひな鳥には小さすぎると
  いつになっても知らない


いつになっても親は親で、スマートな子離れなんぞ簡単にできる親ばかりじゃございませんことよ。ここで唐突に<小石>が<ひな鳥>に変わっていることをあげつらうのはヤボ、曲のラストでこの伏線が回収されるんですよ〜💡

 おまえ おまえ 耳をふさいで
  さよならを聞いてもくれない
  とめどもなく転がり出して
  石ははじめて ふりむく


ひな鳥>の巣立ちは巣からさっそうと飛び立つようなカッコいいモンじゃなく、それこそ巣からドサッと落っこちてますよね〜。守られているときにはともすればその環境のありがたさを忘れがちになり、そこから離れてその本当のありがたさを知る、というのは言い古された人生訓ではありますが、言い古されるということはワリとみんなそんなモンだということで。

 川はいつか幅も広がり
  暗く深く小石をけずる
  石は砂に砂はよどみに
  いまやだれにも見えない


夢を見て希望を抱いていてもそんな夢なんぞ簡単に実現するワケもなく、それが度重なると身も心も削られて気づかぬうちに夢の希望も小さくなってしまうのがワリとフツーにある人生なのではないでしょうか。社会にもまれて角を削られて丸くさせられ、それはとりもなおさず自分自身の存在価値を見失ってしまうことに他ならない、というのも人生の定型として言い古されていますが、言い古されるということはワリとみんなそんなモンだということで(2回めw)

 おまえ おまえ 海まで百里
  坐り込むにはまだ早い
  石は砂に砂はよどみに
  いつか青い海原に


ただただ流されるままでいれば自発的に動くなんてぇ面倒はしなくて済みますし、自分自身の存在価値なんてあってもなくても変りゃしないわ〜、という姿勢は嘆かわしく一段劣って見られがちでしょうが、それはそれで一つの見識というか処世術として立派だと思います。それでも人は長く遠い人生を生き続けざるを得ないワケで、そんな人たちを暖かく見守り続けるこの曲の着眼点、いかにも中島みゆきであります。

中島みゆきにはこの手の名も知られぬ存在に対する応援ソングが少なくなく、デビュー後50年もトップを走り続けているということは、励まされたってそんなの邪魔でしかないからただただ静かにテキトーに生きさせてほしい、と思っているような人たちにも伝わる「ナニか」があるのでしょうね。これぞ詩作における高度な「抽象化」のなせるワザで、具体的でないからこそ受け取り側の心のあり方に応じて姿を変えられて、その結果まるで自分自身のために歌われているかのように具体的に受け取ってもらえるんですよね〜。ホントに人間心理って興味深くてたまらないです✨

 おまえ おまえ 海まで百里
  坐り込むにはまだ早い
  砂は海に海は大空に
  そしていつかあの山へ


そっか、<あの山へ>飛び立てるのは成長した結果の<ひな鳥>ですね。これは<小石>のはなしではなく、<小石>の旅にたとえた<ひな鳥>のはなし。そして、<小石>とは「流される存在」すなはち自分の意思でなく環境に運ばれてしまう存在の象徴であり、<ひな鳥>とは「自立すべき存在」すなはち守られてきたが羽ばたく意思がある存在の象徴。この歌詞では「未熟さ」という単語で表現される状態を<小石>と<ひな鳥>という別の切り口をもって取り上げており、最後に伏線の回収という形をとって二つの切り口が重なるように構成されている、まことに良く構成された歌詞だと思います。

しかも、<あの山>とは<流れ>が始まるところでもあり、それはまさにまさに<小石>の生まれ故郷でありま〜す。これは中島みゆきの歌詞に頻出する「輪廻転生」に他ならず、万物は流転して循環するという世界観にもつながる、実は箸休めに見せかけた大きな歌詞でもあったんですぞ💡💡💡

 砂は海に海は大空に
  そしていつかあの山へ


 

この動画で使っているピアノは100年以上昔、1894年製のアンティークピアノ。このような楽器を使ってこのような曲を弾くのはまことに愉しいです。現代では世間で聞こえる音のほとんどは電気を通していますが、このころに世間で聞こえていた音は生音が主流でした。1877年にエジソンが蓄音機を実用化し、このピアノが作られた1894年にはSPレコードの大量生産ができるようになって、次第に「録音」というシロモノが世間に知られるようになった時代。こんな時代の楽器がどれほど豊かな音世界を伝えていたのか、この動画で使っている楽器は奇跡的にオリジナルほぼそのまま、まさに時代の生き証人です。

2025年8月26日 (火)

中島みゆき 作詞/作曲『土用波』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『土用波』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました(*´-`)
*ワタクシの編曲譜はこちらから入手できます
https://store.piascore.com/scores/359084

『土用波』は1988年にリリースされたアルバム《中島みゆき》のA面3曲めです。このアルバム《中島みゆき》は中島みゆきがレコーディングのためにコンサート活動を一時休止した、いわゆる「産休宣言」後に発売されたアルバムです。このアルバムのタイトルは実に困ったモンで、検索しようとするとアルバム以外がわんさか引っかかって来やがるんですよね〜🤣

なお、土用波とは夏の「土用」(7月20日頃~立秋の前日まで)の時期のうねりの大きい波のことで、海水浴やサーフィンではさらわれないように注意するべき波とのことです。「土用」とは「季節の変わり目」のことで、そのような季節に押し寄せる「さらわれないように注意するべき大波」ですから、中島みゆきの歌詞の題材としてまことに好適ですな。

 昔の歌を聴きたくはない
  あの日が二度と戻らないかぎり
  なつかしい名前口ずさんでも
  砂を崩して 土用波がゆく


最初の2行は倒置法ですから、平易な文にすれば
 <あの日が二度と戻らないかぎり
  昔の歌を聴きたくはない
  なつかしい名前を口ずさんでも
  砂を崩して土用波がゆく>

ですな。

今の主人公にとって幸せだった<あの日>は<二度と戻らない>ワケで、それなら思い出したくもないと思うのが逆に強がりなことは往々にしてございます。そして幸せだった<あの日>を思い出そうと<なつかしい名前>を<口ずさんでも>、<あの日>は<二度と戻らない>という現実が突きつけられてしまうのでしょう。時の流れはたかが人間の意思なんて一切意に介さず、まことに無情であります。これぞ、土用波という「季節の変わり目に押し寄せる大波」という存在を「季節の変わり目に一切合切を流し去ってしまう」存在として暗喩しているゆえんで、さすがの中島みゆきの詩作力/思索力でありま〜す💡

 愛の重さを疑いながら
  愛に全てをさらわれてゆく


永遠に続くかと思っていたあの幸せな日々ですら終わってしまうなんて<愛の重さ>なんてそんなもんなのか、こんちくしょ〜、と<愛の重さを疑い>たくなるような経験は誰しもあるのではないでしょうか。だからこそ未練は募るばかりになって何も手につかず<全てをさらわれて>しまうほどになってしまう、それも<>なのであります。「一切合切を流し去ってしまう」土用波のイメージがここでピリッと効いてますね。

 <伝えそこねた言葉のように
  雨をはらんで 土用波がゆく>

<伝えそこねた言葉>の内容は主人公だけが知っていて、それを伝えられなかった相手はそれを知る術がないですね。<雨>が主人公の後悔の念と読み取るのは簡単で、まさに「後悔先に立たず」。ここでも「一切合切を流し去ってしまう」土用波のイメージが効きますね〜。

 あなたの髪から私の髪へと
  流れ落ちる 土用波の音
  溜息まじりの潮風を泳ぐ
  折れたカイトに見覚えはないか


あなたの髪から私の髪へと><土用波の音>が<流れ落ちる>という表現は、聴覚的現象を触覚的現象に置き換えるという、詩作の妙技としか言いようのない見事な表現だと思います。さすれば<溜息>はお互いの溜息、<折れたカイト>はすなはち「空を飛べなくなった凧」であって、終わりを迎えたふたりの喪失感の象徴。その喪失感に対して<見覚えはないか>と問いかけるのは、自分だけでなく相手も同じような喪失感を抱えているんだよね、という確認のニュアンスもありそうです。う〜ん、めっちゃ切ないですな。

 流れゆけ流れてしまえ立ち停まる者たちよ
  流れゆけ流れてしまえ根こそぎの土用波


立ち停まる者たち>とは、時の流れにあらがって<二度と戻らない><あの日>という過去にしがみつこうとしている主人公の象徴そして一般化でしょう。まぁそれ自体は仕方ないことですけれども現実としてはそこに留まり続けるワケにもいかず、<土用波>に象徴される無情な時の流れの力を借りて前に進むしかないんですよね〜。してみれば、「季節の変わり目に一切合切を流し去ってしまう」という<土用波>の力強さは、何かを終わらせてしまうと同時にそれを流し去ってくれて新しい自分に生まれ変わる原動力となり得る破壊と創造の両面を兼ね備えた力強さであり、やはり中島みゆきの歌詞に頻繁に出現する「転生」の原動力なんだなぁと思わされます。

 流れゆけ流れてしまえ根こそぎの土用波



この動画で使っているピアノは100年以上昔、1894年製のアンティークピアノ。このような楽器を使ってこのような曲を弾くのはまことに愉しいです。現代では世間で聞こえる音のほとんどは電気を通していますが、このころに世間で聞こえていた音は生音が主流でした。1877年にエジソンが蓄音機を実用化し、このピアノが作られた1894年にはSPレコードの大量生産ができるようになって、次第に「録音」というシロモノが世間に知られるようになった時代。こんな時代の楽器がどれほど豊かな音世界を伝えていたのか、この動画で使っている楽器は奇跡的にオリジナルほぼそのまま、まさに時代の生き証人です。

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