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2021年8月30日 (月)

中島みゆき 作詞/作曲『永久欠番』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)

中島みゆきの『永久欠番』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

『永久欠番』は、1991年に発売されたアルバム《歌でしか言えない》に収録されており、2001年から東京書籍『新編 新しい国語3』(=中学校3年の国語)の最初のページに掲載されています(いつまでだったのかは不明ね(^^;)『永久欠番』は発売当初から名曲の誉れ高い曲とのことですが、実はリメイク含めて他では使われておらず、アルバム《歌でしか言えない》のみでしか聴けないんですよね〜。

「個人とはどうしても社会の中で埋もれざるを得ない存在」という、当たり前と言えば当たり前のことを冷徹に諦観と無念さとを込めて語っておきながら、最後の最後で人間の尊厳を高らかに歌い上げるという、これまた当たり前の楽曲構成。唄のラストが「ひとは え〜いきゅう けつばん〜〜〜〜〜〜〜〜」なのですが、高らかに歌い上げた最後の最後で「ん〜〜〜〜〜〜〜〜」と伸ばすという効果的とはおよそ真逆の形はどうしたことか。いや、まぁ、どうしようもないのですがw、一般的な「効果的」というのを踏み越えた表現意図って絶っ対にありますからね。けっこう地味にトンでもない曲でして、こんな曲をピアノソロに編曲するって、ま〜た難儀なんですわ、ハイ(・o・ゞ

 どんな立場の人であろうと
  いつかはこの世におさらばをする
  たしかに順序にルールはあるけど
  ルールには必ず反則もある
    街は回ってゆく 人1人消えた日も
    何も変わる様子もなく 忙しく忙しく先へと

1番です。あたり前のことを<ルールには必ず反則もある>というセンスで語れる形に仕立てられるのはやはり真の実力のなせるワザなのでしょうが、歌詞に「反則」を使うセンス、これまたぶっ飛んでいるような。やはり、一般的な「効果的」というのを踏み越えた表現意図ですよね〜。

 100年前も100年後も
  私がいないことでは同じ
  同じことなのに
  生きていたことが帳消しになるかと思えば淋しい
    街は回ってゆく 人1人消えた日も
    何も変わる様子もなく 忙しく忙しく先へと
    かけがえのないものなどいないと風は吹く


2番です。「個」と「集団」についてはもはや語り尽くされている感が強いですが、コレって語り尽くされたところで原理的に解決不可能なんですよね〜。現代の日本ってぇヤツは集団としての効率化をストイックに求めつづけるあまりに積極的に「個」を無視、いや、迫害/弾圧するような社会に成り果てたとすら感じていますが、ふざけんなと。「個」というものは意識しているしていないに関わらず個人が生きていることそのものに他ならず、迫害や弾圧で抑え込めるようなシロモノでは断じてございませぬ。

 愛した人の席がからっぽになった朝
  もうだれも座らせないと
  人は誓ったはず
  でも その思い出を知らぬ他人が平気で座ってしまうもの
    どんな記念碑(メモリアル) 雨風にけずられて崩れ
    人は忘れられて 代わりなどいくらでもあるだろう
    だれか思い出すだろうか
    ここに生きてた私を


3番です。いや、まぁ、そうですよ、その通りなんですが、もぅ言い方が中島みゆきらし過ぎてwタマランですね。ここまでの3連で「個人なんてそんなモンだよね〜」と畳みかけられるといささかキツくなりそうなのですが、やはり中島みゆきの歌唱力のなせるワザなのでしょう、同時に「ホントにそんなもんなのかな?」という感覚を呼び覚まさせられるんですよね〜。中島みゆきの作品っていわゆる「応援歌」に限らず、なにやら「思い直させられる」ような傾向が強い気がします。

考えてみれば、中島みゆきというトップアーティストは今までの3連とはもっとも縁遠い存在なワケで、並みのアーティストだったら「オマエが言うなwww」で終わっちまいますよ〜。人間の感覚は個々人の想像をはるかに超えるほどにぶっ飛んで千差万別wなワケで、その中でトップアーティストを何十年も続けられるということは、作品の多面性がおそろしく幅広く深いがためにそれぞれの感覚に応じて姿を変えてくれることで「寄り添ってくる」感覚を呼び覚まさせられるからなのでありま〜す。これは「古典」として残っている作品に共通してみられる特徴でして、中島みゆきの作品は発表後かなりの期間を経て「売れる」ものが少なくないということ、やはり「古典」としての質を備えているのでしょうね。中学3年生の教科書に採用されたということもまたその現れであると言えましょう。

 100億の人々が
  忘れても 見捨てても
  宇宙の掌の中
  人は永久欠番


「個」の存在をはかるのは、社会的地位でも職業でも見た目でも生きた長さでも、ましてナニかの点数でもありません。否、そもそも「個として存在していること」自体が大きくて重い現象で「はかること」ができないということが本質で、これこそが「人間の尊厳」であります。

 宇宙の掌の中
  人は 永久欠番


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