中島みゆき 作詞/作曲『ひとり上手』ソロ:モーツァルトの旅行用クラヴィコード(1763, J.A.Stein)の複製(2002年)で
中島みゆきの『ひとり上手』を、かの神童モーツァルトが7歳のとき(1763年)に買ってもらったJ.A.シュタイン製の旅行用クラヴィコードの複製で弾きました。ん? 歴史的楽器で現代の音楽を弾く必然性? 別に全っ然ございませんがナニか? ( ̄ー ̄)
クラヴィコードはピアノ以前の鍵盤楽器のなかで最も大切とされていたフシがあり、現代古楽器界w周辺では「独りで音楽の神さまと向き合う」ための楽器とみなされて過度に神聖化wされていたりします。ですが、実は、そのような内なる世界は優しく親密な世界でもあるはずで、現代人にとって大切なのはむしろ後者の性格ですよね。なお、クラヴィコードの音量は世人の想像を超えて小さいですから、背景のノイズが気にならない程度の音量に抑えたうえで少〜し耳を澄ませてくださいませ。聴こえてきますよ〜(・o・ゞ
『ひとり上手』は1981年のアルバム《臨月》の中の一曲ですが、それに先行して1980年にシングルで発売されています。1977年にシングルで発売され、1978年のアルバム《愛していると云ってくれ》所収の『わかれうた』ほどの大ヒット(オリコンシングルチャート1位を獲得!)にこそなりませんでしたが、まさに「ふられソングの女王」としての面目躍如。フラれたときの複雑にねじ曲がった心の動きをこんなにも単刀直入に表現できるのは、やはり言葉の選び方が と び っ き り なんでしょうね〜。
さて、一番の歌詞全体をどうぞ。
<私の帰る家は
あなたの声のする街角
冬の雨に打たれて
あなたの足音をさがすのよ
あなたの帰る家は
私を忘れたい街角
肩を抱いているのは
私と似ていない長い髪
心が街角で泣いている
ひとりはキライだとすねる
ひとり上手とよばないで
心だけ連れてゆかないで
私を置いてゆかないで
ひとりが好きなわけじゃないのよ>
未練たっぷりの主人公に、すでに「済んだコト」として気にも止めていない昔のオトコ。いやそれどころか、その昔のオトコは主人公のことをひとり上手な女だからオレがいなくたって大丈夫だろ・・・とすら思っているようにすら読めます。中島みゆきの詩によ〜く登場する「ちょっと恋して(恋した気になって)すぐ独りになってしまう女」ですね〜。
<わかれはいつもついて来る 幸せの後ろをついて来る
それが私のクセなのか いつも目覚めれば独り>(『わかれうた』1977年)
<あの人は言う 街角で言う
別れやすい奴だってさ>(『グッバイ ガール』1989年)
<ひとり上手>と思われてしまう主人公の芸風wにもいささかの問題はありましょうが、オトコってぇヤツは、ま〜、なんつ〜か、身勝手なヤツでございますね〜。まぁ人間世界、ま〜さかこんなパターンだけなハズはございませんが、中島みゆきの詩ですから泣くのは基本的に主人公のオンナなのでありま〜す ヽ( ̄▽ ̄)ノ
オンナでもオトコでも<ひとり上手>と自称していようが他称されていようが、程度の差こそあれひとりでは生きて行けないのがいわゆる社会的存在である人間。だからこそ、ラストの < ひ と り が 好 き な わ け じ ゃ な い の よ > という表現に大きな説得力が生まれるのではないでしょうか。それなのに、意識がお高くあらせられて「自分は世の中と一線を画していて、自分の美意識に生きている!」とかなんとか世間さまに猛アピールする方々が少なくないのには失笑を禁じ得ません。世間さまに猛アピールすること自体が独立独歩とは真逆でナンセンスの極みであることに気づけないおめでたい方々こそが「ひとりが好き」なんでしょね。否、「ひとりが好きな自分が好き」な自己愛をこじらせた連中でありま〜す。ネット歴が無駄に長いワタクシゆえ「本当は群れるのはキライなんだけど、ナゼか素敵な人たちが集まってくれて感謝してます」な〜んて発言を目にしたことは何度となくございますが、この十重二十重に歪みきった精神にはさすがに病理を感じてゾッとしますね〜 (((( ;゚Д゚)))
<争う人は正しさを説く 正しさゆえの争いを説く
その正しさは気分がいいか
正しさの勝利が気分いいんじゃないのか>(『Nobody is Right』2007年)
いろいろ逸脱してすんません。こんな長い駄文をココまで読んでくださった貴方、ホント、心から感謝しております(・x・ゞ
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