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2021年4月30日 (金)

中島みゆき 作詞/作曲『あした』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『あした』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

『あした』は、KDD(現KDDI)のCM「001」に使われた、中島みゆき初のCMソングです。1989年3月リリースの第24作めのシングル《あした》が発売され、翌1990年のアルバム《夜を往け》に少しだけアレンジを変えて収録されていまして、この動画はアルバム《夜を往け》収録バージョンを耳コピしました。『あした』『糸』大ヒット以前の定番とも言われることがあるほどの曲だそうですが、なるほど確かにしっとりした落ち着きの中に相手に向けた強い感情に満ちた迫力を秘めた、はかなくも強く美しい曲だと思います。

 イヤリングを外して 綺麗じゃなくなっても
  まだ私のことを見失ってしまわないでね


恋は盲目と申しまして一瞬にして燃え上がるものですが、それが愛となるためには持続可能wになるためのさまざまな障壁がございますね。非日常が日常となるみたいなモンですから、その過程でそれまで気づかなかった相手のしょ〜もない素顔がわらわらとw湧いて出てきて「百年の恋もいっぺんで醒める」ような悲劇も数知れず。しかも、ここでは<見失ってしまわないでね>ですからそれどころではなく、恋人という特別な存在(=目につく存在)が特別でない存在(=目につかない存在)になってしまいかねない、という日常化の残酷な一面をえぐっていますね (`・ω・´)

 カーラジオが嵐を告げている
  2人は黙りこんでいる
  形のないものに 誰が
  愛なんてつけたのだろう 教えてよ


隣に相手がいるのが当たり前の車の中ですが、普通の天気予報ではなく嵐の予報。恋という非日常には形がありますが愛という日常はに形がない・・・と指摘されれば、なるほど、そのような一面があってもおかしくはないのかも知れません。人生にはなんとも皮肉で切ない切り口があるもんですね〜。形がないから日常として持続するのか日常として持続させるために形がなくなるのかで分けてまとめるのも乱暴にすぎますけど。

 もしも明日 私たちが何もかもを失くして
  ただの心しか持たないやせた猫になっても
  もしも明日 あなたのため何の得もなくても
  言えるならその時 愛を聞かせて


『あした』のサビ、中島みゆきは真摯な愛を悲痛な声を絞り出すように唄いあげます。この『あした』が使われたKDD「001」のCMがネット上に2種類とも確認できましてな(すごい時代ですわ〜)。最初のCMはスーツケースが移動するだけの地味なものでAメロの2番が使われており、のちに切り替えられたCMは海外赴任とおぼしき彼氏を出国審査場入り口まで笑顔で見送るも彼氏が背中を見せたとたんに別れの辛さに号泣するというものでさすがのこのサビが使われておりました(この悲しきヒロインは若かりし奥貫薫とのこと)1989年といえばバブル真っ最中、そのような時代にこのような真摯な愛を唄いあげる曲をリリースしてしかもオリコンチャートの100位以内が33週連続を叩き出すとは、やはりさすがの中島みゆきではございませんか。

 ガラスならあなたの手の中で壊れたい
  ナイフならあなたを傷つけながら折れてしまいたい


真摯な愛であってもただひたすらに美しいだけでなくこのようないささか病的な方向に突き進んでしまう場合もあり得るのがひとの心の複雑なところですが、このような少し怖い人間の業を唄わせたら中島みゆきの右に出るものなし。この一連は冷静に考えれば現代のストーカーに他ならないワケですが、それを1989年のバブル真っ最中に唄いつつ、なにやら妙に美しい一連にまとめてくるんですよね〜。中島みゆきってホントに不思議な芸術家なんだなぁと。

 何もかも愛を追い越して
  どしゃ降りの1車線の人生
  凍えながら2人共が
  2人分傷ついている 教えてよ


非日常である恋は全てに勝りますが、ひとたび日常となった愛は形がないがゆえに「支払い」や「成績」などwという形がある生活やら仕事やら子育てやらに追い越されがちでしょう。この『あした』では人生とはどしゃ降りの中を凍えながら歩む1車線の片道道路。中島みゆきはすでに『あした』に先立つこと12年の1977年に『ホームにて』で成功という汽車に乗れるかどうかという比喩で人生を描いておりますし、その5年後の1982年には『傾斜』でひたすら坂道を登るという比喩で人生を描いています。

人生が苦難の連続であるのは誰しも認めざるを得ないと思いますが、この『あした』には同行者と共に1車線の人生を歩んでいるという何よりも大きな救いがありますね。愛には恋のように燃えるような形こそございませんが、愛そのものが人生の同行者という強い味方であり、よりどころなのでしょう。してみると、中島みゆきの絞り出すような悲痛な声はただ悲痛なだけでないように聴こえてきませんか? (*´-`)

 もしも明日 私たちが何もかもを失くして
  ただの心しか持たないやせた猫になっても
  もしも明日 あなたのため何の得もなくても
  言えるならその時 愛を聞かせて




*KDD CM(スーツケース編)


*KDD CM(涙編)

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