モーツァルト『ロンドン・スケッチブック, K.15』から第1〜6曲を、モーツァルトの旅行用クラヴィコード(1763, J.A.Stein)の複製(2002年)で
モーツァルト一家のいわゆる「西方大旅行」中のロンドンにて、当時8歳のヴォルフガングが父レオポルドから与えられた楽譜スケッチ帳に自らの手で書きつけた「ロンドン・スケッチブック」から第1〜6曲を、1年ほど前の8月にアウグスブルクでモーツァルト家が入手した旅行用クラヴィコードの完全複製で弾きました。この「ロンドン・スケッチブック」の時期は1764年の後半と推測され、これら最初の6曲はさまざまなスタイルを自在に使い分けていて、8歳半にしてさすがは神童の名に恥じない素晴らしい能力ですよ〜。
モーツァルト一家がロンドンに着いたのは1764年4月23日、今までにないほどの熱狂的な歓迎を受けたのでした。ですが当時のロンドンの環境は産業革命最初期(七年戦争が終結、パリ条約が前年の1763年ですよ〜)で劣悪で、父レオポルトが「これほどたくさんの蒸気・煙・埃それに霧が出る人口稠密な都会」という表現をしています。なお、ワットによる蒸気機関の効率化はわずか数年後だったりしますね。
このような環境の中で用心深い父レオポルドは家族の健康に充分以上なほどの注意を払っていたのですが、あろうことか自身が8月初めに重病にかかってしまい、一家は9月末ごろまでロンドン郊外のチェルシーに移ります。ここには鍵盤楽器がなかったためにヴォルフガングはこの楽譜スケッチ帳でいろいろと作曲を試みていた・・・というのが通説ですが、一家は旅行用クラヴィコードを1年前から携えていましたからこの説は怪しいとワタクシにらんでいたりします(・x・ゞ
鍵盤に触れられなくて頭の中だけで作ったから妙に弾きにくかったり演奏不能だったりする箇所が少なくないという解説もほぼ例外なく目にしますが、人類の歴史に燦然と輝くほどの天才少年の頭の中です。凡人には弾けなくても彼は弾けたかもwしれませんし、そもそもスケッチ帳で完成させることを念頭に置いていないワケですから鍵盤楽器だけを念頭に置いていたと限定してしまうのも無理があると思いませんかの? まぁ同時にこの楽譜スケッチ帳には一家所有の旅行用クラヴィコードの音域を下に超える曲があるのも事実ですが当時の鍵盤楽器の最大音域にはきっちり収まっているワケで、音域が合わないからと言って「旅行用クラヴィコードは手元になかった」と結論づけられるほどのハナシではないでしょうよと。だいたい、この時代の音楽家たるもの、鍵盤楽器の音域がアタマの中に入っていないワケないでしょ〜にw。
「弾きにくさ」も、ヴォルフガング君はいたずら好きですし弾けて弾けて楽しくてしょうがない少年だったでしょうし、突飛な音形をぶっこんで見たというイタズラも無数にあったのではないでしょうかね〜(^^)b
・第1〜3曲
・第4〜6曲
ここで使っている楽器は筒井本人の所有、モーツァルト家の3年半に及ぶ「西方大旅行」の最初(1763年8月、ヴォルフガング7歳)にアウグスブルクのシュタインの工房で父レオポルドが入手した旅行用クラヴィコード(現在、ブダペスト、ハンガリー国立博物館所蔵)の忠実な複製です。
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