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カテゴリー「音楽>メーカー>Bösendorfer」の39件の記事

2019年7月 7日 (日)

中島みゆき 作詞/作曲『鷹の歌』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『鷹の歌』を、いつもの1894年製ベーゼンドルファーで弾きました。

この『鷹の歌』は2010年に発売されたアルバム《真夜中の動物園》所収。中島みゆきにしてはかなり単純な曲調ですが、この曲調がむしろ堂々たる「鷹」のイメージに見事に合致していると思います。詩もかなり簡潔で、とても一部分を取り上げられるようなものではない気がします。

 あなたは杖をついて  ゆっくりと歩いて来た
  見てはいけないようで  私の視線はたじろいだ
  あなたはとても遅く  身体を運んでいた
  まわりの人はみんな  いたわりの手を差しのべた
  鷹と呼ばれていた人が
  這うように命を運ぶ
  「見なさい」  あなたの目が
  「見なさい」  私を見た
  「怖れるなかれ  生きることを」
  鷹の目が  見つめて来た


「鷹」を「誇り高き存在の象徴」と例えるのは、ごく普通のことでしょう。すなはち「老いた鷹」とは、身体こそ衰えて意のままにならなくなってしまっても誇りを失わずに堂々とした存在。周囲は限りないリスペクトを老いた鷹に捧げるも、悲しいかな、老いとは残酷なもの。

 鷹と呼ばれていた人が
  這うように命を運ぶ


大空を悠然と翔けていたはずなのに、今となっては<這うように>というありさまに。しかし、それを受け入れねばならぬのが人生。なんともやるせないことですが、死ぬまで<命を運ぶ>のがさだめ/運命ですね。ホント、この二行の印象の強さといったらもう、グッと来ますよ〜。しかも、その老いた鷹がたじろいだ私に<「見なさい」「怖れるなかれ 生きることを」>と、これは強烈ですね。中島みゆきは、老いを詠う詩の一つである『傾斜』で・・・

 のぼれども のぼれども
  どこへも着きはしない そんな気がしてくるようだ
『傾斜』1982年)

と老いの一つの特質を衝いていますが、それでも、ひとりひとりの人生を裏打ちしているのは各人の「誇り」ではないでしょうか。まぁ無論、ホンモノの鷹を目の当たりにしてしまうとたじろいで視線をそらしてしまうのも無理はございませんが。ハイすんません、ワタクシにも思い当たるフシが数限りなく(・x・ゞ

さて二番。

 世界は変わってゆく  あなたはいつもそれの
  変えてはならないことを  つよく叫び続けて来た
  世界は変わってゆく  あなたを嘲笑いながら
  私はあなたの歌を  痛々しく聴き返す
  灰色の翼は痩せて
  かすれた鳴き声をあげて
  「見なさい」  あなたの目が
  「見なさい」  私を見た
  「命を超えて続くものを」
  鷹の目が  叫んでいた


いま現在、社会が加速度的に「おかしく」なっているような感覚を持っている人は少なくないだろうと思います。この違和感はあまりにも漠然としているために論理立てて説明するのは困難なこと、それがためにいわゆる「エビデンス」を求められたとたんに口をつぐまざるを得ないんですよね。コレ、自分が世界に嘲笑われた瞬間とも言えようかと思います。・・・はて、鷹が叫び続けてきた<変えてはならないこと>とは・・・そうです。命を超えて続くものに他なりませんね。

科学技術も医療も目覚ましい発達を始めたのはわずかに百数十年程度昔のこと、この動画で使っているベーゼンドルファーのピアノは1894年製ですから、まさにその時代の楽器です。まだまだ解明できないことだらけで音楽に呪術的な意味が多分に残っていた時代に作られた楽器ですからそもそも「持っているモノ」が現代の楽器とは全く異なり、入手してからけっこうな年月が経ちますが、いまだにこんなに不可思議な音が出てくるのか! と驚かされることが少なくありません。このベーゼンドルファーが作られた19世紀末のウィーンと言えば、クリムト(1862-1918)が活躍していた時代でもあり、その当時の美意識がこのピアノに吹き込まれていたのは想像に難くないでしょう。芸術や思想とはまさに<命を超えて続くもの>であり、それはゴッホ(1853-1890)の例を挙げるまでもなく、生前に世間に知られたかどうかとは無関係です!

 街は回ってゆく 人1人消えた日も
  何も変わる様子もなく 忙しく忙しく先へと
  ・・・(中略)・・・
  100億の人々が
  忘れても 見捨てても
  宇宙の掌の中
  人は永久欠番
『永久欠番』1991年)

老いた鷹は生涯の終わりが近いことを知っているのでしょう。老兵は消え去るのみとも申しますが、それでも自分の歩みを変えず(変えてもイイ気もしますがネw)に命を超えて続くものを伝え続けてこその「生き様」であります (`・ω・´)

 あなたは停まりもせず  そのまま歩いてゆく
  面倒な道ばかりを  あえて歩き続けてゆく
  私は自分を恥じる  あなたを思って恥じる
  ラクな道へ流れくだる  自分の安さを恥じる
  鷹と呼ばれていた人が
  這うように命を運ぶ
  「見なさい」  あなたの目が
  「見なさい」  私を見た
  「怖れるなかれ  生きることを」
  鷹の目が見つめて来た


面倒な道ばかりをあえて歩く>ことが尊くて<ラクな道へ流れくだる>ことが恥ずかしい、と他を断ずるのはしてはならぬと思います。なにしろ、人間という存在はみな誰しも後ろめたさを背負って生きているワケでして。むしろだからこそ、偉大な存在を目の当たりにしたときに起きた自分の変化をどのように扱うかこそが、その人の個性としてにじみ出てくるのではないでしょうか。個性とは作るものではなく、普段の習慣や癖などなどから隠そうにも隠しきれずににじみ出てくるものなのでありま〜す。

2019年7月 2日 (火)

リスト『En rêve/夢のなかで(ノクターン)』を1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

リスト(1811-1886)が亡くなる前の年(1885年)に作曲した『En rêve/夢のなかで(ノクターン)』を、まさに同時代の1894年ベーゼンドルファー製ウィーンアクションのピアノで弾きました。同時代の楽器を使いさえすればその時代の雰囲気が自動的に生成wされるほど現実は甘くございませんが、現代のピアノとは全く異なる雰囲気がかもし出されているのは聴き取っていただけようかと思います。

19世紀末の爛熟期のヨーロッパといえど科学技術が発展をはじめてあまり時間が経っていないころですから、人類の周りには理由が解らずに畏敬の念を呼び覚まさせられる存在に満ちていたでしょうし、そのような世界は、まだまだ夢のようであり、天界のようであり、言い知れぬ哀しみのようでもあり、魔界のようでもあったことでしょう。この動画で使っているウィーン式アクションのベーゼンドルファーも「神と対話するための楽器」という意味を十全に残していた時代のお道具ですから、とりわけこの曲のような不思議な曲では呪術的な威力を存分に発揮してくれます。単純に音色の美しさというだけでなく、多彩に何層にも折り重なった響きの美しさを際立たせてくれるんですよ〜(・ω・ゞ

『En rêve/夢のなかで(ノクターン)』が作曲された1885年は明治18年、日本ではようやく太政官制度に代わって内閣制度が創始された年です。ネット上には初代総理大臣の伊藤博文がこの数年前に西園寺公望と渡欧したときにリストの演奏を聴いて感銘を受け「あの者を日本に招くことはできないか」と思ったという記述が複数見られますがどれも出典が明示されておらず、不勉強ですみませんがウラも取れていないので、現時点では信憑性には難ありと言わざるを得ないなぁ・・・というのが正直な感想ですw

2019年6月 7日 (金)

中島みゆき 作詞/作曲『傾斜』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『傾斜』を、いつもの1894年製アンティークベーゼンドルファーで弾きました。

この『傾斜』は1982年に発売されたアルバム《寒水魚》のA面2曲め。死ぬまで長く長く一歩一歩歩み続けねばならぬ人生を「限りなき道程」に例えるのはごく普通の発想ですね。徳川家康の御遺訓が<人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し>で始まることを知っておられる方も少なからずと思います。
・東照公御遺訓:https://www.toshogu.or.jp/about/goikun.php

中島みゆきも、そのまんま『重き荷を負いて』という曲を2006年のアルバム《ララバイSINGER》に収録していたりします。この曲の歌詞もなかなかシビれるんですが、また今度(^o^;

ですが、この手の伝記資料は真偽が定かでない単なる「言い伝え」である可能性を常に頭において置かねばなりません。検索してみたら、やはり出てきました。さすがの「レファレンス協同データベース」で、これによると・・・
<この遺訓は家康が言ったという証拠はなく、徳川美術館館長徳川義宣氏の研究成果として、「いま流布している家康遺訓の底本は伝水戸光圀作「人のいましめ」『天保会記』1830年に見える)であったようである」と書かれています。>
とのことで、チト驚かされたでござる(・ω・ゞ
・細かくはこちらからどうぞ:http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=100009052

さて・・・『傾斜』の歌詞の一部分を切り取るのはチト面倒なので、1番の歌詞を。

 傾斜10度の坂道を
  腰の曲がった老婆が 少しずつのぼってゆく
  紫色の風呂敷包みは
  また少しまた少し 重くなったようだ
  彼女の自慢だった足は
  うすい草履の上で 横すべり横すべり
  のぼれども のぼれども
  どこへも着きはしない そんな気がしてくるようだ

  冬から春へと坂を降り 夏から夜へと坂を降り
  愛から冬へと人づたい
  のぼりの傾斜は けわしくなるばかり

  としをとるのはステキなことです そうじゃないですか
  忘れっぽいのはステキなことです そうじゃないですか
  悲しい記憶の数ばかり
  飽和の量より増えたなら
  忘れるよりほかないじゃありませんか


ワタクシ何十年も馬齢を重ねてきましたが、いろいろと重ねて来て思うのは、経験を重ねるということは実は何かをつかむってぇコトだけじゃないような気がするんですね。まぁ「経験」それ自体は「何かをつかむこと」なのでしょうが、その経験を重ねて行くうちに、こだわってしがみついている何かから解放されてラクになるときが何度となくあったんですわ。それと同時に加齢に伴って「老化」というこれまた避けづらい現象を突きつけられるのが残念なのですが、それもまたしゃ〜ないこと。

経験の多い少ないばかりを重視してしまうと、<風呂敷包みは また少しまた少し 重くなって>しまいますし、せっかく<自慢だった足>も長年の酷使ですり減ってしまった<うすい草履の上で 横すべり横すべり>してしまいます。そりゃ〜、<のぼれども のぼれども どこへも着きはしない そんな気がしてくる>に決まってますがな。そもそも<傾斜10度の坂道>は緩い上りにしか思えないかも知れませんが、スキーなら自然停止できないほどの急傾斜(中島みゆきは北海道出身!)であることにも気づいていただきたいです。傾斜10度の坂道>をずっっっと踏みしめながら上り続けるって、めっちゃキツいんですよ〜。

 足元の石くれをよけるのが精一杯
  道を運ぶ余裕もなく  自分を選ぶ余裕もなく
  目にしみる汗の粒をぬぐうのが精一杯
  風を聴く余裕もなく  人を聴く余裕もなく
『重き荷を負いて』2006年)

ですが、この『傾斜』の詩には素晴らしい救いの文言がありますね〜。

 としをとるのはステキなことです そうじゃないですか

この部分から、吹っ切れた感じどころかむしろ諦めを感じさせさえする明るさに楽曲の雰囲気が劇的に変貌しますが、この「経験の蓄積に伴う解放」「加齢に伴うほにゃららw」との間の葛藤がまことにウマいこと表現されているなぁと感服させられます。
「量より質」とは昨今のご時世では「ご無理ごもっとも」と受け取られるようになってしまったwフシもございますが、量ばかりを重視しているのは経験がロクに使えていない証拠。経験の量を忘れるほどに当たり前にできてこそ、その経験が自分の血となり肉となるのですぞ。逆にそうでないと記憶なんぞ簡単に<飽和の量>まで達してしまうワケで、それでは本当に<忘れるよりほかない>というチトもったいない状況に陥ってしまうと思いませんか? 量をどうやって質に転化させるか、情報過多というにも程があるほどの恐ろしい現代に生きる我々にこそ大切な視点であるはずでしょう (`・ω・´)
・・・ワタクシが人一倍物忘れがヨいことの言い訳とも言いますが(・x・ゞ

中島みゆきはこの『傾斜』発表から22年後(!)の2004年に別アルバム《いまのきもち》に違うアレンジで収録しており、<としをとるのはステキなことです>以降でも劇的に変化させず、全体を軽いサウンドに仕立てています。《いまのきもち》は中島みゆきのデビュー30年めのアルバム、それまで自分が横すべりすながらも少しずつのぼってきた傾斜を「ん〜、いろんなことがあったよね〜」てな一種の感慨をもって振り返っているのでしょうね〜。ココは深読みしなくてヨいでしょ(・o・ゞ

2019年4月 2日 (火)

ポンセ『間奏曲第1番』を1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

メキシコの作曲家、ポンセ(1882-1948)の「間奏曲第1番」を、ポンセが生きていた時代の1894年ベーゼンドルファー製のピアノで弾きました。ベーゼンドルファーはメキシコではなくウィーンのピアノですが、まぁそこはご堪忍(・o・ゞ

ポンセはメキシコに生まれて幼くして大変な才能を発揮、メキシコからヨーロッパに一度ならず二度までも出向いて研鑽を積んだという、メキシコの西洋的調性音楽のいわば斬り込み隊長的な存在です。とりわけ有名なのは作詞も自身で行ったという「エストレリータ」でしょうね。

ポンセの作品の作曲年はあまり明確ではなく紛失してしまった作品も少なくないようですが、この「間奏曲第1番」は1909年ごろの作曲とされています。1905年に初めてヨーロッパに渡って1907年にメキシコに戻ってから作曲された作品で、物憂げでいながら悩ましい、といういかにもラテンな曲調はもっともっと人気が出てしかるべき曲ではないでしょうか。まぁどこにでもありそうなラテンなノリの軽〜い曲、という見方もできなくもないwかも知れませんが、それはそれで人気が出るために大切な要素の一つですよね〜。

2019年3月 7日 (木)

中島みゆき 作詞/作曲『彼女によろしく』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『彼女によろしく』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

この『彼女によろしく』は1984年に発売されたアルバム《はじめまして》のA面ラスト。あ、念のため、LPレコードは基本的に裏表に音溝が刻まれていて、A面B面(または1面2面)と表示されていたのですぞ。CDの出始めのころ、さすがCDってA面だけでも長いな〜と思いながら無意識にひっくり返して再生ボタンを押そうとしてもナニも起こらなかった・・・という笑い話はワリと普通にございましたでした。CDプレーヤー壊れないでヨかったネ(・o・ゞ

 あと幾日生きられるか 生命線に尋ねてみても
  昨日死んだ若い人の掌は長生き示してた


失恋ソングの女王wこと中島みゆきのA面ラストとしての面目躍如なこの曲ですが、『彼女によろしく』という題名の詩にして、なかなかの刺激的な唄い出しですねぃ。この『彼女によろしく』は、曲調こそ穏やかで淡々と寂しさを語る雰囲気ですが、詩に触れてみるとちょ〜っとアブない気にさせられます。主人公は男や相手の女に対しては恨みも憎しみも呪いも口に出さないのですが、だからこそ秘められた情感が強烈に迫ってくるのでしょうか。しかもこの唄い出しに続けて・・・

 明日が見えなくて良かったわ
  だからあなた信じられたもの


このつながりで、この詩が俄然恐ろしく感じられます。この一節を皮肉だと感じられるのは逆にまことに喜ばしく、幸せな人生を送ってきた方なんだろうなぁ・・・と。この詩では相手を失ったことで主人公は死んだも同然になってしまったのではないでしょうか。「信じる心」は生きるための原動力としてなにものにも勝りますが、当の信じてきた対象を失ってしまえばその痛手もまたはかりしれないものになってしまいます故。ですが、曲調はいきなりここで虚無感を漂わせる短調から前向きに変わりはじめ、<信じられたもの>の一言で劇的に長調に変貌します。

 時計は二度と回らない
  God bless you 彼女によろしく


二度と回らない時計>という「存在として死んでしまっているナニかの象徴」を使って主人公と相手との関係を示すのは、まぁ常套手段と言えましょう。それにしても、ここの転調はごく古典的で普通な転調であるのに、妙〜に明るく劇的な印象を与えてくれますね〜。この『彼女によろしく』は地味なようでかなり印象に残りやすいらしく、それもまぁ必然なのでしょう。

さて、ココであらためて<God bless you>を辞書で牽いてみると・・・実はコレが祝福の意味になるのは、ご好意を受けたときに「神のご加護があらんことを」と返すときだったんですね〜。イヤ知らなかった、すんません。そりゃ〜<God bless you>と唄っておきながら、主人公ってば祝福する気なんぞさらさらないと読めるのは当〜然でしたワw

 仕事をしていて良かったわ
  愛どころじゃないふりができる


中島みゆきの詩にわりと登場する「強がる女」ですね〜。そういえば、1988年のアルバム《中島みゆき》所収の『御機嫌如何』には、

 なさけないものですね あなたを忘れました
  女は意外と 立ちなおれるものなのでしょう
『御機嫌如何』1988年)

という一節があります。『御機嫌如何』では過ぎた恋を忘れた「私」をことさらに強調しますが、曲の締めくくりではまぁお約束、

 涙で 濡らした 切手を最後に貼ります『御機嫌如何』1988年)

・・・さて、こちら『彼女によろしく』の最終節。

 私が彼女にみえるほど
  酔った時だけ言えたね愛を


酒に酔ったときって意外とホンネがこぼれ出るものですが、はて、相手が酔ったのは酒だったのでしょうか。主人公に酔って彼女に見えりゃ、そりゃ愛を語りますでしょ〜。ひょっとしたら相手が本当に愛しているのは主人公なのかも知れませんね。心の底のホントのところでは<私>=主人公のことが好きなくせに、と主人公は言いたいのかもしれませんがしかし・・・ナンたることぞ = God bless you

 時計は二度と回らない
  God bless you 彼女によろしく


2019年1月 7日 (月)

中島みゆき 作詞/作曲『六花』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『六花』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

この『六花』は2000年『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』オリジナル曲。舞台では、完膚なきまでに打ちのめされた心を慰めるように降る雪の場面で主人公の女(谷山浩子)と犬(中島みゆき)によって唄われ、そして、翌2001年に発売されたアルバム『心守歌』に収録されています。ここでは『心守唄』バージョンで弾きました。

「雪は天から送られた手紙である」と遺したのは雪の結晶の研究で名高い物理学者の中谷宇吉郎博士(1900-1962)ですが、中島みゆきはこの言葉を手がかりとして雪と氷の不思議な世界を『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』で表現しようとしたとのこと。この『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』を再現した詩詞集のまえがきで、中島みゆきは

 天からの数限りない手紙を、一行なりとも端切れなりとも読み受けたいと願いながら
  私は繰り返し雪の湿原に立ちました


と記しています。前述のように『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』が上演されたのは2000年、詩詞集のまえがきにあるように<中谷博士が生まれてちょうど百年目の年の冬>であります。

 広い空の中には 罪もけがれもある
  広い空の中には 何もないわけじゃない
  広い空の上から さまよい降りて来る
  泣いて泣いてこごえた 六つの花びらの花


『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』の主人公の女(谷山浩子)は原野商法に引っかかり、不正をはたらいてまで貯めたお金を「あの人」と暮らすことを夢見ていた不動産の頭金として全て取られてしまいました。しかもその不動産は早晩底なし沼に沈む運命の物件であり、「あの人」とは姉の夫。『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』の終盤、姉からお腹に妊娠七ヶ月の赤ちゃんがいることを知らされ、<あの人と新しい時を刻む為に、居ない私になるんです・・・>と希望をもってこの原野の家に来て待っていた自分が気がつけば「あの人」の心の中にも居ない女になっていた・・・というまことに救いの無い状況で泣き崩れる主人公の女(谷山浩子)、それを慰めるように犬(中島みゆき)がこのように歌い始めます。

空から落ちてくる雪の結晶は、故中谷宇吉郎博士が述べたように、天から人間へのメッセージ。たとえそれが<>であっても<けがれ>であっても広く限りのない天からのメッセージであることには変わりがなく、あとは人間(=自分)がそのメッセージたちの何に気づくか、何を選ぶか、そして何をどう使うかの問題でありましょう。・・・それにしても<泣いて泣いてこごえた>メッセージなんですね〜(T_T)

 六花の雪よ 降り積もれよ
  すべてを包んで 降り積もれよ


雪国の方々は先刻ご承知、雪とは<すべてを包んで 降り積もる>もので、美しいよりも人間ごときの力ではどうすることもできない強大な相手なんですね。この強さはゆったりした雰囲気の曲調とは相容れぬように思えますが、実はこの雰囲気の曲調のようにしんしんと降り続く雪の中にこそ、恐るべき強さがひそんでいるのだと思います。『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』の主人公の女がわずかずつの横領を続けて四千万円を作り出して不動産の頭金にしてのけた強さ、これを象徴すると「雪の強さ」なのかも知れませんね。

思春期を帯広で過ごした中島みゆきですから、一晩中音も無く降り続けた雪で翌朝の景色が全く変わってしまう経験はごく普通のことだったでしょう。そして北海道の地吹雪の凄まじさたるや、雪が上からも横からも下からも吹きつけてくるんですよ〜。ワタクシ、実は何度かマトモに巻き込まれたことがありまして、それこそ自分の目の前に伸ばした腕が途中で白い闇の中に消えてしまうほどでした。そりゃ、地吹雪のときにうかつに戸外に出たら、通い慣れた道でも簡単に凍死しますぜよ。

 地吹雪から運ばれる積雪の量は、降ってくる量の100倍!『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』(2000年)槲の樹の言葉)

・・・そういえば、有名な「六花亭」は本社が帯広でしたっけ(・o・ゞ

 すさぶ大地の下で 花は眠っている
  吹きつける北風の 子守歌聴いている
  広い空の上では 手紙がつづられる
  透きとおる便箋は 六つの花びらの花


この一連、ホントに美しいですね〜。
強大な「雪」という存在に包まれ覆い隠されても、その雪が解ける春は必ずやってきます。春を迎えると雪は大地をうるおす恵みとなり(まぁ雪解けの頃の北海道のどろんこ具合ってハンパないのですがw)、なるほど、この意味でも「雪は天から送られた手紙である」ですよね。雪が敵となるか味方となるかは紙一重というか運命のいたずらというか裏表というか・・・まぁ、たまたまよ。たまたまw

氷雪の世界の限りなさに対して、中谷宇吉郎博士も中島みゆきもともに限りない畏敬の念を持っていますね。自然は偉大で美しく恐ろしく、そして身近な存在であります。

2018年11月 7日 (水)

中島みゆき 作詞/作曲『狼になりたい』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『狼になりたい』を、いつもの1894年製アンティークベーゼンドルファーで弾きました。

この『狼になりたい』は1979年のアルバム『親愛なる者へ』所収、通人の間では名作の誉れ高い曲とされているそうです。この曲がきっかけとなって中島みゆきにハマった人も数多いとのこと、確かに身につまされるというか、人生なんて所詮こんなモンなのかなぁとか、あ〜も〜ど〜すりゃいいんだよ〜とか、まことに複雑な気持ちにさせられる歌詞なんですよね〜(・x・ゞ

この詩は情景描写なので部分抜粋するワケにも行かず、全文引用します。場末も場末、夜明け前の「吉野屋(吉野家ではないw)」のカウンターで、数人の登場人物が酔ってまどろみながらグダっています。およそ流行歌の題材になんぞなろうハズのない、まことに見苦しい情景ですねw そしてこのグダグダつぶやいている情景をピアノで弾くという暴挙!

 夜明け間際の吉野屋では 化粧のはげかけたシティ・ガールと
  ベイビィ・フェイスの狼たち 肘をついて眠る

  なんとかしようと思ってたのに こんな日に限って朝が早い
  兄ィ、俺の分はやく作れよ そいつよりこっちのが先だぜ

  買ったばかりのアロハは どしゃ降り雨で よれよれ
  まぁ いいさ この女の化粧も同じようなもんだ

   狼になりたい 狼になりたい ただ一度

  向かいの席のおやじ見苦しいね ひとりぼっちで見苦しいね
  ビールをくださいビールをください 胸がやける

  あんたも朝から忙しいんだろう がんばって稼ぎなよ
  昼間・俺たち会ったら お互いに「いらっしゃいませ」なんてな

  人形みたいでもいいよな 笑える奴はいいよな
  みんな、いいことしてやがんのにな いいことしてやがんのにな
                        ビールはまだか

   狼になりたい 狼になりたい ただ一度

  俺のナナハンで行けるのは 町でも海でもどこでも
  ねえ あんた 乗せてやろうか
  どこまでもどこまでもどこまでもどこまでも

   狼になりたい 狼になりたい ただ一度
   狼になりたい 狼になりたい ただ一度


特別な存在である「狼」に「なりたい」と願うばかりで実際のところはしょ〜もない行動しかできないのが圧倒的多数で、それこそが「大衆」なのでしょう。おそらく、誰しもチクリと胸に刺さる刺を何本も持っていることでしょう。いやワタクシも苦しいっす (´・ω・`)ショボーン

 <夜明け間際の吉野屋では・・・>

横でうつらうつらしている<シティ・ガール>を<なんとかしようと思ってた(送り狼ですなw)のに断念せざるを得なかったのでしょう。ナンパするためにアロハまで買った主人公(これぞ1970年代!)、そっか、どしゃ降り雨でそれどころじゃなかったのかも。あぁ(送り)狼になりたい(なんか違うw)

 <向かいの席のおやじ見苦しいね ひとりぼっちで見苦しいね
  ・・・>

グダグダきわまりない主人公、自分より下に見られる存在を見つけてさげすむほどの救いの無さ、そう、ここは場末のおそらく安牛丼屋。このあふれ出るみじめな生活感はいったいなんでしょ。そして「おやじ」はいつの世にもさげすまれる存在ですな。ほっとけっっっw

さて「狼になりたい」というささやかでグダった想いが次第に強くなって、最後の<俺のナナハンで>以降の一連は、全てが主人公の心の中の叫びでしょう。

おそらくこの主人公はナナハンなんぞ持てるハズはないでしょう。ですが、このような場末の一人の主人公にも夢はあるでしょうし、それは等しく尊重されねばならないかけがえのない夢なのです。世の中にはさまざまな人生があり、このようにおよそ歌の題材になんぞならぬような人生を送らざるを得ない人々も数多くまたいるんですよね。中島みゆきの詩に詠まれる主人公は、よくもまぁこんなにも、と思えるほど多種多様ですね。

2018年10月 7日 (日)

中島みゆき 作詞/作曲『愛から遠く離れて』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『愛から遠く離れて』を、いつもの1894年製アンティークベーゼンドルファーで弾きました。

この『愛から遠く離れて』は1998年の『夜会 VOL.10 海嘯』のために書き下ろされたオリジナル曲。夜会の舞台では中島みゆき扮する主人公が飛行機内で喀血して担ぎ込まれたハワイの結核療養所の場面の冒頭で唄われており、翌1999年のアルバム《月—WINGS》に最後の曲として収録されています。

海嘯(かいしょう)とは満潮時に海水が河を響きをともなってさかのぼる現象で、嘯く(うそぶく)という漢字は「吠える」「うなる」という意味を持っていることを考え併せると、およそ人間の力の及ばぬダイナミックかつ恐ろしい自然現象が想像できます。昔は津波のことも海嘯と言っていたそうですが、むべなるかな。なお、かの宮崎駿氏もコミック版『風の谷のナウシカ(1982〜)の中で王蟲の暴走のことを「大海嘯」と表しており、これまたなるほどな使い方ですね〜(・o・ゞ

『夜会 VOL.10 海嘯』は表面だけを見れば復讐を果たす寸前で果たせず自らの命をも失う、という普通の悲劇wなのですが、曲目には『夢を叶えて』『夢の代わりに』『叶わぬ夢』という3曲。最初に唄われるのが『夢を叶えて』ですが、この詩、のっけから飛ばしてますぞ。

 夢を叶えるまでに失くすものはいくつ
  夢を叶えるまでに奪うものはいくつ
  幸せな隣人のやり方を見習おう
  明日にはその席に誰が上手く座るだろう
  世界は椅子獲りゲームさ
  夢を叶えていつか違う明日へ行こう
  夢を叶えていつか違う席に着こう
『夢を叶えて』1998年)

「夢」の真実は他人を押しのけてその席に座ることで、自他ともに多大な犠牲を伴うもの・・・という恐るべき観点にはそう簡単にはたどり着けないでしょう。ですが『夜会 VOL.10 海嘯』の主人公の夢は復讐ですから、この観点が明白となります。復讐とは、本人以外にとっては「叶えて欲しくない夢」であり、本人にとっては「どのような犠牲を払ってでも叶えねばならぬ夢」。その過程で起こる大きな犠牲や軋轢を比喩として俯瞰的に捉えたのが、山が動く・・・ではなく海が動く『海嘯』というタイトルなのでしょうか。言わずもがなですが、海全体が動いて襲いかかってくる恐ろしさは、2011年3月11日の東日本大震災での大津波の映像を目の当たりにしてしまった我々には忘れようにも忘れられないところですね。

中島みゆきのライフワークたる「夜会」ですから、ただならぬ重層的なメッセージ性を備えているのは当然のこと。それなのにこの『愛から遠く離れて』の音楽、復讐があと少しで成就できると確信したときに機内で喀血して意識が戻った設定の第二幕の口開けにしては、妙な穏やかさというか諦念というか、緊迫感とは無縁の世界をかもし出しているように感じられます。死の淵をかいま見た主人公は、復讐の成就ばかりに多大な犠牲を払ってきた己の人生にフト疑問を感じたのでしょうか・・・

 愛から遥か遠く離れて生きる時は
  時計を海に捨てに行こう 永遠のリフレインに


このフレーズが5回登場します。題名にもなっている<愛から遠く離れて>に至っては7回。<>と<永遠>を関連づけて執拗に繰り返すことは凡百の作品でとっくにヤリ尽されているでしょうが、時計>といういわば永遠の時を区切る存在を織り込んでくるところがキラリと光ります。永遠の時を区切る存在を永遠の象徴たる海に捨てるのですから、主人公は過去の自分との決別だけでなく、自分自身を永遠の海に投げ出しているのです。<永遠のリフレイン>とは変化の無いこと、すはなち愛/夢の実現のために犠牲を払わなくなること、それは彼岸の地でしょう。

 一番好きな服を着て
  一番好きな私でいよう
  いつか或る日思いがけず船が出るかもしれないから


『夜会VOL.10 海嘯』のために書き下ろされた曲でなければ、この一節は<愛から遠く離れて>しまっても愛/夢の成就のために<一番好きな私でいよう>・・・というポジティブな解釈になるのが当然でしょうが、ここでの解釈は死出の旅への船出でしょう。しかも主人公はこの船出を一種の期待を持って静かに待っているのかも知れません。

 一番好きな人がいた
  一番好きな私がいた
  いつか全ての思い出が遥かな海へと変わるから


自分の過去の全てが永遠の<海へと変わる>・・・やはり彼岸の地の象徴であります。『夜会 VOL.10 海嘯』で主人公は復讐を果たせず津波に呑まれて命を落としますが、なんとそのタイミングで主人公が結核療養所で出会った身重の女性が出産します。この身重の女性と主人公の母とは名前が一緒であり主人公もまた結核療養所に産み落とされたことを勘案するに、ここで主人公の「転生/リセット」が行われたという解釈ができようかと思います。主人公は復讐をしなければならぬ生い立ちから死をもって解放されて、これから真の己の人生を歩めるのではないでしょうか。やはり中島みゆきが頻繁に投げかける「自らの生を自ら生き抜け!」というメッセージにつながったようです (`・ω・´)シャキーン

中島みゆきは『肩に降る雨』で、魂の死と再生を何度でも繰り返せ! と唄いました。中島みゆきの楽曲からはどのような形を取ろうとも生き続けろ! というメッセージを強く感じさせられることが少なくありませんが、『夜会 VOL.10 海嘯』ではさらに二歩も三歩も進めて「転生」という肉体の死と再生までに行き着いてしまった感があります。毎年開催していた「夜会」はこの第10回で一区切り、あとはおよそ2年ごとの開催になりましたが、この区切りの回ではここまでイッちまったのですね (((( ;゚Д゚)))

 肩に降る雨の冷たさは生きろと叫ぶ誰かの声
  肩に降る雨の冷たさは生きたいと迷う自分の声
『肩に降る雨』1985年)

・・・と思いきや、デビュー直後の『時代』にはこんな一節が!

 まわるまわるよ 時代はまわる
  別れと出会いをくり返し
  今日は倒れた旅人たちも 生まれ変って歩きだすよ
『時代』1975年)

2018年9月 7日 (金)

中島みゆき 作詞/作曲『36時間』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『36時間』を、いつもの1894年製アンティークベーゼンドルファーで弾きました。

この『36時間』は2015年のアルバム《組曲(Suite)》のトップを飾る曲ですが、キャッチーな曲調とは無縁なまことに穏やかな曲。ですが、出だしの<1日は36時間と決めたんです>という歌詞が実にキャッチーですわ。

 <出来ることが まだ間にあう し残したことが まだ間にあう

ここまでは「生き急ぐな」という万人に通ずるごく普通の指摘、ナニもいまさら中島みゆきが詠むまでもない、とっくに言い古されている歌詞に過ぎない・・・のですが・・・

 <ゆっくりゆっくり 悲しみは癒えるだろう
  大切に大切に 愛する人と歩くだろう
  おそるおそる 人は変わってゆけるだろう


このように「大切な人との時間そして関係をじっくり紡ぐこと」に意識を向けさせられるのが、やはり中島みゆきの歌詞でありま〜す。時を経ても変わらぬ関係は存在し得ないとは言え、それぞれがたとえゆっくりとでも、否、むしろ時間を充分にかけて修正し続けることこそが人生を生き続けることに他ならないのでしょう。ここで思い出させられるのが『慕情』の出だし。『慕情』《組曲(Suite)》の次のアルバム《相聞》のラストに入っていることと無関係ではなさそうな(・o・ゞ

 <愛より急ぐものが どこにあったのだろう
  愛を後回しにして何を急いだのだろう
『慕情』2017年)

確かに人生にはやらなきゃならんことがあふれていますが、自分の生についてしっかりと考えている人にとって、本当に心を注ぐべきは<愛>なんですよね。日々の些事にかまけてしまうことは本当に心を注ぐべき対象を見失うことに他ならず、それを見失ってしまったら心を失って自分が自分でなくなってしまいます。これこそが「生き急ぐこと」の恐ろしさなのではないでしょうか。

 <追いつめられた心たちよ 36時間に来ませんか

とは言え、現代社会を生きていれば生き急がぬ余裕なんぞ誰もが持てるハズもなく、心が追いつめられてしまっている方も少なからずでしょう。中島みゆきの慈愛に満ちたまなざし、まことに心に染みます。世の中の人すべての心に、少しでも余裕が生み出されますように。

 <1日の中に1年を詰め込む
  急ぎすぎる日々が欲望を蝕む
  隙も見せられない警戒の夜が
  いつか涙さえも孤立させてゆく
『泣いてもいいんだよ』2014年/唄:ももいろクローバーZ)

それにしても、慈愛に満ちたまなざしを見せるかと思えば『36時間』発表の前年にこんな歌詞を現代の忙しさそして生き急ぎの象徴たるアイドルグループに歌わせる中島みゆきって、辛辣なのか挑戦なのか揶揄なのか、いやはや、もう笑っちまいますね〜ヽ( ̄▽ ̄)ノ

2018年8月 7日 (火)

中島みゆき 作詞/作曲『I love him』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『I love him』をアンティークピアノで弾きました。この『I love him』は1991年にシアターコクーンにて20公演行われた『夜会VOL.3 KAN(邯鄲)TAN』のラストを飾った、13分に及ぶ大曲です。『I love him』は1995年のアルバム《10 WINGS》にも収録されていますが、全く異なるアレンジになっています。「夜会」ファンにはこの『夜会VOL.3 KAN(邯鄲)TAN』のアレンジも根強い人気だそうで、ワタクシもこっちが好みでありま〜す(・o・ゞ

「夜会」とは、コンサートでもなく、演劇でもなく、ミュージカルでもない「言葉の実験劇場」をコンセプトとして1989年に開始した舞台で、言葉の使い手である中島みゆきにとってライフワークとも言えましょう。中島みゆきはこの『夜会VOL.3 KAN(邯鄲)TAN』で中国の故事「邯鄲の夢」をテーマに、ある女性が夢の中で見た少女から老婆になるまでに至る一生を演じました。そのラストの曲が『I love him』であり、まさに邯鄲の<長い夢のあと>の<本当の願い>を高らかに唄い上げています。

 <それならば私は何も失わずに生きてゆけた
  でも何か忘れたことがある
  でも誰も愛したことがない
  それで生きたことになるの?
  それで生きたことになるの?
  長い夢のあと 本当の願いが胸の中 目を醒ます


「邯鄲の夢」は国語辞典などの記述に見るように「栄枯盛衰のはかないことのたとえ」とされるのが一般的なようですが、実はワタクシ昔っからそれには疑問をいだいておりまして。そして中島みゆきもまた、この『夜会VOL.3 KAN(邯鄲)TAN』で真意はそんな意味にとどまらないと伝えているように思えます。「己の人生にとっての<本当の願い>の前では、人生の栄華なんてはかなく表面的なもの。大切なのは己の生き方こそではないか?」というのが「邯鄲の夢」の問いかけでしょ・・・というメッセージを感じるんですね〜 (`・ω・´)シャキーン
・・・まぁ辞書などでは説明するのがヤヤこしいから「栄枯盛衰のはかないことのたとえ」という表現にせざるを得ないのかなぁ、とも思いますけど(・x・ゞ

「邯鄲の夢」の話として知られるのは、沈既濟(c.750 - c.800)によって中国唐代に書かれた『枕中記』という伝奇小説です。原文はこちらから:https://zh.wikisource.org/wiki/枕中記

神仙の術を心得た呂翁(りょおう)という道士が邯鄲への街道を行く途中、畑仕事に行くところだった地元の若者盧生(ろせい)と出会うところから『枕中記』は始まります。ここで盧生は呂翁にまだ田畑で働いている不遇の身をかこち、およそ男子に生まれたからには立身出世そして栄耀栄華が夢であるのにつらい・・・とこぼします。呂翁が、見たところ病気もしていないし問題なんてなさそうなのにつらいとは? と問うと・・・

生曰:“吾此苟生耳,何適之謂。” 翁曰:“此不謂適,而何謂適。”

生(=盧生)曰く、「吾は此れ苟(いやし)くも生くるのみ。何の適とか之れ謂わん」と。翁(=呂翁)曰く、「此れを適と謂わずして、何をか適と謂わんや」と。

ここで、呂翁は盧生の願う人生が<>であるかどうかを夢の中で体験させます。それは栄枯盛衰浮き沈みが激しく、結局は栄耀栄華を極めて齢80を超えて大往生・・・という人生でした。夢の前の導入部分、この小説が<>とは何かという話だよ、と示しているのではないでしょうか。そして夢のあとの終結部、まことに簡潔にスパッと終わらせていて小気味よいです。

盧生欠伸而悟,見其身方偃於邸舍,呂翁坐其傍,主人蒸黍未熟,觸類如故。生蹶然而興,曰:“豈其夢寐也。” 翁謂生曰:“人生之適,亦如是矣。” 生憮然良久,謝曰:“夫寵辱之道,窮達之運,得喪之理,死生之情,盡知之矣。 此先生所以窒吾欲也。敢不受教。” 稽首再拜而去。

盧生は欠伸して悟(さ)め、其の身の方(まさ)に邸舎に偃(ふ)し、呂翁は其の傍らに坐し、主人は黍を蒸して未だ熟せず、類に觸(触)るるに故(もと)の如きを見る。生(=盧生)は蹶然(けつぜん)として興(お)きて曰く、「豈(あ)に其れ夢寐(むび)なるか」と。翁(=呂翁)は生(=盧生)に謂いて曰く、「人生の適も亦た是くの如し」と。生(=盧生)は憮然たること良(やや)久しくして、謝して曰く、「夫れ寵辱の道、窮達の運、得喪の理、死生の情は、尽く之を知れり。此れ先生の吾が欲を窒(ふさ)ぐ所以なり。敢て教えを受けざらんや」と。稽首(けいしゅ)再拝して去りぬ。

呂翁が盧生に<人生の適も亦た是くの如し>と語るところ、人間の欲とは限りのないもので、その欲望をかなえていくことが本当に貴方にとっての<人生の適>であるのか、という問いかけでしょう。<生(=盧生)は憮然たること良(やや)久しくして>・・・この「憮然」は現代日本人が考える意味ではなく「茫然とする」ぐらいの意味、茫然としばらく考えて盧生はハタと悟るところがあったのでしょう。<此れ先生の吾が欲を窒(ふさ)ぐ所以なり>。人生において欲望を抱くのは避けられないことですが、それを制御できなければ結局は不幸なことになってしまうのはご存知の通り。すなはち、欲望を抑制することなしには<人生の適>にはたどり着き得ないのでした。『枕中記』は「<人生の適>とは何ぞや?」と問いかけて、この主題を伝えようとしているのだと思うんですね〜。

・・・さて『I love him』の歌詞にまいりましょう。

 <夢見続けた願いはいつも 愛されること愛してもらうこと
  それが人生の幸せだって いつも信じてた
  信じて待った 待って夢見た


人生の適」=<夢見続けた願い>をどこに求めるか・・・はそれぞれの価値観と直結するのでいちがいには決められませんが、このように自ら動かず欲して待つだけの人生に対して、中島みゆきは<それで生きたことになるの?>と突っ込みます。なかなかの破壊力ではないでしょうか。

 <与えられる愛を待つだけならば
  もらいそこねても悪くてもゼロ マイナスはない


まことに明〜快な損得勘定wで、さすがは中島みゆきの詩。傷つく怖れから自ら動くことを止めることもそれはそれで人生ではありましょうが、しかしやはりこのあとに<それで生きたことになるの?>と突きつけられます(^^;;;;;

 <I love him I love him I love him I love him
  I love him I love him 返される愛は無くても


返される愛は無くても>という表現が、いかにも中島みゆきらしくエラく切ないですね。損得勘定なんぞ抜きに自ら考え判断し行動してこその己の人生。中島みゆきは『枕中記』が投げかける「人生の適とは何ぞや?」という問いかけを踏まえたうえで、たとえ傷つこうとも自らの心の叫びに気づき自らの生を自ら生き抜け!・・・というメッセージを伝えているのではないでしょうか。実はこのメッセージ、中島みゆきの大きなテーマの一つなんですぞ。

 <ファイト!   闘う君の唄を
  闘わない奴等が笑うだろう
  ファイト!   冷たい水の中を
  ふるえながらのぼってゆけ
『ファイト!』1983年)

 <くり返す哀しみを照らす 灯をかざせ
  君にも僕にも すべての人にも
  命に付く名前を「心」と呼ぶ
  名もなき君にも 名もなき僕にも
『命の別名』1998年)

 <その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
  おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな
『宙船(そらふね)』2006年)

 <がんばってから死にたいな  がんばってから死にたいな
  這いあがれ這いあがれと  自分を呼びながら 呼びながら
『重き荷を負いて』2006年)

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