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2019年8月 7日 (水)

中島みゆき 作詞/作曲『愛が私に命ずること』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『愛が私に命ずること』を、いつもの1894年製ベーゼンドルファーで弾きました。

この『愛が私に命ずること』は2008年に公開されたミュージカル『SEMPO~日本のシンドラー杉原千畝物語』のために書き下ろされ、翌年2009年に発売されたアルバム《DRAMA!》の5曲めに収録されています。このアルバム《DRAMA!》は、ミュージカル『SEMPO 〜日本のシンドラー 杉原千畝物語〜』に提供した曲から選んだ前半6曲と、夜会 VOL.15『〜夜物語〜元祖・今晩屋』(2008年 - 2009年)、夜会 VOL.16『〜夜物語〜本家・今晩屋』(2009年)で歌われた書き下ろし曲から選んだ後半7曲との計13曲からなっています。

 すべて愛が私たちに命ずることなら
  ためらいはしない
  怖れもなく 後も見ず 歩いてゆけるだろう

朗々とした唄い出しにふさわしく、強靭で格好イイ決意表明ですね〜。他の者の言いなりにならず、あくまでも<>のみに従う、と。字面だけでも充分に格好イイのですが、この曲はミュージカルのための音楽ですから、主人公の人となりを併せて怪釈しなくちゃです (`・ω・´)

ミュージカル『SEMPO~日本のシンドラー杉原千畝物語』で描かれている杉原千畝(すぎはらちうね/1900-1986)は、第二次世界大戦中リトアニアに赴任していた際に、ナチスの迫害により欧州各地から逃れてきた難民たちに外務省からの訓令に反して1940年7月から8月にかけて大量の通過査証を発給したことで知られています。官僚組織とはどんなに冷酷な決定でも官僚個々人の罪悪感なしに粛々とコナせてしまう、という一面がありますよね。まぁそれぞれにお立場もご都合もございますし、それに対する評価をとやかく申し上げるのはヤボ。少なくとも、当時の杉原千畝氏にとっては本省からの「行先国の入国許可手続を完了し、旅費および本邦滞在費などの携帯金を有する者にのみに査証を発給せよ」という指示は<愛と違うものが命ずること>だったのでしょう。そして難民に対する人道的感情が<愛が私に命ずること>であったのでしょう。2番の唄い出しはナルホドさすがな対語法(・o・ゞ

 もしも愛と違うものが命ずることなら
  従いはしない
  立ち塞がる悲しみや痛みを見据えても

誰しも好き好んで難民になるはずはございません。同じく、本省の官僚も単なる意地悪で難民に対する通過査証の発給を拒絶したはずもなく、ただ発給条件の通りにせよという指示をしただけだったことでしょう。万人に等しく絶対的な正義は存在しませんし、同時に万人に等しい愛も与えるのは不可能であります。かなりの紆余曲折を経て、杉原千畝氏の日本政府による公式の名誉回復はようやく2000年のこと。生誕100年の節目であったのは偶然でしょうか。

 ある朝 誰の国と名付けられても
  王冠は日暮れには転がるもの

島国日本にいる我々にとってこの感覚は普通ではないと思いますが、多民族入り乱れ混血も進んでいる大陸では当たり前の感覚です。絶対的な安全も正邪もそもそも存在しないのであれば絶対的な規範もまた存在しないこととなり、これはめっっっちゃ不安ですよね〜。そのため、例えば自分の中に規範を設けようとしてそれが「愛」となったり、自分の外に規範を設けようとしてそれが「神」となったりするのではないでしょうか(そこに「権力」という奴がひそむとヤヤこしいのですが、それは別のハナシw)規範がブレて他の者の甘い言葉についノってしまうと残念な結果になる・・・こんな例には枚挙にいとまがありませんが、それでも人間ってヤツは弱いモンでしてねぃ。う〜む(・o・ゞ

 さまよう民となって離れるときも
  2つのかけら遠く呼び合うだろう
  誰の救けもらえたなら 私たちは寄り添うだろう

たとえ難民となって祖国を離れても、心は常に祖国とともにあり。かのショパン(1810-1849)は祖国ポーランドを離れて二度と戻れませんでしたが、ショパンの音楽は強烈な愛国心に満たされたものでした。大国のはざまで翻弄され続けたポーランドの民の愛国心とは、日本人にはおよそ想像を絶するほど強く固いものであったことでしょう。まさに強靭な<>そのものであります。<ショパンの作品は、花のかげに隠れた大砲である(シューマン)

それと同時に、この<2つのかけら遠く呼び合うだろう>は、中島みゆきのライフワークである『夜会』のテーマ曲とされている『二隻の舟』の世界観に直結しています。

 敢えなくわたしが 波に砕ける日には
  どこかでおまえの舟が かすかにきしむだろう
  それだけのことで わたしは海をゆけるよ
  たとえ舫い綱は切れて 嵐に飲まれても『二隻の舟』1989年)

このように「ともに歩めなくても艱難辛苦を超えて幸せに!」と相手の幸せを願い続けるには、それぞれを大きく包み込み結びつけて「より大きく幅広いひとつ」にするなにかが共有できていないと不可能なこと(そう言えば「隻」という漢字は「ひとつの」という意味を持っていますね)それはそれで素晴らしく尊いのですが、やはりそれだけでなく物理的wに寄り添いたいと願うのが人情。そのためには、やはりなにかしらの<救け(たすけ)>が必要なのがいわゆる社会というものなんだろうなぁと。現代に生きる我々にとって、この<救け>ってますます大切になってきている気がしませんか?

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