中島みゆき 作詞/作曲『誘惑』ソロ:モーツァルトの旅行用クラヴィコード(1763, J.A.Stein)の複製(2002年)で
中島みゆきの『誘惑』を、かの神童モーツァルトが7歳のとき(1763年)に買ってもらったJ.A.シュタイン製の旅行用クラヴィコードの複製で弾きました。ん? 歴史的楽器で現代の音楽を弾く必然性? 別に全っ然ございませんがナニか? ( ̄ー ̄)
クラヴィコードはピアノ以前の鍵盤楽器のなかで最も大切とされていたフシがあり、現代古楽器界w周辺では「独りで音楽の神さまと向き合う」ための楽器とみなされて過度に神聖化wされていたりします。ですが、実は、そのような内なる世界は優しく親密な世界でもあるはずで、現代人にとって大切なのはむしろ後者の性格ですよね。なお、クラヴィコードの音量は世人の想像を超えて小さいですから、背景のノイズが気にならない程度の音量に抑えたうえで少〜し耳を澄ませてくださいませ。聴こえてきますよ〜(・o・ゞ
『誘惑』は1982年4月にシングルで発売され(カップリングは『やさしい女』)、前年に発売されてオリコンチャート第1位で80万枚以上のセールスとなった『悪女』に続いて40万枚以上のセールスを記録しています。なるほど、確かに『悪女』はそこらじゅうで耳にしていましたし、『誘惑』もおおむね記憶がありますが、この『誘惑』はオリジナルアルバムに収録されていないという。まぁこの曲のめっちゃ無理やりにアイドルっぽさ(当時の)を狙っているかのような「つくり方」からして、中島みゆきのアルバムにネジ込むのはチト難しそうな気もしますけどw
<やさしそうな表情は 女たちの流行
崩れそうな強がりは 男たちの流行
本当のことは 言えない
誰も 口に出せない
黙りあって 黙りあって
ふたり 心は冬の海
悲しみは 爪から
やがて 髪の先まで
天使たちの歌も 忘れてしまう>
この『誘惑』はもの悲しくも軽くさらりと聴けちまいますが、なかなかにフクザツな歌詞であります。だいたい、一体全体この歌詞のどこに『誘惑』の要素があるんでしょ。これだけでは、切実さそしてやりきれなさに満ちた大人の苦悩に満ちた男女関係な唄ですがな。強いて言えば、<やさしそうな表情>がオンナの誘惑カードで、<強がり>がオトコの誘惑カードなのにはな〜るほど納得させられるよなぁと。オトコの<崩れそうな強がり>とバレては誘惑カードにはならないのですが、オンナには全てバレているのよ〜・・・というのは別のハナシかしらんw
<あなた 鍵を 置いて
私 髪を 解いて
さみしかった さみしかった
夢のつづきを 始めましょう>
ここでハタと気づかされます。会話で心を通じ合えなきゃなのにオトナになるほど素直になれなくなって、<ふたり 心は冬の海>というほどにどうにもならない状況を打開するため、否、ひとときでも忘れるための手段の一つが『誘惑』なのではないでしょうか。この場面ではオンナの方がお互いのつながりを確かめ合うべく一歩踏み出しての『誘惑』でしょう。あなた(=オトコ)は心の鍵を置いて、私(=オンナ)は髪を解いて(→情事の象徴)、ふたりのつながりを再確認して夢のようだったあのころのつづきに戻りましょう! という、妖しくも切実な詞と読んでしまいました。いや、マジでホントにこのサビは大モンダイですよ〜。
<淋しいなんて 口に出したら
誰もみんな うとましくて逃げ出してゆく
・・・
夢も哀しみも欲望も 歌い流してくれ>(『歌姫』1982年)
<悲しい記憶の数ばかり
飽和の量より増えたなら
忘れるよりほかないじゃありませんか>(『傾斜』1982年)
<肩に降る雨の冷たさは生きろと叫ぶ誰かの声
肩に降る雨の冷たさは生きたいと迷う自分の声>(『肩に降る雨』1985年)
大人とはさまざまな「どうしようもない現実」を抱えざるを得ない存在で、それでももがき苦しみながら生きねばならぬ・・・というのは中島みゆきの詩には枚挙にいとまがない、いわばテーマの一つである気がしています。その「どうしようもない現実」を癒すのが、『傾斜』では忘れるという積極的解決(なのか?w)、『誘惑』ではひとときの悦楽、『歌姫』では神の一つの化身であろう歌姫に委ねるという選択となっているのですね。はてさて、『誘惑』が1982年4月発売のシングルで『傾斜』と『歌姫』が1982年3月発売のアルバム《寒水魚》というのは単なる偶然でしょうか?
<悲しみを ひとひら
かじるごとに 子供は
悲しいと言えない 大人に育つ>
いやはや、その通りで。『誘惑』というオトナな所業を題名にしている詞に同時にオトナのツラさを織り込むとは、中島みゆき恐るべしヽ( ̄▽ ̄)ノ
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