中島みゆき 作詞/作曲『LADY JANE』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で
中島みゆきの『LADY JANE』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました(*´-`)
*ワタクシの編曲譜はこちらから入手できます
https://store.piascore.com/scores/334211
『LADY JANE』は2015年11月にリリースされたアルバム《組曲(Suite)》のトリを飾る大切な曲です。「LADY JANE」とは大木雄高(おおきゆたか)氏(79)経営の下北沢のジャズバー「レディ・ジェーン」のことで、「シモキタ」という演劇や音楽の街の伝統の象徴ともいうべき存在、残念ながらついこないだ2025年4月13日を最後に閉店の憂き目にあってしまいました。入居する建物の契約更新が認められなかったのが閉店の理由ですが、住民にロクに説明せず大手ゼネコンが行政と結託して勝手に作っていくような再開発に猛反対する斬り込み隊長的存在がマスターの大木氏でして、こりゃ再開発推進側地主の意図に決まっとるサと容易に推測できますわな😤
下北沢の再開発が始まったのが2003年のこと、小田急下北沢駅が2013年3月23日に地下化されて古き佳き姿が加速度的に消えてきたタイミングの2015年秋に中島みゆきのアルバム《組曲(Suite)》が発売され、その2015年は「レディ・ジェーン」の40周年、しかも中島みゆきのデビュー40周年でもありました。そのようなアルバムのトリを飾る曲が『LADY JANE』であるというコト、さらには昨年2024年に東京・大阪で全16公演行われた中島みゆきの《歌会 VOL.1》でも『LADY JANE』が歌われたワケで、これには単なる行きつけのバーへの感謝を超越した大っっっ変に重い意味があるはずですよね〜。街をつくり上げ支えてきた市井の生活者の声を代弁して強大な大手ゼネコンそして行政と斗う闘士としての「レディ・ジェーン」の姿は、中島みゆきが昔っから発信している「名も無き存在へのエール」としっかりシンクロしていますし💡
シモキタの再開発の過程をホンの少し知るだけでも、店の様子をなにげなくも生き生きと描写する中にチラリとぶっ込まれている再開発の多面性を指摘する一言がまことに心に響きます。同時に下北沢の再開発を全く知らぬ聴き手に対してもちゃぁんと詩として意味をなすように平易に仕組まれているところ、さすがは言葉の使い手のプロ中のプロが編み出した歌詞であります。
<LADY JANE 店を出るなら まだ
LADY JANE 暗いうちがおすすめです 日常な町角>
のっけから謎かけのように始まるのは、空想の世界に誘ってくれる意味もあるのでしょうか。時間帯を物理的に考えると明るくなる前で、すなはち夜明け前の時間帯。明け方までダラダラと飲むのはジャズバーならではでしょうが、あたしにゃムリですw
それにしても<日常な町角>の<な>の用法が難解ですね〜。困ったときの英訳で、この部分は<Daily life would hit you otherwise>となっています。な〜るほどなるほど、「暗いうちに店を出ないと日常にヤラれちまいますヨ」ってぇ意味なんですね。「日常」とはナニも考えなくても過ごせるルーチンワークと捉えられ、その対語として「非日常」があるのは自明。
<LADY JANE どしゃ降りの夜なら
LADY JANE 古い看板が合います 色もない文字です>
ふむ、「日常」と「非日常」とを隔てる結界が<LADY JANE>の<古い看板>そして<色もない文字>、という図式ですな。いいぞいいぞ。
<愛を伝えようとする二人連れが ただジャズを聴いている
愛が底をついた二人連れも ただ聴いている>
いやはや、詩人の思索のフィルターを通ると「二人連れの若者も熟年もジャズを聴いている」という状況説明wがこうも美しくなってしまうんですな。それにしても<愛が底をついた>ってぇ表現、いかにも酸いも甘いもひっくるめて年輪を重ねてきた雰囲気ですな。
<時流につれて客は変わる
それもいいじゃないの この町は 乗り継ぎ人の町>
下北沢は決して大きな駅でも町でもないですが乗継駅として重要ですね。ひっきりなしに乗継客が行き交う町であることは変わりませんが、<時流につれて>変化していくのは当然のこと。同時に<乗り継ぎ>は単なる路線間の乗継のみならず、古いナニかと新しいナニかとの移り変わりでもあり、ある考え方と別の考え方との乗り換えでもあり、そして、過去と未来の乗り継ぎ地点とは現代に他ならないことも頭に留めておきたいです💡
<LADY JANE 大好きな男が
LADY JANE この近くにいるの たぶんここは知らないけど>
ラストで歌い出しのフレーズをリフレインして片想いな歌詞をぶっ込んでくるところ、もう安定の中島みゆきですな。ここでホッとしてしまうのがイイのか悪いのかw
<LADY JANE 脛に傷ありそうな
LADY JANE マスターはいつも怒ってる 何かを怒ってる>
さぁ、2番でメンドくさそうなマスターの登場でござい。ジャズバーのマスターなんつ〜のは偏屈なオヤジと相場は決まっとるwですが、シモキタ再開発と斗う闘士としての<LADY JANE>大木氏を知ってしまうと、そりゃもう、ナニに怒っているかは自明ね。
<LADY JANE 昔の映画より
LADY JANE 明日の芝居のポスターが 何故か古びている>
こんなことがあっても不思議じゃない空間ってあるよね〜、と単純に読んでも店内の描写として成り立ちますが、ち〜ょっとヒネりたい一節。<昔>と<明日>とを対比して<明日>の方が<何故か古びている>と指摘する一節ですから、当〜然シモキタの再開発とからめたくなりますぞ。
かつてシモキタは雑多な芸術が巣食っていた猥雑と言っても過言ではない一帯で、新しいナニかが次々と生まれて輝いていたはずです。対して現代の再開発が区画整理して大っきなビルを建てる、という方向ばかりなのはワリと簡単に観察できます。ゼネコンや行政が建設効率ばかりを重視せざるを得ない結果ですから没個性になるのは理の当然、建設費用を回収するための高いテナント料がために昔からの商店が「結果的に」排除されて大手資本のチェーン店ばかりが入居すれば没個性になるのもこれまた理の当然でございましょう。
高度経済成長にしろバブルにしろ過去のあだ花、もはやそんな夢物語はありえないと突きつけられ続けているのが現代なはずです。それなのにあ〜も変わらず旧態依然とした効率重視の大艦巨砲主義を振りかざしているワケで、再開発して建物だけを新しくしたところで新しさのカケラもなく<古びて>見えるのは、<何故か>どころか当っっったり前のことではございませんか。こんなことは50年以上も前から指摘されているワケで、再開発の際に「地域らしさ」とはなんぞやと検討する協議会こそ設置されますが、それが逆に再開発に対する「免罪符」であることもまた現実です。推進側の意図に反する答申を出したが最後、次の仕事はもらえなくなる=カネが稼げなくなるワケですからね〜😤
<座り心地が良いとは言いかねる 席はまるで船の底
常に灯りは霞んでいる 煙草のるつぼ>
これまた店内の描写であると同時に、再開発前の雑多で猥雑なシモキタの雰囲気を象徴させていると読みます。シモキタに限らず、行政が巨額の予算を組んでまで再開発したくなるところは、安全にも治安にもいささか問題を抱えているのは確か。何事にも滅菌消毒されたような清潔さが求められる現代ですから、それをキレイに整え直さねばならぬという意見が「民意」とされるのもまた現実でしょう。
<時流につれて町は変わる
迷い子になる程変わっちまっても この店はあるのかな>
現代とは万事効率が求められる時代であります。効率化とはつまるところ標準化・規格化ですから、没個性になる必然がございます。そりゃ〜<変わっちまって><迷い子になる>のもむべなるかな。いやホンマ、<LADY JANE>が2025年4月13日に閉店させられてしまったことが残念というか象徴的に感じられてなりません。
<酔いつぶれて寝ていたような片隅の 客がふいとピアノに着く
静かに遠ざかるレコードから 引き継いで弾く>
かつては人間関係が親密で、部外者にはワケわからぬ「不文律」やら「以心伝心」などなど「暗黙の了解」とかいう不思議かつメンドウな空気がありました。客が店のピアノを弾くのならレコードはどんな名演であろうが邪魔なワケで、マスターがボリュームを絞るのは基本中の基本ですね。このような空気感、果たして昨今なにかとヤヤこしいストリートピアノ界隈では如何?
<時流につれて国は変わる
言葉も通じない国になっても この店は残ってね>
な〜んか穏やかでない歌詞でもありますが、これまた<国>を「国のあり方」転じて「立場」そして「世代」とでも捉え直せば、<言葉も通じない>状態とは「利害が対立する立場」とか「世代交代」のために「話が通じなくなってしまう」状態の象徴ですよね〜。昔ながらのふんわりしたユルい共通理解が通じない相手や世代が主流になっても<この店=LADY JANEは残ってね>という、まぁ古い世代の戯言なのかもしれません。
<LADY JANE 私は一人です
LADY JANE 歩いて帰れる程度の お酒を作ってね>
おぉ、そういえば、<愛を伝えようとする二人連れ>と<愛が底をついた二人連れ>がいましたっけ。主人公が自力で歩いて帰らねばならぬのはチト不条理ですが、これでこそ中島みゆきの歌詞でござろうよ。
<LADY JANE 店を出るなら まだ
LADY JANE 暗いうちがおすすめです 日常な町角>
ここまでシモキタの再開発とからめたら、この歌い出しのリフレインの意味合いが全く変わってくるのではないでしょうか。<店>とは「ずっと変わらず昔のままであって欲しいと願う LADY JANE」そして「シモキタ」であり、<暗いうち>の拡大怪釈として「再開発前のシモキタ」であり、<日常な町角>の拡大怪釈としては「再開発後の下北沢」なのかなぁ💡
このように考えてみると、「まちかど」の「まち」という漢字に中島みゆきが「町」という、「街」に比べれば現代的無機質なイメージ(と思うんですよ〜)の漢字をわざわざ使った意味が見えてくるような気がいたします。
<LADY JANE 店を出るなら まだ
LADY JANE 暗いうちがおすすめです 日常な町角>
・・・古き佳きシモキタの思い出に浸りたいときは、せめて明るい昼でなく暗くなった夜にね。現代の現実の前では古き佳き思い出なんてかき消されてしまいますよ。LADY JANE そして古き佳きシモキタよ、永遠に!
この動画で使っているピアノは100年以上昔、1894年製のアンティークピアノ。このような楽器を使ってこのような曲を弾くのはまことに愉しいです。現代では世間で聞こえる音のほとんどは電気を通していますが、このころに世間で聞こえていた音は生音が主流でした。1877年にエジソンが蓄音機を実用化し、このピアノが作られた1894年にはSPレコードの大量生産ができるようになって、次第に「録音」というシロモノが世間に知られるようになった時代。こんな時代の楽器がどれほど豊かな音世界を伝えていたのか、この動画で使っている楽器は奇跡的にオリジナルほぼそのまま、まさに時代の生き証人です。
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