中島みゆき 作詞/作曲『I love him』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で
中島みゆきの『I love him』をアンティークピアノで弾きました。この『I love him』は1991年にシアターコクーンにて20公演行われた『夜会VOL.3 KAN(邯鄲)TAN』のラストを飾った、13分に及ぶ大曲です。『I love him』は1995年のアルバム《10 WINGS》にも収録されていますが、全く異なるアレンジになっています。「夜会」ファンにはこの『夜会VOL.3 KAN(邯鄲)TAN』のアレンジも根強い人気だそうで、ワタクシもこっちが好みでありま〜す(・o・ゞ
「夜会」とは、コンサートでもなく、演劇でもなく、ミュージカルでもない「言葉の実験劇場」をコンセプトとして1989年に開始した舞台で、言葉の使い手である中島みゆきにとってライフワークとも言えましょう。中島みゆきはこの『夜会VOL.3 KAN(邯鄲)TAN』で中国の故事「邯鄲の夢」をテーマに、ある女性が夢の中で見た少女から老婆になるまでに至る一生を演じました。そのラストの曲が『I love him』であり、まさに邯鄲の<長い夢のあと>の<本当の願い>を高らかに唄い上げています。
<それならば私は何も失わずに生きてゆけた
でも何か忘れたことがある
でも誰も愛したことがない
それで生きたことになるの?
それで生きたことになるの?
長い夢のあと 本当の願いが胸の中 目を醒ます>
「邯鄲の夢」は国語辞典などの記述に見るように「栄枯盛衰のはかないことのたとえ」とされるのが一般的なようですが、実はワタクシ昔っからそれには疑問をいだいておりまして。そして中島みゆきもまた、この『夜会VOL.3 KAN(邯鄲)TAN』で真意はそんな意味にとどまらないと伝えているように思えます。「己の人生にとっての<本当の願い>の前では、人生の栄華なんてはかなく表面的なもの。大切なのは己の生き方こそではないか?」というのが「邯鄲の夢」の問いかけでしょ・・・というメッセージを感じるんですね〜 (`・ω・´)シャキーン
・・・まぁ辞書などでは説明するのがヤヤこしいから「栄枯盛衰のはかないことのたとえ」という表現にせざるを得ないのかなぁ、とも思いますけど(・x・ゞ
「邯鄲の夢」の話として知られるのは、沈既濟(c.750 - c.800)によって中国唐代に書かれた『枕中記』という伝奇小説です。原文はこちらから:https://zh.wikisource.org/wiki/枕中記
神仙の術を心得た呂翁(りょおう)という道士が邯鄲への街道を行く途中、畑仕事に行くところだった地元の若者盧生(ろせい)と出会うところから『枕中記』は始まります。ここで盧生は呂翁にまだ田畑で働いている不遇の身をかこち、およそ男子に生まれたからには立身出世そして栄耀栄華が夢であるのにつらい・・・とこぼします。呂翁が、見たところ病気もしていないし問題なんてなさそうなのにつらいとは? と問うと・・・
・生曰:“吾此苟生耳,何適之謂。” 翁曰:“此不謂適,而何謂適。”
・生(=盧生)曰く、「吾は此れ苟(いやし)くも生くるのみ。何の適とか之れ謂わん」と。翁(=呂翁)曰く、「此れを適と謂わずして、何をか適と謂わんや」と。
ここで、呂翁は盧生の願う人生が<適>であるかどうかを夢の中で体験させます。それは栄枯盛衰浮き沈みが激しく、結局は栄耀栄華を極めて齢80を超えて大往生・・・という人生でした。夢の前の導入部分、この小説が<適>とは何かという話だよ、と示しているのではないでしょうか。そして夢のあとの終結部、まことに簡潔にスパッと終わらせていて小気味よいです。
・盧生欠伸而悟,見其身方偃於邸舍,呂翁坐其傍,主人蒸黍未熟,觸類如故。生蹶然而興,曰:“豈其夢寐也。” 翁謂生曰:“人生之適,亦如是矣。” 生憮然良久,謝曰:“夫寵辱之道,窮達之運,得喪之理,死生之情,盡知之矣。 此先生所以窒吾欲也。敢不受教。” 稽首再拜而去。
・盧生は欠伸して悟(さ)め、其の身の方(まさ)に邸舎に偃(ふ)し、呂翁は其の傍らに坐し、主人は黍を蒸して未だ熟せず、類に觸(触)るるに故(もと)の如きを見る。生(=盧生)は蹶然(けつぜん)として興(お)きて曰く、「豈(あ)に其れ夢寐(むび)なるか」と。翁(=呂翁)は生(=盧生)に謂いて曰く、「人生の適も亦た是くの如し」と。生(=盧生)は憮然たること良(やや)久しくして、謝して曰く、「夫れ寵辱の道、窮達の運、得喪の理、死生の情は、尽く之を知れり。此れ先生の吾が欲を窒(ふさ)ぐ所以なり。敢て教えを受けざらんや」と。稽首(けいしゅ)再拝して去りぬ。
呂翁が盧生に<人生の適も亦た是くの如し>と語るところ、人間の欲とは限りのないもので、その欲望をかなえていくことが本当に貴方にとっての<人生の適>であるのか、という問いかけでしょう。<生(=盧生)は憮然たること良(やや)久しくして>・・・この「憮然」は現代日本人が考える意味ではなく「茫然とする」ぐらいの意味、茫然としばらく考えて盧生はハタと悟るところがあったのでしょう。<此れ先生の吾が欲を窒(ふさ)ぐ所以なり>。人生において欲望を抱くのは避けられないことですが、それを制御できなければ結局は不幸なことになってしまうのはご存知の通り。すなはち、欲望を抑制することなしには<人生の適>にはたどり着き得ないのでした。『枕中記』は「<人生の適>とは何ぞや?」と問いかけて、この主題を伝えようとしているのだと思うんですね〜。
・・・さて『I love him』の歌詞にまいりましょう。
<夢見続けた願いはいつも 愛されること愛してもらうこと
それが人生の幸せだって いつも信じてた
信じて待った 待って夢見た>
「人生の適」=<夢見続けた願い>をどこに求めるか・・・はそれぞれの価値観と直結するのでいちがいには決められませんが、このように自ら動かず欲して待つだけの人生に対して、中島みゆきは<それで生きたことになるの?>と突っ込みます。なかなかの破壊力ではないでしょうか。
<与えられる愛を待つだけならば
もらいそこねても悪くてもゼロ マイナスはない>
まことに明〜快な損得勘定wで、さすがは中島みゆきの詩。傷つく怖れから自ら動くことを止めることもそれはそれで人生ではありましょうが、しかしやはりこのあとに<それで生きたことになるの?>と突きつけられます(^^;;;;;
<I love him I love him I love him I love him
I love him I love him 返される愛は無くても>
<返される愛は無くても>という表現が、いかにも中島みゆきらしくエラく切ないですね。損得勘定なんぞ抜きに自ら考え判断し行動してこその己の人生。中島みゆきは『枕中記』が投げかける「人生の適とは何ぞや?」という問いかけを踏まえたうえで、たとえ傷つこうとも自らの心の叫びに気づき自らの生を自ら生き抜け!・・・というメッセージを伝えているのではないでしょうか。実はこのメッセージ、中島みゆきの大きなテーマの一つなんですぞ。
<ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ>(『ファイト!』1983年)
<くり返す哀しみを照らす 灯をかざせ
君にも僕にも すべての人にも
命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも>(『命の別名』1998年)
<その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな>(『宙船(そらふね)』2006年)
<がんばってから死にたいな がんばってから死にたいな
這いあがれ這いあがれと 自分を呼びながら 呼びながら>(『重き荷を負いて』2006年)
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