中島みゆき 作詞/作曲『泣かないでアマテラス』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)
中島みゆきの『泣かないでアマテラス』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。
『泣かないでアマテラス』は、1992年に上演された《夜会 VOL.4『金環蝕』》の終曲ですが、この《夜会》全体にわたって断片的に使われているとのことです。そして、1995年に発売されたアルバム《10 WINGS》に収録されています。このアルバム《10 WINGS》は、《夜会》のために書き下ろされた曲をまとめたアルバムで、さすがに甲乙つけがたい曲が並んで聴きごたえバッチリでしてね。
「天照大神の岩戸隠れ伝説」は、ある程度古い日本人wなみなさんは一度は聞いたことがあるでしょう(最近は習うんでしょうかね?)。太陽の神である天照大神(あまてらすおおみかみ)が弟の須佐之男命(すさのおのみこと)の乱暴狼藉に怒り心頭、天岩戸(あまのいわと)にお隠れになられてしまいました。太陽の神がお隠れになったのですから世間が真っ暗になり、いろいろと大変なことどもが起こって八百万(やおよろず)の神々は大弱り。八方手を尽くした結果、天鈿女命(あめのうずめのみこと)のおもしろおかしい大騒ぎ〜最古のストリップショーとも言われますネw〜でなんとか天照大神を引きずり出すことに成功したとかいうおはなし。
<アマテラス アマテラス アマテラス どこにいるの
アマテラス アマテラス アマテラス 泣かないで
私には何もない 与えうる何もない>
『泣かないでアマテラス』は、このように静かに語りかけるように始まります。岩戸隠れの伝説を知る人が普通に考えれば歌い手は天鈿女命(あめのうずめのみこと)になりましょうが、関係各所の情報を総合wすると、歌い手は天岩戸から解き放たれた天照大神(あまてらすおおみかみ)で、語りかけられているのは天岩戸に閉じこもっている天照大神(あまてらすおおみかみ)であるようです。《夜会 VOL.4『金環蝕』》では、常に男性に対して控えめであることを求められ抑圧されてきた大和撫子的な日本女性からの解放を訴えかけている一面がある、とのこと。まぁこれにとどまらず、《夜会》では昔の伝説と中島みゆきの創作である現代とが入り乱れるので、当然ながら異なる解釈が聞き手の心に応じて生まれます。
<アマテラス 悲しみは誰をも救わない
アマテラス 憎しみは誰をも救わない
私には何もない 与えうる何もない
君をただ笑わせて
負けるなと願うだけ
アマテラス アマテラス どこで泣いているの
アマテラス アマテラス 明日は泣かないで
アマテラス アマテラス アマテラス>
1番の詩です。中島みゆきらしい「応援ソング」ですね〜。例によって<明日は泣かないで>と少しヒネっているのが素敵に思えます。単純に一律に「泣かないで」と強者の論理で強く呼びかけるばかりでなく「明日は」を加えることで、ちゃぁんと「今は泣いてもいいんだよ」と逃げ道を作ってくれていますね。世の中で目立つのが強い人ばかりなのは当たり前でしょうが、実は、世の中に知られず目立たなく一生を送る弱い人の方が圧倒的に多いことに心を向ける余裕、持てるようになりたいですね (`・ω・´)
<全然泣けなくて 苦しいのは誰ですか
全然今なら 泣いてもいいんだよ>(『泣いてもいいんだよ』2014年ーももいろクローバーZへの提供曲)
ワタクシ、「弱者を思い遣る」という表現がそもそもナニか「強者の憐憫の情」のようで抵抗あるんですよ〜。違うでしょ、一人一人の存在を尊重することこそが近代人としてきはめて重要な意識ではないですか? つい先日、金メダルを本人でなく赤の他人である名古屋市長が噛む、という鬼畜の所業がございましたが、これこそが人権意識の圧倒的な欠如・無理解・誤解の象徴である醜悪極まりない姿であります。勘違いして欲しくないのですが、金メダルという一般的にきはめて貴重な文物(ですよね?)だからいけないのでは断じてござらぬ。「一個の人格にとってかけがえのない何か」を大切にする、という意識の欠片も無く個人の尊厳を平気で踏みにじれる傲慢不遜な人間性こそが幼稚で未開なのです。寫眞機を100台持っていて毎日違う寫眞機を使っても一年に3回ちょっとしか使えないでしょ、とツッコミ入れるのは、ヤボなんですよ、ヤボ。とほほほ (´・ω・`)???
<地上に悲しみが尽きる日は無くても
地上に憎しみが尽きる日は無くても
それに優る笑顔が
ひとつ多くあればいい
君をただ笑わせて
負けるなと願うだけ
泣かないで 泣かないで 泣いて終わらないで
泣かないで 泣かないで 泣いて終わらないで>
2番です。厄介な疫病に対する上層部の無為無策、それに振り回され消耗させられて悲しみや憎しみをつのらせてネット上で攻撃する対象を見つけては暴れ回る図式、さすがに目に余りますがそりゃ〜無理もないでしょ〜と強く思いますわ。人生に理不尽なことは数限りなくございますが、それにしても今般の厄介な疫病に連関する「人為的な理不尽」ちぅか「不公平感」があまりにもあ〜んまりにも多すぎやしませんかね? さすがにこの状況で<それに優る笑顔が ひとつ多くあればいい>と思えるのは仏にもホドがあるよなぁとも思いますが、このように考えなきゃ正直やってられないぜというのもまた実感としてある気もいたします。
それにしても、最後の段の<泣いて終わらないで>は、ホントにグッと来ますね〜〜〜〜。泣かないでとは言うけれど絶対に泣いちゃいけないんじゃない、泣くのは仕方ない、でも・・・<泣いて終わらないで>!! もぅね、涙ちょちょ切れますわ。アレ?
<ほほえんで ほほえんで ほほえんで
アマテラス!>
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