中島みゆき 作詞/作曲『ほうせんか』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で
中島みゆきの『ほうせんか』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。
『ほうせんか』は1978年に発売されたシングルLP《おもいで河/ほうせんか》のB面の曲で、なんとオリジナルアルバムには収録されていません。A面の『おもいで河』もオリジナルアルバムに収録されていないのはなんの因果か。『ほうせんか』はいかにもこの時期の中島みゆきの失恋ソングの体をなしていますが、実は前年の1977年にわずか37歳で急死したディレクター竹田健二への追悼曲とのことです。松山千春を育てた名ディレクターの突然の死を、いつフラれるかわからない心と重ねるという、まぁよくあるネタとも言えるかなぁと。
<悲しいですね 人は誰にも
明日 流す涙が見えません
別れる人とわかっていれば
はじめから 寄りつきもしないのに>
いやはや、のっけからめっっっちゃ中島みゆきですね〜。失恋の悲しく淋しい心持ちを軽快なギターのリズムにのせて決して重くなく唄うスタイルは1974年山本コウタローとウィークエンドのシングル『岬めぐり』とカブりますが、関係ありやなしや。
<悲しみ深く 胸に沈めたら
この旅終えて 街に帰ろう>(『岬めぐり』1974年/山本コウタローとウィークエンド)
この一節、一人旅をしょっちゅうしていたワタクシにとってけっこうハマる感覚でしてね。ここで<旅>は当然一人旅ですから孤独の象徴で、<街>は人とのつながりの象徴。極めて平易な語法ですが、なにやら妙に心に残るんですよ〜。これこれ、しょっちゅう失恋していたからだろうって、そ〜ゆ〜コトは思っていても言わないようにw
<後姿のあの人に幸せになれなんて 祈れない
いつか さすらいに耐えかねて 私をたずねて来てよ>
コレまためっっっちゃ中島みゆきで、徹頭徹尾恨み節でありたいのに結局は戻ってきてほしいという屈折した主人公がどれだけ詠まれてきたことか。自分から追いかける元気も勇気もなく独り淋しく恨み節を重ねて戻ってこない相手を待ち続けるという、コレ、客観的に記述するとかなりコワい状況だなぁと思いつつ、このような人たちって表に現れないだけで決して少なくないだろうなとも感じさせられます。中島みゆきの詩の「闇」の世界は芝居がかっているとか作り過ぎているとか指摘されることがありますが、そのように感じるのは「闇」な世界とは無縁な「幸せな方々」なんだろうなぁと。いや、それが悪いワケでもなんでもなく、モチロン喜ばしいことなんですがね。
<ほうせんか 私の心
砕けて 砕けて 紅くなれ
ほうせんか 空まであがれ
あの人に しがみつけ>
最後の<あの人に しがみつけ>の一文、光ってますね。ググってみたら、ホウセンカは今でも普通に小学校で教材として使われることが多いみたいで。種をいっぱいにためた「さや」が熟するとちょっとの刺激ではじけて種を飛ばすという、なんともホントにヨくデキた仕組みに素直に感心していた時代もあったんですよ、ワタクシw
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コメント
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メールがエラーで返信されたので、送付した内容をコメントに記載させていただきます。
筒井一貴様
いきなりのメール、失礼いたします。
私は滝澤と申します。
先日、youtubeにて貴方のアップされておりました動画を拝見、拝聴させていただきました。
音楽に疎い私ですが、貴方の演奏される古楽器の音色に大変感銘を受けましてメールをさせていただいた所存です。
単なる演奏ではなく、スピーカー越しでしたが迫力、臨場感、魂、一抹のわびしさのようなものを感じました。
曲、演奏からこのような感情を得るのは初めての体験で、しばらく時を忘れて聞き入ってしまいました。
幼少のころ、親が良く聞いていた中島みゆきの楽曲であったということもあってか、一種のフラッシュバック的な感覚も得ました。
古楽器の音色は中島みゆきの世界観を体現するのに最適ですね。
今後のさらなるご活躍、新作動画の投稿、期待しております。
駄文、失礼いたしました。
滝澤
投稿: 滝澤 | 2020年12月17日 (木) 10時12分
滝澤さん
めっちゃ嬉しいコメント、ありがとうございます!
中島みゆきの世界観にハメられてしまってはや5年経ちましたが、ピアノという言葉がしゃべれない楽器でその世界観を表現しようと試行錯誤するのはなかなか愉しくて。
音楽は抽象的なものですから、演奏側がそれだけ妄想をたくましくするかでそこに込められるナニかがま〜るで変わってくるものでして。そして、昔の楽器にはなにやら「単なるモノではない霊的なナニか」を感じさせられることが少なくありませんので、これまたキリがなくて愉しいです。それがスピーカー越しに滝澤さんに伝わったこと、演奏者としてこれほど嬉しい感想はございません。
どうぞいろいろとお楽しみくださいませ!
投稿: 筒井一貴/本人 | 2020年12月20日 (日) 21時26分