中島みゆき 作詞/作曲『萩野原』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で
昨日(10/15)アップしたブラームスのop.119-1と同じ1894年製ウィーン式アクションのベーゼンドルファーピアノで、中島みゆきの『萩野原』を弾きました。雰囲気の違いを是非にお楽しみいただければ(・ω・ゞ
1991年の夜会VOL.3「KAN(邯鄲)TAN」にて未発表曲として歌われ、翌年のアルバム「EAST ASIA」に収録されているこの曲。いかにも白日夢のような心象風景のような雰囲気の曲ですが、やはり中島みゆき、ノスタルジックな夢想ばかりではなく影の部分というか問いかけをきっちり詩に織り込んでいます(・o・ゞ
2番から3番にかけてのこの部分・・・
(ここで半音上げの転調をしているのもポイント高し!)
・2番結尾
<目をさますと 暗い部屋で泣いています
知らぬ人の腕の中で泣いています
思い出せるあの人は いつも少年です>
・3番初め
<なつかしい野原は今もあるのでしょうか
いつか私が帰ってゆく白い野原は
その中に私は 住むことができるでしょうか
何も起きない頃のように 笑うでしょうか>
「現在=現実」と「過去=想い出=夢」を対比させる、ちぅ観点はまぁ珍しい観点ではないとは思いますが、このことさらに美しい音楽(そ〜言えば「宮城野の萩」は大変に美しい萩とのこと。仙台銘菓は「萩の月」)にこの観点が載せられてしまうと・・・寂しさというより諦念すらを感じてしまいますね〜。まぁ、そりゃ、大人が現在の現実に生きるとゆ〜コトは、大事な何かを忘れる、いやむしろ捨てるとゆ〜コトですからねぃ。
それでも主人公が少女時代の純真な心を捨てずに大切にしていることは、<あの人>を<少年>として<思い出せる>ことで象徴されています。しかしその純真な心は、大人として汚れた現実(=<目をさますと>以下に象徴)の中で生き続ける中で変質したのかも知れません。だからこその不安にみちた3番の歌詞。風にそよぐ萩の花のごとく、心が揺れるようになることが「心が成長する」ということではないでしょうか。そしてこの心の揺れを抑え込んで自分を欺いて「物わかりが良くなってしまう」のが、いわゆる「オトナになる」というコトですよねん(・x・ゞ
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