中島みゆき 作詞/作曲『スクランブル交差点の渡り方』ソロ:モーツァルトの旅行用クラヴィコード(1763, J.A.Stein)の複製(2002年)で
中島みゆきの『スクランブル交差点の渡り方』を、かの神童モーツァルトが7歳のとき(1763年)に買ってもらったJ.A.シュタイン製の旅行用クラヴィコードの複製で弾きました。少し前にマイクと録音機の間に装着して音量レベルを上げる魔法のジョイントを自作しましたが、今回はそのデビュー。それなりの効果があった模様です(・o・ゞ
『スクランブル交差点の渡り方』は2012年発売のアルバム《常夜灯》に収録されています。全12曲の8曲めという地味な配置の曲で、曲調も諦めに満ちた独白調。でありながら、ギスギスして生きづらくなってしまっている現代、そしてやはり他者との関係なしでは生きていけない人間への鋭い指摘に満ちています。
<初めて渡ったときは気分が悪くなり
しばらく道の隅で休んでいました>
この出だしで「ちょっとメンタル弱過ぎぢゃね?」と思う方は、少なくとも現代の感覚に順応できている方でしょう。多少の無理を感じつつも順応できるだけの心の強さ、そして同時に鈍さ(少し前に「鈍感力」って流行りましたよね〜)を兼ね備えている、いわば「普通の現代人」なんですね。しかし残念ながらこの主人公は、現代を生き抜くにはいささかナイーヴに過ぎるのです。それなら人がいないところが自分の居場所・・・と思うのは当然ですが、な〜んと、2番はこうなっています。
<信号のない島に行ったりしました
誰も来ない道は 道と呼べませんでした
3つ隣の 中くらいの島に着いて
信号の灯に喜んだのは確かでした>
他者がいないと勝手にできて楽だろうなぁと思うのは無理もございませんが、それは早計。人間は多かれ少なかれ「自分が存在しているという実感」を求めるもので、それこそが自分が生きている証=灯りなんですね。この<信号の灯>を他者との関わりを示す象徴としているところ、さらりとアタマに入ってくるのがやはり流石の中島みゆきであります。この詩で「喜び」を表現しているのはただ一ヶ所この部分だけなのが印象的ですが、主人公は他人のように醒めた目で<喜んだのは確かでした>と。この行き場の無い閉塞感はいたたまれないほどだと思われませんか? 主人公が感じた世間とは・・・
<おそろしく沢山な敵ばかりでした>
であり、そして、コレ。
<あまりにも複雑な競い合いでした>
このような厳しい世間を渡れない人たちは弱者という枠に追いやられてしまい、表には出られなくなってしまいます。いや、このような人たちは、自分のできる範囲だけをひっそり続けられる居場所さえあれば充分で、表に出られないこと自体が問題なワケではございません。ですが現代の抜け目ない効率ってぇヤツは、そのようなささやかな願いさえも搾取の対象としやがります。こうして「標準」と称される「都合の良い定型」から外れる人の居場所は狭くなる一方なんですよ〜。それぞれ一連の最後に吐き出されるつぶやきが心に刺さります (´・_・`)
<私には向いていないと思いました>
「住めば都」と申しますが、この主人公にとっての「都」って一体どこなんでしょう? <中くらいの島>ならハナシは単純ですが、どうやらそうではなさそうです。3番にこんな一節がございます。
<人と違うほうへ出ようとするから
人とぶつかるばかりだったんです
人の後ろに付けばいいんだと知りました
スクランブル交差点では 渡り方にコツが要る>
やはり主人公はスクランブル交差点にとっての「都合の良い定型」から外れていますね。スクランブルといえども一定の秩序があり、それを乱すのは邪魔者に他ならず。そのような者には居場所なんぞあるハズがないようです。小さな一個人のささやかな願いさえも世間の空気を読まねば叶えられない、そんな場所が偉そうにも万物の霊長たるとはほざく人間の社会であってイイのでしょうか? (`ω´)
<それでも時折 意外な所へ着いてしまったりもするので
人の行く先を予測するのが大事です>
うぅむ、そんな世知辛い現代社会にあってなんとか一個人の願いを叶えるためには、やはりそれなりの悪知恵がないとなかなか厳しいらしいですな (`・ω・´)
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