中島みゆき 作詞/作曲『PAIN』(アルバム《月-WINGS》版)ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で
中島みゆきの『PAIN』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。
『PAIN』は1996年に上演された『夜会 VOL.8 問う女』の最終編を飾ったハンパでないスケールの楽曲、1999年のアルバム《月-WINGS》に収録されています。アルバム《日-WINGS》とアルバム《月-WINGS》は同時発売されており、『夜会 VOL.7 2/2』『夜会 VOL.8 問う女』『夜会 VOL.9 2/2(再演)』『夜会 VOL.10 海嘯』で歌われた楽曲から19曲をセレクト、全てアルバム収録のために録り直されています。『PAIN』の音に指揮者の息遣いがしっかり入っていて珍しいなぁと思っていたのですが、なんとロサンゼルスでフルオーケストラとの一発レコーディングを敢行したとのこと。編集を考えればオーケストラと別室でヘッドフォンを装着して合わせるのが当然ですが、ナマ派の自分としては考えられないですよ〜。
「夜会」とは、コンサートでもなく、演劇でもなく、ミュージカルでもない「言葉の実験劇場」をコンセプトとして1989年に始められた舞台で、言葉の使い手である中島みゆきにとってライフワークとも言える存在。『夜会 VOL.8 問う女』の内容はこんな感じ:ラジオ局でのDJを勤める綾瀬まりあに中島みゆきが扮しています。その番組で自分の男を奪った女に酷い言葉を投げかけて復讐したつもりが同姓同名の別人であり、それを知って自暴自棄になったまりあは夜の歓楽街をさまよいます。酔いつぶれたまりあは東南アジアから来た一人の売春婦に出会い、その「ニマンロクセンエン」という日本語しか言えない彼女との心のつながりが、まりあの人生を大きく変えることになります。
『夜会 VOL.8 問う女』のテーマは「言葉の大切さそして重さ」とされています。ラジオ局のDJが発する言葉は、発しているのはDJであっても実はDJ本人の言葉ではないのかも知れません。同じ言葉が、受け手の置かれている状況次第で正反対の意味になることも珍しくはありません。そして言葉を発した結果が他でもない自分に跳ね返ってくるという、言葉とは人間にとってこの上もなく便利な存在でありますが、同時に大変に危険な存在でもあるんですよね〜。この真実は言葉が通じない人物が登場することで浮き彫りにさせられるという、やはり中島みゆきの作品はアタマを使わせて来るなぁと。
<誰からも傷つけられず
身を守るため傷つけた>
主人公にとって言葉とは身を守る道具であり、防御だけでなく攻撃にまで踏み越えることもあったのでしょう。盤石の防御は攻撃側に致命傷を与え得るもので、まさに「攻撃は最大の防御」でありま〜す。インターネットは個人が簡単に世界中に情報発信ができるという画期的なツールですが、それは同時に世界中に攻撃を仕掛けられるということですね。しかしチト考えていただきたい。『夜会 VOL.8 問う女』には『誰だってナイフになれる』という詩がありますが、それによると<人が幸せ見せるとき 人が背中を見せるとき>だけでなく、<自分を嫌いになるとき>にもヒトはナイフになれるのだそうです。「人を呪わば穴二つ」と申しますが、やはり先人が遺した言葉って尊いです。この言葉が現代に残っているということは、いかにみんなが懲りずに「ヤラかして」いるかwということでもありまして、今まさにそこら中で起こっている自分にとって都合のイイ情報ばかりをあつめた脊髄反射的な主張と反論といがみ合いの数々は必然で、まぁしょ〜がないんでしょうね。人間なんて所詮はそんなモンで、「隣の芝生は青い」ですし「他人の不幸は蜜の味(コレは違うかw)」ですが、同時に「人間万事塞翁が馬」でもあり「覆水盆に返らず」でもあります。なんのこっちゃw
<傷つき汚れても 人はまだ傷つく
痛まない人などあるだろうか
見えるだろう
心の中には淋しさの手紙が
宛名を書きかけてあふれている>
ふと我に返って自分の心を見つめ直してみたとき、<淋しさの手紙>が山となっていることに気づけるひとは幸せなのかも知れません。やはり人間なんて懲りないヤツで、苦い経験こそがその人を形作っているのでしょう。進化や適応の過程では、生命を豊かにするような経験を重ねるよりも生命の危機につながるような危険な経験を決して忘れないことこそが、生き残るための大前提ですからね。ですが同時に、いやしくも人間としてこの世に生を受けたからには苦い経験ばかりでなく快い経験もしたいモンじゃぁございませんか。<淋しさの手紙>と共に「愉しさの手紙」も束にしたいという心がそれぞれが内に秘めている「何か」であって、それこそが芸術の源泉なのではないでしょうか。あらゆるひとは芸術家なんですよ〜 (`・ω・´)
<歌え雨よ 笑え雨よ
救いのない人の 愚かさを
歌え雨よ 笑え雨よ
限りのない 人の哀しさを>
中島みゆきの描く<雨>は冷たく陰鬱な存在の象徴であることが少なくない(『肩に降る雨』なんてもうね)ですが、この『PAIN』の<雨>は違いますね。『夜会 VOL.8 問う女』では『PAIN』も『RAIN』も唄われており、実はこの二曲の詩はほとんどカブっています。この二曲で唄われる雨はともに優しく包み込んでもらえるような慈雨であり、慈雨とはおよそ全ての生き物にとって欠くことのできない水分の源。「痛み」や「淋しさ」はひとを形作る「何か」でしょうが、それが「慈雨」に包み込まれてこそひとは萎縮することなく育まれるのではないでしょうか。中島みゆきの詩には突き刺してくるようなトゲや傷をえぐるような厳しい表現が少なくないですが、それなのに中島みゆきが40年以上もトップアーティストとして受け入れられ続けているのはそれと同時に「共感」という形をした「慈雨」が常に降り注いでいるからなのでしょう。厳しさにはフォローが不可欠なのであります。
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