フォト

カテゴリー

2021年8月 1日 (日)

ドビュッシー『ピアノのために』から、第2曲「サラバンド」を、1905年製プレイエル3bisで

ドビュッシー(1862-1918)の『ピアノのために』から、第2曲「サラバンド」を、1905年製85鍵のプレイエル 3bis(トロワビス)型ヴィンテージピアノで弾きました。

『ピアノのために』は1901年出版、ドビュッシーが自身の音楽語法を確立したかなり初期の作品といわれています。この時代のパリはありとあらゆる芸術が花盛りであった時代、これから進む新しい方向を向きつつも過去の遺産にもしっかりと憧れの眼を向けていたようで、擬古典的な作品もた〜くさん産み出されていました。そして、この時代のチェンバロ復興の趨勢がモダンチェンバロという、不当にも無視されていますがなかなか興味深く実は音楽的にも相当に豊かな方向に向かったこともなにげに愉しいです (*´-`)

19世紀から20世紀へと移り変わったこの時代のピアノはすでに鉄骨交叉弦方式が圧倒的でしたが、作る人間の経験も弾く人間の経験もま〜だまだ以前のピアノの時代の経験が圧倒的だったはず・・・ということはしっかり指摘しておきたいところです。いつの時代でもどんな分野でも同じですが、「最新式」というシロモノは、いかにそれが革新的であっても、否、それが革新的であればあるほど、ほとんどの人にとってはその革新性ではなく逆に以前の経験の延長上でしか体験・受容し得ないというのが宿命・必然なんだろうなぁと思っています (`・ω・´)

このやうな認識に立脚すると・・・この時代の音楽をこの時代の楽器で弾くとき、少なくともワタクシの姿勢は一時代昔である後期のフォルテピアノ的な芸風そして音作りだった人がそこからイロイロと拡張できて愉しいぢゃないのよ〜・・・という意識で弾くことになります。この時代の鉄骨交叉弦のピアノは構造こそ現代のピアノと同じですが、むっちゃ単純に「年相応にくたびれているw」ものがほとんどです。このような楽器ですから、現代ピアノとしては物足りなく、フォルテピアノとしては近代化されすぎていて不満、と思われがちなのもむべなるかな。ホントはそ〜ぢゃないと思うンですけどね〜 ( ̄ー ̄)

使っているピアノは高崎のアトリエミストラル所蔵の1905年製プレイエル 3bis(トロワビス)型、コンスタントに使われていますが使われ過ぎることもなく演奏会ごとにきちんと手を加えられており、イイ感じに響きが育っています。もともと信用金庫であった頑丈な建物でかなり音が回り、ちょっと日本でないような錯覚にさえ陥ることもあります。ココ、実はヴィンテージな楽器を演奏するのにかなり適した環境なんですよ〜。

2021年7月29日 (木)

中島みゆき 作詞/作曲『天鏡』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)

中島みゆきの『天鏡』(てんきょう)を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

『天鏡』は、2008年初演の《夜会 VOL.15『〜夜物語〜元祖・今晩屋』》の終曲として書き下ろされ、翌年2009年に発売されたアルバム《DRAMA!》のラストに収録されています。このアルバム《DRAMA!》は、ミュージカル『SEMPO 〜日本のシンドラー 杉原千畝物語〜』に提供した曲から選んだ前半6曲と、夜会 VOL.15『〜夜物語〜元祖・今晩屋』(2008年 - 2009年)、夜会 VOL.16『〜夜物語〜本家・今晩屋』(2009年)で歌われた書き下ろし曲から選んだ後半7曲との計13曲からなっています。

中国では古来から「鏡」を神霊視しており、帝王の権力を象徴するのが「玉鏡」「金鏡」そして「天鏡」です(そう言えば、我が国の「三種の神器」は原初は「鏡」と「剣」の二種だったそうな!)。鏡には「天下国家を映し出すもの」という意が込められているとのことで、後漢時代(25年〜220年)に広がった「讖緯(しんい)説」という政治的な予言説に、「聖天子が天下を安定させると不思議な力を持った鏡が現れ、天下が乱れれば鏡は失われる」という発想が見られるとか。

 その鏡に映るものは 隠しきれぬ愚かさと
  その鏡に映るものは 拭いきれぬ悲しみと
  その鏡に映るものは 失くしてから気が付く愛しさ


『天鏡』はこのように唄い出されます。中島みゆきを聴くほどの人材wなら、これだけで<>とは「人生=ひとの営みを映し出す何か」の暗喩だと気づくことでしょう。そして中島みゆきのライフワークたる「夜会」に一貫して流れる輪廻転生というテーマを知る人ならば、<隠しきれぬ愚かさ>や<拭いきれぬ悲しみ>は、「生まれ変わっても初期化wされない魂の業(ごう)」なんだろうなぁとも感づくことでしょう。

 その鏡を手にすることに焦れ
  戦を起こす 心を捨てる
  手にする物は 砕け散る道標


>という「ひとの営みを映し出す何か」そして「天下国家を映し出すもの」はまことに魅力的であります。それを<手にすること>は。人心を掌握して天下を握ることに他ならないですもんね。ですが、権力とは魔物であることもまた真実でありまして、な〜るほど、ここひと月ばかり(もっと長いかw)でそれこそうじゃうじゃ湧いて出てきたのは政権に群がっている心を捨てた卑しきものどもですし、それに輪をかけて東京大運動会の周辺に群がっているのも心を捨てた卑しきものども。歴史上、日本人がこれほどまでに卑しきものどもの醜悪な姿を見せつけられたことはあるのかしらん、とさえ思わさせられるほどではございませんか。おい、みんな、ここまでコケにされて黙ってるのか。いいかげんに怒ろうぜ (`・ω・´)

 その鏡は 人の手には触れることの叶わぬもの
  その鏡は 空の彼方 遥か彼方
  涙を湛えた 瞳だ


そもそも、権力なんてぇシロモノは人々を支配して悦に入りたい連中が勝手に作り出した虚構ではございませんか。まぁ確かに見事に上手に作り上げられていること自体は認めざるを得ませんが、そんな虚構ではなく、<隠しきれぬ愚かさ>に満ちて、<拭いきれぬ悲しみ>に満ちて、<失くしてから気が付く愛しさ>に満ちた自らの生を、<涙を湛えた瞳>で見据えたいではございませんか。さぁ、あなたの鏡はなんですか? そしてあなたの鏡にはナニが映っていますか〜? (*´-`)

 その鏡は 空の彼方 遥か彼方 涙を湛えた 瞳だ>

2021年7月26日 (月)

フランク『ハ長調とハ短調のための7つの小品』から第1曲を、1954年製ヤマハ5号リードオルガンで

昨日2021年7月25日のリードオルガンコンサート、しばらくこの5号オルガンを貸し出すことになったのがきっかけでした。せっかくなのでそのあとは動画収録タイムにするのがお作法でございまして。YAMAHAの5号オルガンという戦後まで長く作り続けられてそこら中に残っているモデルではありますが、この1954年製の楽器は木部が合板でなく無垢材の時代の生き残りです。

場所は小淵沢の別荘地の一角に2021年6月にオープンしたスペース「スタヂオぴーの」です。もとはブロンズの鋳造のためのしっかりしたスペースでそれをリフォームしたとのことで30人程度がゆったりくつろげます。天井が高く構造は頑丈、素直な残響が心地よくこれからの展開が楽しみですよ〜。

謙虚、善良、無欲、無私・・・というようなフランクの人となりは、えてして押しが強い(強すぎるw)芸術家のなかでも相当に異質だったフシがありまして。生前、オルガニストとしての名声はあったにしても作曲家としてはほぼ無視どころか軽蔑の対象にすらでなっていたようですが、声高に主張せぬその作品はまさに「孤高」と言うべき存在と思います。

そのフランクが最晩年に作曲し続け、その悲劇的な死(1890.11.8.)によって中断されてしまった、ハルモニウムのための曲集:『L'Organiste』の『ハ長調とハ短調による7つの小品』の第1曲です。いささか晦渋な一面も備えているのがフランクの作品ですが、この曲が入っている『L'Organiste』は、いかにも慎ましく敬虔で素朴なフランクの姿を見せてくれているような気がします。

2021年7月25日 (日)

リードオルガンコンサート@小淵沢、スタヂオぴーの

世の中はすっかり東京オリンピック一色な様相を呈しておりますが、ワタクシには一切カンケーないコトでございましてw

Img_4783

小淵沢の別荘地の一角に6月にオープンした<スタヂオぴーの>にいつもの渡邉祐治さんがYAMAHAの5号オルガン(1954年製)をしばらく貸し出すということで、お披露目の怪でございま〜す (*´-`)

Img_4788

ちょうどJRの18きっぷの季節ですので、東京ー小淵沢を普通列車で日帰りするという暴挙に。ウチからは片道3時間半ヽ( ̄▽ ̄)ノですが、なぁに、自分で運転するワケでもなし、乗り物に乗っていれば疲れないのが悲しきオトコのコのサガw

Img_4813

小淵沢駅の到着は1109、ちゃちゃっと音出しをしてとっっても心地よい響きに安心してからのベランダランチ、これから本番であることを忘れそうになってしまうところまでがテンプレwww

Img_4791

高原の別荘地ですので湿度は少なく、森の中ですから小鳥のさえずりそして蝉の声。せっかくなのでドアを開け放って自然との共演ができる贅沢三昧、ただ午後3時なのにもうヒグラシが鳴きはじめやがったのにはオドロキ、もはや従来の風物詩は塗り替えられてしまうんだろうなぁぁぁ、とかなんとか(^^;;;

Img_4814

ココには昭和初期とおぼしきカワイのグランドピアノもございますが、さすがにくたびれ果てていて演奏会に使える状態でないので、これから印西市のピアピットでゆっくりとオーバーホールを始めるとのこと。これまた楽しみが増えました(^^)

2021年7月24日 (土)

Caleb Simper (1856-1942)ちょっとだけご紹怪の巻♪(リードオルガンを聞く会/アトリエミストラル@高崎)

7月16日のグンマー行脚はアトリエミストラルがスタートでした。

かつて一世を風靡したイギリスの作曲家カレブ・シンパー/Caleb Simper (1856-1942) は御多分にもれずにとてつもない多作家でして、手鍵盤のオルガンのための曲集『17 Voluntaries』も12巻。それぞれの巻は数十版を数えており、まさに売れに売れた作曲家だったんですね〜。

今はスマホから指一本で気軽に音楽を聴ける時代ですが、100年前当時の音楽再生環境は蓄音機のみ。それとて安くなく潤沢でもなく、音楽を楽しむということイコール、自分で演奏できるように稽古するか、誰かにお金を払って演奏してもらうしかない時代だったのです。

20世紀初頭(わずか百数十年昔にすぎませんぞ!)はこのように「録音・再生」の概念がほとんどなかった時代ですから、音楽を伝えるための方法は、実は「楽譜」以外には存在し得なかったのでした。楽譜を生み出す作曲家の需要は現代人が想像できないほどに膨大で、同時に、少しでも音楽が演奏できる能力のある人材も社会のあらゆる場面で必要不可欠だったのでした。いやはや、もはや現代の便利さを捨てて戻るなんて絶対にできませんが、ひとりひとりの人間が意図せずに大切にされていたイイ時代だったんですね〜。

昨今、この日本ではことさらに「差別」そして「蔑視」がそこら中で爆誕wしていますが、きはめて単純なハナシ、他者はそもそも自分には理解できぬ存在なワケですからとにかく認めて尊重するところからスタートして欲しいなぁぁぁと強く強く思います。

<演奏曲>
Caleb Simper『17 Voluntaries Book 8』No.11 - Solemn Voluntary
Caleb Simper『17 Voluntaries Book 9』No.6 - Larghetto

<使用楽器>
1905(明治38)年製 山葉風琴

アトリエミストラル
https://atelier-mistral.jimdofree.com/

2021年7月16日 (金)

柿乃木@藤岡市

本日は久々のグンマー行脚で、いつものw渡邉號同乗(^^)

高崎のアトリエミストラルで「リードオルガンを聞く会」の映像しぅろくを済ませて富岡へ、そして帰りの藤岡市の国道254号線沿いの超地元密着な店が渡邉氏お気に入りとのことで突入。

Img_4661

ワリとなんでもありそうな店、名物がひれかつ丼とのこと。「せがれのひれかつ丼」はご飯300g、「おやじのひれかつ丼」はご飯400g、それでも多い人のために「孫のひれかつ丼(だったかな?w)」がご飯200g。

Img_4664jog

ちょっと前まではフツーに「おやじ」を完食できたと思うのですが、最近少々限界を感じるwようになったので「せがれのひれかつ丼」をチョイス、このあたりはソースカツ丼文化ですが、ソースをかける形態でなくソース味のたれに漬けた感じなのが興味深し。

Img_4665

や〜、大満足でございました (*´-`)

2021年7月12日 (月)

末岡武彦『前奏曲第7番<春花園(しゅんかえん)>』を、1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

友人の作曲家、末岡武彦氏が1985年初頭に作曲した『前奏曲第7番<春花園(しゅんかえん)>/Prelude No.7 - Spring Garden』をいつもの1894年ベーゼンドルファー製ウィーンアクションのピアノで弾きました。

単純明快である中にクラシカルな調性音楽の美しさが十全に詰まった佳品です。凡百の作曲者にありがちな紋切り型に終始して短いのにすぐ飽きてしまうようなカタチとは明らかに一線を画し、まことにイイ感じにパターンを崩しているところがキラリと光ってますよ〜 (*´-`)

*末岡氏による曲解説
https://takehikosueoka.web.fc2.com/s600105p.html
*末岡氏の自己紹介サイト
https://takehikosueoka.web.fc2.com/framepage03.html

2021年6月29日 (火)

中島みゆき 作詞/作曲『命の別名』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『命の別名』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

『命の別名』は、1998年初めに放送されたTBS系ドラマ「聖者の行進」(1998年1月9日~3月27日)の第5話から主題歌として新しく作曲されました。このドラマの主題歌は最初は1992年発売のアルバム《EAST ASIA》の『糸』で、第5話から『命の別名』に変更、そして再度第10話とラストの第11話で『糸』に戻っています。この2曲は1998年2月4日に発売されたシングル《命の別名/糸》で両面A面という対等な位置づけで収録されています。ドラマの第5話はこのシングル発売直後の2月6日であり、ネットが一般的でなかった時代の売り方としてナルホドでもあります。

シングル盤発売の翌月にアルバム《わたしの子供になりなさい》が発売され、第3曲めに『命の別名』が収録されました。これはなんとシングル盤そしてドラマ主題歌の優しい口調のアレンジ(それがまた表現として強いのですが(^o^;)と全く異なり、かなり直接的攻撃的に「がなる」アレンジに変えられています。ドラマ『聖者の行進』は、知的障害者といういわゆる「社会的弱者」に焦点を当てた相当に重い問題作だったそうで、そのための書き下ろし曲が重くなるのもまた必定かと。ただいくら重い内容であってもデレビドラマの主題歌で「がなる」アレンジを採用するのは戦略上不利・・・という判断が働いたかどうかはわかりませんし、それを知ったところでナンにもなりゃしませんがw。メッセージの多面性重層性を重視する中島みゆきですから、おそらくどちらのアレンジも「本心」なんでしょうけどね〜 (*´-`)

 知らない言葉を覚えるたびに
  僕らは大人に近くなる
  けれど最後まで覚えられない
  言葉もきっとある


『命の別名』の始まりはこの一節。ドラマの題材こそ知的障害者ですが、この多面的かつ複雑怪奇な人間社会には完全無欠の存在なんで原理的にあり得ないことでして、全てのひとは程度の差こそあれ、必ず障害を抱えているのでありま〜す。現代日本人は「障害」を「障碍」と書き換えたがりますが、まるっきり偽善であり屁理屈であり、たいがいにせぇやと思いますわ。このように得意不得意(言い換えましたw)を抱えた自分という存在が自分の不得意にかかわらぬことだけを選びさえすれば人生を順風満帆に過ごせるかというと、そうは問屋がおろしませんで。得意なことを選び出すためには不得意なことも同じように知らねばならず、その過程は例外なく痛くて苦しくて哀しくて悔しいですもん。

 何かの足しにもなれずに生きて
  何にもなれずに消えてゆく
  僕がいることを喜ぶ人が
  どこかにいてほしい


とは言え、世の中はまことに不条理なモノで、ごくごく少数の世に出られる存在以外はいわゆる「世間」からは一瞥もくれられずに消えていきます。それにしても、別にネットやらマスコミやら大きなコンサート会場やらスタジアムやらの中だけが「世間」であるワケでもなし、範囲をどのように限定して充実感を得るかはこの発信手段がとんでもなく多様化した現代、相〜当〜に大切なのでしょう。「足りぬ足りぬは工夫が足りぬ」でもございますが、それにしてもココにも厳然と不条理が存在したりして・・・無い物ねだりは人の常w

 石よ樹よ水よ ささやかな者たちよ
  僕と生きてくれ


すでに1年半もコロナ禍が続いているワケで、人と関わるのは疲れますし傷つきますし面倒ですし、ホントにいいことがあるのかいな? とさえ思わされる毎日。とにかく自分も含めて日本人ってぇヤツらの救いようのない陰険さはどうしたもんかと絶望しますわ。まぁ生きるということは他人に迷惑をかけることに他ならないですけれど、それにしてもこの日本人な世間、ちぃとばかし酷すぎやしませんかね?

 くり返す哀しみを照らす 灯をかざせ
  君にも僕にも すべての人にも
  命に付く名前を「心」と呼ぶ
  名もなき君にも 名もなき僕にも


サビとしてホントに素晴らしい一節だと思います。<命に付く名前を「心」と呼ぶ>って、もうね、むちゃくちゃシビれますぞ。この一節のレトリックは単純な倒置法で、読み解きやすくするには・・・

 君にも僕にも すべての人にも
  くり返す哀しみを照らす 灯をかざせ
  名もなき君に 名もなき僕にも
  命に付く名前を「心」と呼ぶ


ですね〜。ひととして生まれて<>を得たからには<くり返す哀しみ>は等しくふりかかり、そこに灯をかざすということはすべてのひとの命を尊重することに他なりません。そして命を尊重するということは、ひとりひとりの「心」を尊重することに他なりません。まぁワタクシは誹謗中傷やら偽善やら権利侵害やら犯罪やらは尊重できず、ま〜だまだ否定してしまいますがね〜。少しは<大人に近く>なったと思いたいのですが、そこはご堪忍くださいませwww

いわゆる「名も無き弱い存在」へのエールが中島みゆきの大きなテーマの一つであるとは、少しでも中島みゆきの詩を聴き込んだひとならば簡単に思いつくでしょう。ただ考えてみれば中島みゆきって社会的成功者の中でもひときわ抜きん出た存在ですから、そんなところから単純にエールを送られても「な〜に言ってやんでぇ」と逆に反発されても無理からぬこと。それが全くそのように思われずに40年以上にわたってトップアーティストとして支持され続けているところ、こればかりは努力を伴った才能としか言いようがないなぁと。

不特定多数を相手にして言葉という比較的具体性の高い手段でメッセージを送るのって、SNSの炎上を例に挙げるまでもなく大変に難しいことですよね。そこで「詩」という抽象性の高い手段で解釈に幅を持たせるところまでは誰でも考えられるかと思いますが。例によって抽象性と具体性のサジ加減ってすんごく難しいこと。そこを割り切って単純かつワンパターンな具体性で大成功しているのが坂道シリーズなアイドルグループであったり現代アニメであったり、もはや中島みゆきであってもこの趨勢に抗い続けるのは難しいんだろうなぁ・・・と最近少し淋しいです。新しいものは古くなって飽きられるのも早いはずなんですけどね〜。

 まわるまわるよ 時代は回る(『時代』1975年)

2021年6月20日 (日)

リードオルガンとピアノの弾き比べ実践の巻♪(リードオルガンを聞く会/アトリエミストラル@高崎)

2021年6月18日、高崎のアトリエミストラルの定例『リードオルガンを聴く会』に参加、ゲストとして小ネタを披露いたしました(サムネが「特別ゲスト」となってますが、特別フツーのゲストの意味ネw)

前日に誘われて「とりあえずおしゃべりを交えつつ弾きゃぁいいかぁ」と軽く考えていた(すみませんw)のですが、せっかくリードオルガンとピアノと両方使える場所なのですから、双方の特性の違いを活かした弾き分けネタを開陳しなければ自分が出向いた意味がないワケでして。基本的にはどう「工夫」すりゃイイかという「弾く人」に対しての動画ですが、実はそれを知ることで「聴く人」もより楽しくなれる(かもしれない)んですよ〜 (*´-`)

管楽器であるリードオルガンと打弦楽器であるピアノが全く異なる芸風であることを知識として認識している方は少なくないですが、いざ実際に楽器と対峙してみると結局理解の浅さが露呈していることがなんと多いことか(・x・ゞ

まぁ難しく言えば、実例に即したレガートとアーティキュレイションの表現法って感じでしょうか。実例はライネッケの『おばあちゃんのおはなし op.77-1』の出だしの数小節、ぶっつけの即興でヤったwのですが、さすがの編集でイイ感じの10分ちょいにまとめていただけて大感謝です。

2021年6月16日 (水)

ライネッケ『Hausmusik op.77』から第1曲「Grossmutter erzählt/おばあちゃんのおはなし」を、1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

一昨日リードオルガンでアップした、ライネッケ(1824-1910) の『Hausmusik op.77』の第1曲「Grossmutter erzählt/おばあちゃんのおはなし」のオリジナルを、ライネッケが生きている時代に作られた1894年製ベーゼンドルファーで弾きました。

リードオルガンでは左手をばっちりレガ〜〜〜トで弾いて右手はポルタート気味に弾くことで旋律と伴奏とを別の楽器であるかのように弾き分けることができます。とゆ〜か、いかにリードオルガンが足踏みペダルの操作次第で「息の強弱」がつけられると言っても声部ごとに息の送り方が変えられるワケではございませんから、声部ごとに弾き方を変えてやらないと声部の表情と無関係な大小がつくばかりになってしまって、結局は音楽を損なってしまうのでありま〜す。この曲のような単純な曲こそ「声部ごとの弾き分け」ができているか否かの試金石であり、実はな〜かなかコワいんですね〜。

そして、ピアノの場合はリードオルガンの同じレガ〜〜〜トは原理的に不可能ですから、違う工夫が必要になります。ピアノという楽器は声部ごとの弾き分けは大小を弾き分けることで可能性を高められる楽器ですが、実は大小による表現ばかりではナゼか一生懸命さばかりが伝わってしまったりして、チト悩ましいですんね〜。要はピアノの表現として有効そうなネタを総動員しないとど〜しよ〜もないのですが、和声感あり、響きの拡がりの加減あり、リードオルガンより少し精密な右手のポルタート感あり、拍節感あり、も〜どないせぇっちゅ〜んじゃとw

鍵盤楽器ってぇヤツは楽器としては根本的に欠陥だらけで、このような不備だらけの楽器で合奏やオーケストラのような拡がりや響きの多様性を出そうと苦心惨憺することこそに逆説的な鍵盤楽器の存在意義があるのだろうなぁと思っています。「デキる楽器」では当たり前で深く考える必要がないようなポイントを「デキない楽器」でできるようになろうと苦心惨憺することが深く考えることに直結するのでしょうね。おそらく、たぶん、きっと (*´-`)



・リードオルガンによる『Grossmutter erzählt/おばあちゃんのおはなし』

2021年6月13日 (日)

ライネッケ『Hausmusik op.77』から第1曲「Grossmutter erzählt/おばあちゃんのおはなし」を、100年前の大型リードオルガンで

ひさびさにハードディスクの整理をしてみたところ2019年12月に録った動画が出土して、チト慌てましてなw

フレデリック・アーチャーの『アメリカンリードオルガン教本』(1889年)の第2巻には小品が70曲おさめられており、なかなか感じ良くリードオルガン用に編集されているように思えます。その中の第67番、Reinecke作曲という表記の『Improvisation』を、ボストン近郊の Bridgewater で1930年代始めまで頑張っていたパッカード社1905年製の大型棚つきリードオルガンで弾きました。

Reinecke/ライネッケ(1824-1910) は独逸中堅の作曲家で例によって多作家、ピアノの大ヴィルトゥオーゾでもありがっつり弾かせる作品が少なくなく、さまざまなピアノ協奏曲用のカデンツァを数多く書いていたりしますが、現在はなんとかフルート協奏曲の作曲者としての知名度にとどまっているようです。この『Improvisation』のオリジナルは、ピアノのための『Hausmusik op.77』の第1曲「Grossmutter erzählt/おばあちゃんのおはなし」です。『Hausmusik op.77』はピアノのための18曲のやさしい小品集で、さまざまなスタイルに親しむための教育的な曲集だったりします。

この動画で弾いている大型棚つきリードオルガンは100年ちょい昔の北米にはごくごく普通にあった楽器です。見た目はパイプオルガンに匹敵するくらいに派手ですが、実は普通の箱型のリードオルガンの上に豪華な装飾棚(しかも意外と軽いw)を載せているだけなので、構造や機能自体は普通のリードオルガンと一緒と考えて差し支えないのでした。見た目で身構える必要は全〜然ないんですよ〜(・o・ゞ

2021年6月 7日 (月)

バロック方面より風来たる ACT.3@ソフィアザールバロック高円寺、盛況御礼&実況録画

6月5日にソフィアザール高円寺バロックで行った<バロック方面より風来たる act.3>は、イイ感じに密でなく終演いたしました。みなさま、ありがとうございました!

なにやら大規模なイベントがやりづらい世間になってしまいましたが、幸か幸かwワタクシは大規模なイベントとは無縁でございまして。まぁそれでもな〜んとなく演奏会は控えようかなぁと思ってしまうのは、案外と世間体を気にする自分でもあったようななかったようなwww。

演奏会実況録画、前半に弾いたゲオルグ・ベーム(1661-1733)の《組曲 へ短調》から、アルマンドです。ここ「ソフィアザール高円寺バロック」のクラヴサンは多彩極まりない才人の 永野光太郎氏 が2018年末に納入した楽器でようやく2年半経った程度ですが、音響振動に対する反応が抜群に良く、いわゆるエージングが進むわ進むわでいつも仰天させられています。使い倒されるわけではない楽器でそれは非常に好ましいこと、そして反応が良いということはしばらくお休みしていてもとにかく「目覚める」のが抜群に速いワケで、あっという間に豪快な鳴りが戻ってくるのがたまりませんですわ〜 (`・ω・´)

昨今はさまざまな分野wで「ほにゃらら警察」な活動がかまびすしい世の中に成り果てましたが、いやはや、フレンチクラヴサンでド独逸なベームの組曲を弾くなんつ〜のは格好の標的になりかねませんな。確かに1990年代くらいまでは「とりあえず大は小を兼ねるで汎用性が高そうな楽器」として種々オトナの事情wで18世紀フレンチクラヴサンがなんでもかんでもw使われていましたが、そんな時代はとっくに過ぎ去っております。それを理解した上でホールは所蔵する楽器の方向性を考えるワケですが、さまざまな使い方に対応する必要があるのであれば、実は昔のような考え方って案外と意味があるんですよ〜。まぁバロックな組曲って一応はおふらんすな舞曲の集合体でありますからして、理論的よりどころとしてはこんな雰囲気wでヽ( ̄▽ ̄)ノ

・永野光太郎オフィシャルサイト
  https://oratokoratok.jimdo.com
・永野光太郎(Keyboard)&對馬佳祐(Violin)YouTubeチャンネル
  https://www.youtube.com/channel/UClZJOmnOvq_VoBxW9G1e5Tw

2021年6月 1日 (火)

Georg Böhm の『組曲 変ホ長調』から「第3曲 サラバンド/Sarabande」を、超低音16フィート付のジャーマンチェンバロで

いわき市の「いわきアリオス」所蔵、16フィート弦という超低音弦を搭載した珍しいチェンバロ(製作:Matthias KRAMER)で弾いた、G.ベームの『組曲 変ホ長調』から「第3曲 サラバンド/Sarabande」です。ここでは両手とも下鍵盤で8フィート2本と16フィートとを重ねています。このサラバンドの力強い方向性を超低音の16フィート弦でがっつり増強させつつ変ホ長調の華やかさを両立させよう、という目論見です。

この16フィート弦つきのチェンバロに取り組んだ経験がある人物は、古楽器界でマニアックな方面でもいまだにごくごく少数派。まぁ記録が残っている楽器もきはめて数少ないので「キワモノ扱い」されるのもまた仕方ないこと。ですが、文化・芸術を醸成するにあたっては多様性こそが命。このような珍しい楽器をしかも弾き込みができる機会があれば率先して出向くのがワタクシの立場でありま〜す (`・ω・´)シャキーン

ん? キワモノ大好きなだけでしょ、という突っ込みはその通りですがナニか?ヽ( ̄▽ ̄)ノ

2021年5月27日 (木)

中島みゆき 作詞/作曲『宙船(そらふね)』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『宙船(そらふね)』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。今回はチト編曲に調子にノり過ぎてむっちゃ難しくしてしまって四苦八苦wしましたが、なんとかアップできました。自分の力量を過信しちゃならんですな、とほほほwww

『宙船(そらふね)』は、TOKIO が歌った日本テレビ系土曜ドラマ「マイ☆ボス マイ☆ヒーロー」(2006年7〜9月放送)の主題歌です。中島みゆきは、この作品で「第48回 日本レコード大賞」の“作詩賞”を受賞しました。中島みゆきはこのドラマの放送が終わってわずか2ヶ月後の2006年11月22日発売のアルバム《ララバイSINGER》でセルフカバーしていますが、もともとはこのアルバムの為に用意していた曲だった(主題歌の依頼が来たのがアルバムの準備に入っていたタイミングで時間的に無理で、双方合意のもとで)とのことでコレはセルフカバーと言えるのかどうか微妙な気もしますな。TOKIOのメンバーに渡った曲のデモテープの歌は中島みゆき本人でなくしかも録音に立ち会ってもいなかったとのことで、解釈の違いがなかなか興味深いです。まぁワタクシの好みは圧倒〜的に中島みゆきのドスの効いた荒いがなり方なんですけどね〜(^x^;;;

 その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
  おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな


いかにも中島みゆきの強い「男歌」ですね〜。ここで使われている<オール>ですが、船を漕ぐ「oar」のカタカナ表記と「all」のカタカナ表記をかけてますな。のっけから飛ばして普通に歌ったら喉をつぶしそうなほどに荒くがなってますが、この曲のメッセージの単純な強さからしたら大正解と思います。中島みゆきはこのような声もよ〜く使いますが、これで喉をつぶしていないのはよっぽど理解力のある的確なアドバイザーあっての芸当ではないでしょうか。正直、このがなり方、踏み越えてますぜよ。

 その船は今どこに ふらふらと浮かんでいるのか
  その船は今どこで ボロボロで進んでいるのか


ふらふらと浮かぶ>のも人生ですし<ボロボロで進む>のもまた人生ですね。『宙船(そらふね)』はどうやら中島みゆきの造語のようですが、まことにセンスあふれる的確かつキャッチーな言葉だなぁと思わされます。『ガリヴァー旅行記』には空飛ぶ島がありますがコレは1726年初版(ベートーヴェンが亡くなる1年前!)『天空の城ラピュタ』が1986年公開ですが、まぁ関係ないかw

 流されまいと逆らいながら
  船は挑み 船は傷み
  すべての水夫が恐れをなして逃げ去っても
  その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
  おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな


人生なんて満身創痍で美しくもなく整ってもなく。自分のささやかな幸せだけを願っている目立たないひとにも何故だか人生の逆風は襲いかかってくるんですよね〜。そこに友人とかなんとかいう同行者が存在するのは確かですが、結局は自分が人生の荒波に抗って漕ぎ続けるしかないという。この歌詞、中島みゆきにしては妙〜に単純でわかりやすくてwスカッとしますね〜。複雑な深読みではなく直情的な強さを前面に出した詩ですから、そりゃ〜、唄い方を荒く強くすることが理にかなっているのでしょう。

 その船は自らを宙船(そらふね)と 忘れているのか
  その船は舞い上がるその時を 忘れているのか
  地平の果て 水平の果て
  そこが船の離陸地点
  すべての港が灯りを消して黙り込んでも
  その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
  おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな


あらゆるひとは飛び立つポテンシャルを備えているはずですが、どうしても日々の些事にかまけて忘れてしまいますね。ですが自分の手で漕ぎ続けた果てに自分にしか見えない世界が。う〜ん、さすがに単純過ぎてわざわざ怪説するまでもないですな。まぁこんなときもあってもよろしいwww

2021年5月23日 (日)

スクリャービン『4つの小品 op.56』から第3曲「ニュアンス/Nuances』を、1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

スクリャービンの『4つの小品 op.56』から第3曲『ニュアンス』 をいつもの1894年ベーゼンドルファー製ウィーンアクションのピアノで弾きました。

スクリャービンは神秘思想にたいへんに傾倒し、晩年(と言ってもせいぜい40歳なのですが)には自らの生み出した「神秘和音」を執拗に使い倒す一種行き止まり的な音楽を書き続けました。神経質で大変な潔癖症だったのですが、なんと感染症がもとで亡くなってしまったというのがなんとも気の毒というか人間の業の現れというか、複雑な気持ちにさせられますね〜。スクリャービンの世界は自らの独自な論理そして思想の中に閉じこもってその中での美しさそして幸せを追求し続けたかのように見えますが、さすがに人類の歴史に残るほどの大変態wですから、やはり妙に心に訴えてくる「ナニか」を強烈に備えているように思えます。

『4つの小品 op.56』は1908年の出版。次の『2つの小品 op.57』とともに「神秘和音」の萌芽が随所に見られ、えも言われぬ浮遊感を備えているように感じます。この第3曲『ニュアンス』は比較的わかりやすく、そのため逆に不思議な雰囲気も出しやすかったりします。この1894年製ベーゼンドルファーは現代では失われてしまったこの時代の楽器の響きを現代に伝えてくれている生き証人ですから、このような不思議さが十全に体験できるんですよ〜 (*´-`)

19世紀末から20世紀初頭にかけては現代的な科学技術が次々と花開いたタイミングで、ピアノに限らず人間の生活が大変に変化したタイミングでもありました。そしてこの時代に生み出された芸術もまた大きく変化したワケでして、あまたの才能そして魑魅魍魎がそれこそうじゃうじゃと湧いていた時代なんですね〜。この時代はまだまだ「魔力」に満ちていた時代ですから、たかが現代日本人がこの時代のピアノを使ったところでそれを強く強く念頭に置いて弾かないと一発で返り討ちされるのが怖く、またオモシロいのでありま〜す (`・ω・´)



・op.57-1 欲望/Désir

2021年5月15日 (土)

ヒンデミット『フルートソナタ』から第1楽章を、20世紀初頭の木製フルートとベーゼンドルファーで(フルート:石井孝治)

ヒンデミット(1895-1963)の『フルートソナタ』から第1楽章を、石井孝治さんの20世紀初頭のハンミッヒによる銘器と1894年製ウィーン式ベーゼンドルファーとで合わせました。我ながら、よもやヒンデミットをこのベーゼンドルファーで弾く日が来るとは想像だにしませんでしたが、なんともイイ感じの合奏ができたと思います。

ヒンデミットのフルートソナタは1936年の作曲。この年にナチスによって公式にヒンデミット作品の演奏が禁止されるなど弾圧が強まり始めていたタイミングですが、このような外的要因が作品にどの程度影響したかは本人が明白な意図を持っていると表明した場合以外に邪推するのは全く無意味ですね。政治的な要因にしても、楽器の限界的な要因にしても、音楽語法の好み的な要因にしても、一言で「要因」として片付けるにはあまりにも複雑にからみ合っていますからね〜。

石井孝治さんのハンミッヒ製木管フルートは、フランスのベーム式ではありますがまさにヒンデミットがドイツで活動していた時代のドイツの楽器。楽器に寄り添うように偏りなくす〜っと鳴らせるのが石井さんの真骨頂で、ウチの1894年製(ヒンデミットの1歳年上ですネ)ベーゼンドルファーとの合奏がなんとも心地良くて (*´-`)

2021年5月14日 (金)

ヒンデミット『フルートソナタ』から第2楽章を、20世紀初頭の木製フルートとベーゼンドルファーで(フルート:石井孝治)

ヒンデミット(1895-1963)の『フルートソナタ』から第2楽章を、石井孝治さんの20世紀初頭のハンミッヒによる銘器と1894年製ウィーン式ベーゼンドルファーとで合わせました。

ヒンデミットのフルートソナタは1936年の作曲。この年にナチスによって公式にヒンデミット作品の演奏が禁止されるなど弾圧が強まり始めていたタイミングですが、このような外的要因が作品にどの程度影響したかは本人が明白な意図を持っていると表明した場合以外に邪推するのは全く無意味ですね。政治的な要因にしても、楽器の限界的な要因にしても、音楽語法の好み的な要因にしても、一言で「要因」として片付けるにはあまりにも複雑にからみ合っていますからね〜。

石井孝治さんのハンミッヒ製木管フルートは、フランスのベーム式ではありますがまさにヒンデミットがドイツで活動していた時代のドイツの楽器。楽器に寄り添うように偏りなくす〜っと鳴らせるのが石井さんの真骨頂で、ウチの1894年製(ヒンデミットの1歳年上ですネ)ベーゼンドルファーとの合奏がなんとも心地良くて (*´-`)

2021年5月13日 (木)

玉ねぎまつり〜♪

Img_4126

こないだの100g10円の新玉ねぎをサクッと消費した矢先にま〜た発見。このどデカい玉ねぎ4個の見切り品100円が転がってくるとは、神サマはちゃぁんと見ていらっしゃいますナ(*´-`)

Img_4128

重さを測らなかったのが痛恨wですが、全〜部刻んでが〜っと炒めて適当スパイスカレーのモトになりましたとサ(´-`).。oO

Img_4130

2021年5月10日 (月)

底値の新玉ねぎ発見(*´-`)

東京周辺って人口が半端なく消費形態も多種多様ですから生鮮品ブローカーもまた多種多様にハンパなく発達してますが、さすがにこの値段を切る新玉ねぎは見たことがないかも。しかもコレ佐賀産ですから、流通コストを吸収するメカニズムが不思議で不思議で。

Img_4116

オリーブオイルで軽くアブって、みりんとウチではコレしか使わないニンニク醤油1:1の蒸し焼きで春の味覚万歳!

Img_4114

2021年5月 8日 (土)

大島徳彦氏個展@ギャラリーくぼた

Facebook友のアマチュア笛吹き大島徳彦さんの絵の個展にクラヴィコードとチェンバロがあって演奏が聴けるとなれば、ご挨拶に伺うのが当然の礼儀でございまして(*´-`)

Img_4110

大島さんご本人の笛の演奏、そして前々からなんとなく活動が気になっていた西野晟一朗(にしのせいいちろう)さんのクラヴィコード演奏もさることながら、優しげでありながら芯がビシッと通った絵の数々に囲まれた贅沢な時間を堪能できました。僭越ながら差し入れにお祝い演奏をさせていただきましたが、西野さんとのモーツァルト初期 K.19d の初見連弾の楽しかったこと楽しかったこと!

Img_4117

クラヴィコードを響かせるように音を重ねて弾ける人材にほとんどお目にかかれないのが残念な現状(^x^;;;ですが、西野晟一朗さんってそれができる稀有の人材なのが嬉しくて。クラヴィコードは西野さんの所有の逸品、小渕晶男2006年製作の Johann Heinrich Silbermann (1775) モデル。このクラヴィコード、持ち主の力量を反映して素晴らしく「育って」いて、小渕さんの楽器特有の非常に素直な鳴りが際立っていました。そして、大島さんお持ちの J.H.Rottenburgh のオリジナルフルートの鳴りがまた次元の違うなんとも凄まじい鳴りだったのもまた愉し。

Img_4100

んで、満足したアカツキにウチの近所のいつもの場所で良質なw炭水化物とタンパク質とアブラに加えてニンニクと唐辛子を充分に摂取、とw

Img_4112

«6月5日/バロック方面より風来たる ACT.3@ソフィアザールバロック高円寺

2021年8月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

最近のコメント

無料ブログはココログ