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カテゴリー「音楽>中島みゆき」の32件の記事

2019年5月 7日 (火)

中島みゆき 作詞/作曲『誰のせいでもない雨が』ソロ:モーツァルトの旅行用クラヴィコード(1763, J.A.Stein)の複製(2002年)で

中島みゆきの『誰のせいでもない雨が』を、かの神童モーツァルトが7歳のとき(1763年)に買ってもらったJ.A.シュタイン製の旅行用クラヴィコードの複製で弾きました。ん? 歴史的楽器で現代の音楽を弾く必然性? 別に全っ然ございませんがナニか? ( ̄ー ̄)

クラヴィコードはピアノ以前の鍵盤楽器のなかで最も大切とされていたフシがあり、現代古楽器w周辺では「独りで音楽の神さまと向き合う」ための楽器とみなされて過度に神聖化wされていたりします。ですが、実は、そのような内なる世界は優しく親密な世界でもあるはずで、現代人にとって大切なのはむしろ後者の性格ですよね。なお、クラヴィコードの音量は世人の想像を超えて小さいですから、背景のノイズが気にならない程度の音量に抑えたうえで少〜し耳を澄ませてくださいませ。聴こえてきますよ〜(・o・ゞ

『誰のせいでもない雨が』は1983年のアルバム《予感》のB面最初に置かれた一曲。この全編に漂うなんとも寂しく悲しく孤独で切なくうすら寒い雰囲気と間奏部分のエレキギターの泣きったら、どうしてくれましょう。まぁ、そりゃ、雨が降ったらどんなに防護しても必ずどこかは濡れるwモノで、このときのなんとも言えぬ微妙な感覚って独特ですよね。難しいことを簡単な言葉で表現できてこその、一流の表現者でありま〜す。・・・まぁ単なる比喩の積み重ねなんですけどw

人の数ほど唯一無二の人生があります(これも中島みゆきのテーマの一つですね)が、<誰のせいでもない>というのは、とどのつまりはどうあがいても抗えない「決まりごと」であって、散るか諦めるか以外の選択肢はないのでしょう。だからこそ、その裏には言いようのない強烈な悲しみそして怒りその他もろもろ複雑な情緒が人の数ほど込められることになります。
そう思うと、この↓出だしって、むちゃくちゃ強烈と思いません?

 誰のせいでもない雨が降っている
  しかたのない雨が降っている

この詩の難解さは並みいる評論家諸氏の腕を鳴らすようですが、どうやらほぼ「学生運動の挫折と当事者の悲哀」という観点に基づく解釈で一致しているようです。・・・ですが、せっかく難解に詠まれた詩なのにそんなに直接的一意的に結論づけてしまってはもったいないと思いませんこと? 結論づけて「わかって」しまうと、下手するとそれ以上味わえなくなるかも知れないですぜ(・o・ゞ

 怒りもて石を握った指先は
  眠れる赤子をあやし抱き
  怒りもて罪を穿った唇は
  時の褥に愛を呼ぶ

東大紛争は1968〜1969年のこと、そして連合赤軍事件の数々は1971〜1972年のこと。中島みゆきは1952年生まれでデビューは1975年ですが、さまざまなコンテストに出場して「コンテスト荒らし」の異名をとっていたのはその少し前の学生時代、同世代が武装闘争で新聞紙上をにぎわせているときに中島みゆき(当時は本名の中島美雪ですな)は音楽で闘争していたのでありました。まぁここまで直接的に表現されれば、関連がないと見なす方に問題があるでしょうw

この『誰のせいでもない雨が』は、1983年発表の《予感》収録。このタイミングは武装闘争の闘士として(念のため賛否は表明しませんよ)活動していた二十台半ばの若者たちにとって干支が一回りして四十の声を聞くタイミング、そしてバブル経済前夜で社会全体がそんな時代を忘れかけていたタイミングなのだろうなぁと。当事者たちに限らず、己がアツかった青春時代を呼び覚ますような詩であったと同時に「あぁ、あいつらも四十に近づいているんだよなぁ」とも思われたでしょうね。「四十而不惑」は『論語』の一節。うぅぅむ。

 黒い枝の先ぽつりぽつり血のように
  りんごが自分の重さで落ちてゆく

人間稼業を重ねて来れば背負うものもまた重なり重くなってくるものでございまして、一人二人と血の涙を流しながら脱落(と言うのもいささかモンダイかも知れませんが(^^;)して社会に飲み込まれざるを得ないもの。ですが中島みゆきは前の年、こうも詠っています。己の業を忘れないことが良いのか、忘れちまうことが良いのか、人により時と場合により、そして都合にwよりますな。まぁそんなモンでしょうて ヽ( ̄▽ ̄)ノ

 としをとるのはステキなことです そうじゃないですか
  忘れっぽいのはステキなことです そうじゃないですか
  悲しい記憶の数ばかり
  飽和の量より増えたなら
  忘れるよりほかないじゃありませんか『傾斜』1982年)

詩的文学的な表現は多様な解釈を可能とさせることで逆に真意をおぼろげながら浮かび上がらせる、という側面があると思うのですが、それは比喩だったり抽象化だったりのレトリックのなせる技。そこにいきなり投下される<滝川と後藤>という人名にはびっくりさせられます。しかも<帰らなかったってね>ですから、全くもっておだやかぢゃございませんで、やはり投獄された闘士たちを思い起こさせられずにはいられませんが、主人公たちと違う世界に袂を分かったのかも知れませんし、はたまた冷たい水の底という怪釈もできなくはなさそうで(ちょっとヤバいかな(^^;)

 きのう滝川と後藤が帰らなかったってね
  今ごろ遠かろうね寒かろうね
  誰かあたしのあの人を救けてよと
  (はだし)の女が雨に泣く

とは言え、この詩は「学生運動の挫折と当事者の悲哀」を詠ったもの、と小さくまとめてしまうにはチト惜しいと思います。あくまでも「学生運動の挫折と当事者の悲哀」は主要題材に過ぎず、誰しも社会的生活を送っている限りは必ず直面するであろう「理想と現実とのはざまでの葛藤」の方を詠んでいるとしたいワタクシでありま〜す。

 もう誰一人気にしてないよね
  早く 月日すべての悲しみを癒せ
  月日すべての悲しみを癒せ

このフレーズがサビとして繰り返されますが、なんという痛切なメッセージでしょう。悲しみを癒せ>と叫んでいるのですから、主人公にとって<悲しみ>は月日の力をもってしてもいまだ癒されていないのです。それなのに現実世界では<もう誰一人気にしてない>という不条理。生きることとは不条理を受け入れることだとも思いますが、この<悲しみ>は底知れず深く冷たい。しかもそれが<誰のせいでもない>という表現によって、強烈な光を放ちます。なるほど、レコードのB面のトップに置かれるべくして置かれた一曲なんでしょうね。

2019年4月 7日 (日)

中島みゆき 作詞/作曲『グッバイ ガール』ソロ:モーツァルトの旅行用クラヴィコード(1763, J.A.Stein)の複製(2002年)で

中島みゆきの『グッバイ ガール』を、かの神童モーツァルトが7歳のとき(1763年)に買ってもらったJ.A.シュタイン製の旅行用クラヴィコードの複製で弾きました。ん? 歴史的楽器で現代の音楽を弾く必然性? 別に全っ然ございませんがナニか? ( ̄ー ̄)

『グッバイ ガール』は1988年のアルバム《グッバイ ガール》の収録曲と思うのが当然でしょうが、なんとまぁ、このアルバムには入っていないどころかこの『グッバイ ガール』の発売は1989年のシングル盤のみ、しかも2曲めとしてリリースされているというオチ。なのでこの「曲」をWebで検索するのは案外と面倒なのですが、中島みゆきにはもっと手強い相手がおりまして。《グッバイ ガール》と同じ1988年に《中島みゆき》というアルバムを発売していやがって、なんとまぁ検索しづらいことw

・・・閑話休題、クラヴィコードはピアノ以前の鍵盤楽器のなかで最も大切とされていたフシがあり、現代古楽器周辺では「独りで音楽の神さまと向き合う」ための楽器とみなされて過度に神聖化wされていたりします。ですが、実は、そのような内なる世界は優しく親密な世界でもあるはずで、現代人にとって大切なのはむしろ後者の性格ですよね。なお、クラヴィコードの音量は世人の想像を超えて小さいですから、背景のノイズが気にならない程度の音量に抑えたうえで少〜し耳を澄ませてくださいませ。聴こえてきますよ〜(・o・ゞ

 グッバイガール 何とでも 私のことを
  他人は語るがいいさ
  グッバイガール はじめから さよなら目当て
  そんなふうに 語るがいいさ


中島みゆきは「失恋歌の女王」とまで称されますし事実その通りだと思いますが、最初っっっから<さよなら目当て>と言われる主人公が登場するこの曲は、のっけからなかなかシビれますわな。「ふられぐせ」がついてしまったがごとき主人公ですが、今回ばかりは未練たっぷりで大変なようです。

 あの人は恋 私には恋
  誰も信じなくても だけど
  あの人は恋 私には恋
  あの人も信じないけど


この<あの人も信じないけど>が、ホントに切ないですね〜。主人公は自虐的になっているようなそぶりこそ見せて自分をも欺こうとしているようですが、この切なさはそれを突き抜けて心に刺さります。

 あの人は恋 私には恋
  いつでも忘れがたい だけど
  あの人は言う 街角で言う
  別れやすい奴だってさ


主人公が切々と恋いこがれているのに<あの人>と言ったら、まっっったくも〜。ですが、恋愛に限らずですが、強く強く想えば想うほど案外と自分一人で盛り上がってしまっていてナニも伝えられていないことが少なくない・・・と思いませんか? 態度に出しているつもりで全っ然出せていなかったとか、言葉に出したつもりなのに婉曲に過ぎてポカ〜ンとされちまうとか (´・ω・`)

 汚れてゆく雪のようです 女たちの心は
  汚れながら春になります 不埒でしょうか


もろもろのモヤモヤを吹き飛ばすような、締めくくりのこの二行。美しいだけでない、このナンとも言い難い雰囲気は一体どうしたことでしょうか。雪国で春が近づいて雪が溶け始めたときの凄まじい泥んこぐあいは札幌生まれ帯広育ちの中島みゆきですからイヤというほど経験しているわけで、そのような悲惨な泥んこぐあいがなければ<>は訪れない、と強く刷り込まれていることでしょう。中島みゆきにしては解りやすい比喩ではありますが、<汚れながら春になります>という表現ができるかどうかとはまた別なモンダイですね。まことに美しい表現でありますが・・・いやいや、泥んこで凄まじい汚れっぷりなんですけどw

さて、この動画で使っているクラヴィコードという鍵盤楽器の音は極めて小さく、弾き手の注意力は自然に研ぎ澄まされます。それがために「独りで音楽の神さまと向き合う」楽器とされるのでしょうが、その向き合い方は求道者のごとく禁欲的な姿だけではございません。クラヴィコードを弾くと世の中がいかに多種多彩な音に満ちているかにはっとさせられますし、それはとりもなおさず、自分が今まで気づかなかった外界の動きに気づかされる機会が与えられたことに他なりません。神さまとは実は身近な存在で、どれくらい身近かというと、自分の感性の中におはしまするぞ (`・ω・´)シャキーン

2019年3月 7日 (木)

中島みゆき 作詞/作曲『彼女によろしく』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『彼女によろしく』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

この『彼女によろしく』は1984年に発売されたアルバム《はじめまして》のA面ラスト。あ、念のため、LPレコードは基本的に裏表に音溝が刻まれていて、A面B面(または1面2面)と表示されていたのですぞ。CDの出始めのころ、さすがCDってA面だけでも長いな〜と思いながら無意識にひっくり返して再生ボタンを押そうとしてもナニも起こらなかった・・・という笑い話はワリと普通にございましたでした。CDプレーヤー壊れないでヨかったネ(・o・ゞ

 あと幾日生きられるか 生命線に尋ねてみても
  昨日死んだ若い人の掌は長生き示してた


失恋ソングの女王wこと中島みゆきのA面ラストとしての面目躍如なこの曲ですが、『彼女によろしく』という題名の詩にして、なかなかの刺激的な唄い出しですねぃ。この『彼女によろしく』は、曲調こそ穏やかで淡々と寂しさを語る雰囲気ですが、詩に触れてみるとちょ〜っとアブない気にさせられます。主人公は男や相手の女に対しては恨みも憎しみも呪いも口に出さないのですが、だからこそ秘められた情感が強烈に迫ってくるのでしょうか。しかもこの唄い出しに続けて・・・

 明日が見えなくて良かったわ
  だからあなた信じられたもの


このつながりで、この詩が俄然恐ろしく感じられます。この一節を皮肉だと感じられるのは逆にまことに喜ばしく、幸せな人生を送ってきた方なんだろうなぁ・・・と。この詩では相手を失ったことで主人公は死んだも同然になってしまったのではないでしょうか。「信じる心」は生きるための原動力としてなにものにも勝りますが、当の信じてきた対象を失ってしまえばその痛手もまたはかりしれないものになってしまいます故。ですが、曲調はいきなりここで虚無感を漂わせる短調から前向きに変わりはじめ、<信じられたもの>の一言で劇的に長調に変貌します。

 時計は二度と回らない
  God bless you 彼女によろしく


二度と回らない時計>という「存在として死んでしまっているナニかの象徴」を使って主人公と相手との関係を示すのは、まぁ常套手段と言えましょう。それにしても、ここの転調はごく古典的で普通な転調であるのに、妙〜に明るく劇的な印象を与えてくれますね〜。この『彼女によろしく』は地味なようでかなり印象に残りやすいらしく、それもまぁ必然なのでしょう。

さて、ココであらためて<God bless you>を辞書で牽いてみると・・・実はコレが祝福の意味になるのは、ご好意を受けたときに「神のご加護があらんことを」と返すときだったんですね〜。イヤ知らなかった、すんません。そりゃ〜<God bless you>と唄っておきながら、主人公ってば祝福する気なんぞさらさらないと読めるのは当〜然でしたワw

 仕事をしていて良かったわ
  愛どころじゃないふりができる


中島みゆきの詩にわりと登場する「強がる女」ですね〜。そういえば、1988年のアルバム《中島みゆき》所収の『御機嫌如何』には、

 なさけないものですね あなたを忘れました
  女は意外と 立ちなおれるものなのでしょう
『御機嫌如何』1988年)

という一節があります。『御機嫌如何』では過ぎた恋を忘れた「私」をことさらに強調しますが、曲の締めくくりではまぁお約束、

 涙で 濡らした 切手を最後に貼ります『御機嫌如何』1988年)

・・・さて、こちら『彼女によろしく』の最終節。

 私が彼女にみえるほど
  酔った時だけ言えたね愛を


酒に酔ったときって意外とホンネがこぼれ出るものですが、はて、相手が酔ったのは酒だったのでしょうか。主人公に酔って彼女に見えりゃ、そりゃ愛を語りますでしょ〜。ひょっとしたら相手が本当に愛しているのは主人公なのかも知れませんね。心の底のホントのところでは<私>=主人公のことが好きなくせに、と主人公は言いたいのかもしれませんがしかし・・・ナンたることぞ = God bless you

 時計は二度と回らない
  God bless you 彼女によろしく


2019年2月 7日 (木)

中島みゆき 作詞/作曲『風にならないか』ソロ:モーツァルトの旅行用クラヴィコード(1763, J.A.Stein)の複製(2002年)で

中島みゆきの『風にならないか』を、かの神童モーツァルトが7歳のとき(1763年)に買ってもらったJ.A.シュタイン製の旅行用クラヴィコードの複製で弾きました。

『風にならないか』は1994年のアルバム《LOVR OR NOTHING》の一曲。演歌調にただただ独りごちて「・・・まいっか(・ω・ゞ」というような地味な曲調は、深遠で高潔な思想とは無縁の世界観。それでいながらちょっとした言葉のスパイスが耳に残る佳曲だと思います。いつもながら対語法が秀逸。

クラヴィコードはピアノ以前の鍵盤楽器のなかで最も大切とされていたフシがあり、現代古楽器周辺では「独りで音楽の神さまと向き合う」ための楽器とみなされて過度に神聖化wされていたりします。ですが、実は、そのような内なる世界は優しく親密な世界でもあるはずで、現代人にとって大切なのはむしろ後者の性格ですよね。なお、クラヴィコードの音量は世人の想像を超えて小さいですから、背景のノイズが気にならない程度の音量に抑えたうえで少〜し耳を澄ませてくださいませ。聴こえてきますよ〜(・o・ゞ

 むずかしい言葉は自分を守ったかい
  振りまわす刃は自分を守ったかい
  降りかかる火の粉と 降り注ぐ愛情を
  けして間違わずに来たとは言えない


中島みゆきの曲でのっけからこう始まると「来たな」と身構えたくなりますが、このユルい曲調だとなんだか身構えようがないwのも事実。「頑張るのはご苦労なこったけど、わりかし勘違いするんだよねぃ」な程度の雰囲気を感じるのはワタクシだけでしょうかw ふむ、確かに<降りかかる火の粉>と<降り注ぐ愛情>って、意外と間違いやすいような気はしますね。

さて、モンダイは2番の歌詞、なかなか意味深でございます。

 自由になりたくて孤独になりたくない
  放っておいてほしい 見捨てないでほしい


なんだかコレ、かまってちゃんwな雰囲気満載ですが、誰しもこのような想いに至ってしまうのではないでしょうか。自由な状態とはある意味「我関せず」な状態ですが、だれしも多かれ少なかれ承認欲求はあるもので、本当に「我関せず」になってしまっては実は満足できないんですよね〜。声高に「人は人、自分は自分」と吹聴しながら実際のところは理解者を切望してしまうのは、仙人でもない限り、無理もないことでありま〜す。

 望みはすばしこく何処へでも毒をまく
  やがて自分の飲む水とも知らないで


自由でありたい人は往々にして意識が高い方々であることが多く、そのような方々の承認欲求は実は笑っちゃうぐらいに高かったりします。自分の「意識の高さ」はそもそも他者から独立しては存在し得ず、孤高の存在であろうとすればするほど逆にあちこちに顔を出して口を出して疎まれてしまったり。「自分は人とは違う」とか「自分の方が正しい」とか「自分が見ている世界こそが本物だ」とか、ま〜、なんつ〜か、いわゆる「勘違いオヤジ」なマウンティングの典型ですわな。・・・あ、しまった、こうやって書いているコト自体が<何処へでも毒をまく>展怪ではないかっっっw

 我が身可愛いと心は揺れる
  あてにならぬ地図を持ち ただ立ちすくんでいる
  もう風にならないか
  ねぇ風にならないか


人間なんて所詮は人間関係から逃れられるハズもなく、自分が可愛くてどうしようもない存在。そのようなものである人間にとっての本当の自由とは、さまざまな関係性を描いた<あてにならぬ地図>の間をさらさらと吹き抜けて行く風のような存在になることでしょう。まぁこのように利いた風な口を叩いたところで、この「風」とはなんぞやと常に考えずして自由は得られず、よしんば「風の通り道を記した地図」を手に入れたところで逆に地図に縛られる可能性が浮上しますから、結局、考えることでしか自由は得られないのです。・・・どないせぇっちゅ〜んじゃw

さて、この動画で使っているクラヴィコードという鍵盤楽器の音は極めて小さく、弾き手の注意力は自然に研ぎ澄まされます。それがために「独りで音楽の神さまと向き合う」楽器とされるのでしょうが、その向き合い方は求道者のごとく禁欲的な姿だけではございません。クラヴィコードを弾くと世の中がいかに多種多彩な音に満ちているかにはっとさせられますし、それはとりもなおさず、自分が今まで気づかなかった外界の動きに気づかされる機会が与えられたことに他なりません。この「外界の動き」とはある意味で空気の動きであり、それはまさに<風>であります。たとえ屋内であっても、クラヴィコードの周辺では<風>の存在を意識することができるんですよ〜 (`・ω・´)シャキーン

2019年1月 7日 (月)

中島みゆき 作詞/作曲『六花』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『六花』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

この『六花』は2000年『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』オリジナル曲。舞台では、完膚なきまでに打ちのめされた心を慰めるように降る雪の場面で主人公の女(谷山浩子)と犬(中島みゆき)によって唄われ、そして、翌2001年に発売されたアルバム『心守歌』に収録されています。ここでは『心守唄』バージョンで弾きました。

「雪は天から送られた手紙である」と遺したのは雪の結晶の研究で名高い物理学者の中谷宇吉郎博士(1900-1962)ですが、中島みゆきはこの言葉を手がかりとして雪と氷の不思議な世界を『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』で表現しようとしたとのこと。この『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』を再現した詩詞集のまえがきで、中島みゆきは

 天からの数限りない手紙を、一行なりとも端切れなりとも読み受けたいと願いながら
  私は繰り返し雪の湿原に立ちました


と記しています。前述のように『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』が上演されたのは2000年、詩詞集のまえがきにあるように<中谷博士が生まれてちょうど百年目の年の冬>であります。

 広い空の中には 罪もけがれもある
  広い空の中には 何もないわけじゃない
  広い空の上から さまよい降りて来る
  泣いて泣いてこごえた 六つの花びらの花


『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』の主人公の女(谷山浩子)は原野商法に引っかかり、不正をはたらいてまで貯めたお金を「あの人」と暮らすことを夢見ていた不動産の頭金として全て取られてしまいました。しかもその不動産は早晩底なし沼に沈む運命の物件であり、「あの人」とは姉の夫。『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』の終盤、姉からお腹に妊娠七ヶ月の赤ちゃんがいることを知らされ、<あの人と新しい時を刻む為に、居ない私になるんです・・・>と希望をもってこの原野の家に来て待っていた自分が気がつけば「あの人」の心の中にも居ない女になっていた・・・というまことに救いの無い状況で泣き崩れる主人公の女(谷山浩子)、それを慰めるように犬(中島みゆき)がこのように歌い始めます。

空から落ちてくる雪の結晶は、故中谷宇吉郎博士が述べたように、天から人間へのメッセージ。たとえそれが<>であっても<けがれ>であっても広く限りのない天からのメッセージであることには変わりがなく、あとは人間(=自分)がそのメッセージたちの何に気づくか、何を選ぶか、そして何をどう使うかの問題でありましょう。・・・それにしても<泣いて泣いてこごえた>メッセージなんですね〜(T_T)

 六花の雪よ 降り積もれよ
  すべてを包んで 降り積もれよ


雪国の方々は先刻ご承知、雪とは<すべてを包んで 降り積もる>もので、美しいよりも人間ごときの力ではどうすることもできない強大な相手なんですね。この強さはゆったりした雰囲気の曲調とは相容れぬように思えますが、実はこの雰囲気の曲調のようにしんしんと降り続く雪の中にこそ、恐るべき強さがひそんでいるのだと思います。『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』の主人公の女がわずかずつの横領を続けて四千万円を作り出して不動産の頭金にしてのけた強さ、これを象徴すると「雪の強さ」なのかも知れませんね。

思春期を帯広で過ごした中島みゆきですから、一晩中音も無く降り続けた雪で翌朝の景色が全く変わってしまう経験はごく普通のことだったでしょう。そして北海道の地吹雪の凄まじさたるや、雪が上からも横からも下からも吹きつけてくるんですよ〜。ワタクシ、実は何度かマトモに巻き込まれたことがありまして、それこそ自分の目の前に伸ばした腕が途中で白い闇の中に消えてしまうほどでした。そりゃ、地吹雪のときにうかつに戸外に出たら、通い慣れた道でも簡単に凍死しますぜよ。

 地吹雪から運ばれる積雪の量は、降ってくる量の100倍!『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』(2000年)槲の樹の言葉)

・・・そういえば、有名な「六花亭」は本社が帯広でしたっけ(・o・ゞ

 すさぶ大地の下で 花は眠っている
  吹きつける北風の 子守歌聴いている
  広い空の上では 手紙がつづられる
  透きとおる便箋は 六つの花びらの花


この一連、ホントに美しいですね〜。
強大な「雪」という存在に包まれ覆い隠されても、その雪が解ける春は必ずやってきます。春を迎えると雪は大地をうるおす恵みとなり(まぁ雪解けの頃の北海道のどろんこ具合ってハンパないのですがw)、なるほど、この意味でも「雪は天から送られた手紙である」ですよね。雪が敵となるか味方となるかは紙一重というか運命のいたずらというか裏表というか・・・まぁ、たまたまよ。たまたまw

氷雪の世界の限りなさに対して、中谷宇吉郎博士も中島みゆきもともに限りない畏敬の念を持っていますね。自然は偉大で美しく恐ろしく、そして身近な存在であります。

2018年12月 2日 (日)

中島みゆき 作詞/作曲『ピアニシモ』ソロ:モーツァルトの旅行用クラヴィコード(1763, J.A.Stein)の複製(2002年)で

本日(12/2)は不肖ワタクシの誕生日でございまして、まぁ、なんつ〜か、こんなヤツですみませんw。中島みゆきの『ピアニシモ』を、ワタクシの所有、かの神童モーツァルトが7歳のとき(1763年)に買ってもらったJ.A.シュタイン製の旅行用クラヴィコードの複製で弾きましたので、聴いていただけたら幸いにございます。m(._.)m

『ピアニシモ』は2012年のアルバム《常夜灯》の一曲。題名からして、クラヴィコードという極めて小さな音しか出せない楽器で弾くには最適な題材です。曲調も優しく親密で、主人公に対して謎掛けのように知らぬ世界を見せて去っていった「あの人」への暖かなあこがれがまことに美しく感じられます。

クラヴィコードはピアノ以前の鍵盤楽器のなかで最も大切とされていたフシがあり、現代では「独りで音楽の神さまと向き合う」ための楽器とみなされて過度に神聖化されていたりします。ですが、実は、そのような内なる世界は優しく親密な世界でもあるはずで、現代人にとって大切なのはむしろ後者の性格ですよね。なお、クラヴィコードの音量は非常に小さいので、背景のノイズが気にならない程度の音量に抑えて少〜し耳を澄ませて聴いてくださいませ(・o・ゞ

 あらん限りの大声を張りあげて  赤ん坊の私はわめいていた
  大きな声を張りあげることで  大人のあいだに入れると思った


ひとは誰しも大声で泣くしかできぬ赤ん坊として生まれ、少しずつ少〜しずついろんな表現や判断力を身につけていきます。それを一般的に「成長」と申しまして、大きな声を張りあげる以外の表現方法をいかに多く知っていたとしても、<大きな声を張りあげることで大人のあいだに入れる>としか思えない人は、俗に「未熟者」とか、まぁ他にもいろんな呼び方がされますね(^^;;

 だって歴史たちが示している
  シュプレヒコールもアジテイションもみんな
  わめかなければ届くものじゃない  がならなければ振り向きもされない


・・・とは言え、気づいてもらえなければ存在しないのと同じなのもまた確かでして。気づいてもらうためにデカい声を出して派手な主張を繰り広げる、という際限のない競争が繰り広げられているのがこの現代社会、いやむしろ人間社会なんつ〜のはその繰り返しなのでしょう。「大衆というものは、感心させるよりもびっくりさせる方がたやすい」とは、かのチェルニー先生もおっしゃっていること(・o・ゞ

 大きな声と同じ力で  ピアニシモで歌ってください

大きな声や派手な主張が幅をきかせやすい人間社会のなかでピアニシモで=極めて小さくナニかを伝えるのはおよそ不可能に思えますが、それだけに<大きな声と同じ力で>という表現が光ります。小さな声で大きな声と同じパワーを出しているように見せるには、実は大きな声を出すためのパワーよりはるかに強い意思の力が必要なのでありますからして。一見目立たない人の心のうちには実は強靭な意思が隠されているのかも知れませんし、実際にそのような人と出会った方も少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。ホレ、普段静かでめったに感情を表に出さない人が万が一怒りという感情を表に出したら、周囲はめっっっちゃめちゃビビりますよね〜w (((( ;゚Д゚)))

社会にはいろんな声の人がいていろんな伝え方の人がおりまして、自分が知らない声や伝え方を体験してそれらを参考にすることで、自分の想像力が豊かになります。それはひいては自分の人生を豊かにすることに他ならず、また、はっきり言ってしまうと角が立ちそうなときに婉曲な言い方をすることでいさかいを未然に回避する知恵を身につけることにもつながろうかと。「フォルテシモで歌う」とは「単刀直入に伝えること」で、「ピアニシモで歌う」とは「婉曲に伝えること」という読み方もできましょうか。

 それしか言わない  あの人は言わない
  戸惑った私は  あの人を憎んだ
  屈辱のようで腹を立てていた  仕返しのように小さく歌った
  言わんことじゃない  ほら案の定
  通行人は誰も振り向きもしない
  けれどその代りに私には  それから初めて聴こえたものがある
  今すれ違った  気弱な挨拶


「あの人」に<ピアニシモで歌ってください>とリクエストされた主人公はその意図を理解できず、それでも小さく歌ってみた結果、不思議なことが起きたようです。<今すれ違った><気弱な挨拶>は一般には伝える必要のない個人的な小さな動きに過ぎませんが、それに気づけたのは主人公にとっては驚きと言っても過言ではない心の変化だったことでしょう。主張ばかりをしていると周囲が目に入らなくなってしまいますが、この主人公も同じだったのかもしれませんね。

さて、この動画で使っているクラヴィコードという鍵盤楽器の音は極めて小さく、弾き手の注意力は自然に研ぎ澄まされます。それがために「独りで音楽の神さまと向き合う」楽器とされるのでしょうが、その向き合い方は求道者のごとく禁欲的な姿だけではございません。クラヴィコードを弾くと世の中がいかに多種多彩な音に満ちているかにはっとさせられますし、それはとりもなおさず、自分が今まで気づかなかった外界の動きに気づかされる機会が与えられたことに他なりません。この「外界の動き」とは『ピアニシモ』の歌詞では<今すれ違った  気弱な挨拶>であり、クラヴィコードの周辺では「神さまのしわざと思えるほどの世の中の多彩さ」なのでありま〜す。『ピアニシモ』をクラヴィコードで弾いてみることには本質的な意味wがあるのですぞ! (`・ω・´)シャキーン

2018年11月 7日 (水)

中島みゆき 作詞/作曲『狼になりたい』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『狼になりたい』を、いつもの1894年製アンティークベーゼンドルファーで弾きました。

この『狼になりたい』は1979年のアルバム『親愛なる者へ』所収、通人の間では名作の誉れ高い曲とされているそうです。この曲がきっかけとなって中島みゆきにハマった人も数多いとのこと、確かに身につまされるというか、人生なんて所詮こんなモンなのかなぁとか、あ〜も〜ど〜すりゃいいんだよ〜とか、まことに複雑な気持ちにさせられる歌詞なんですよね〜(・x・ゞ

この詩は情景描写なので部分抜粋するワケにも行かず、全文引用します。場末も場末、夜明け前の「吉野屋(吉野家ではないw)」のカウンターで、数人の登場人物が酔ってまどろみながらグダっています。およそ流行歌の題材になんぞなろうハズのない、まことに見苦しい情景ですねw そしてこのグダグダつぶやいている情景をピアノで弾くという暴挙!

 夜明け間際の吉野屋では 化粧のはげかけたシティ・ガールと
  ベイビィ・フェイスの狼たち 肘をついて眠る

  なんとかしようと思ってたのに こんな日に限って朝が早い
  兄ィ、俺の分はやく作れよ そいつよりこっちのが先だぜ

  買ったばかりのアロハは どしゃ降り雨で よれよれ
  まぁ いいさ この女の化粧も同じようなもんだ

   狼になりたい 狼になりたい ただ一度

  向かいの席のおやじ見苦しいね ひとりぼっちで見苦しいね
  ビールをくださいビールをください 胸がやける

  あんたも朝から忙しいんだろう がんばって稼ぎなよ
  昼間・俺たち会ったら お互いに「いらっしゃいませ」なんてな

  人形みたいでもいいよな 笑える奴はいいよな
  みんな、いいことしてやがんのにな いいことしてやがんのにな
                        ビールはまだか

   狼になりたい 狼になりたい ただ一度

  俺のナナハンで行けるのは 町でも海でもどこでも
  ねえ あんた 乗せてやろうか
  どこまでもどこまでもどこまでもどこまでも

   狼になりたい 狼になりたい ただ一度
   狼になりたい 狼になりたい ただ一度


特別な存在である「狼」に「なりたい」と願うばかりで実際のところはしょ〜もない行動しかできないのが圧倒的多数で、それこそが「大衆」なのでしょう。おそらく、誰しもチクリと胸に刺さる刺を何本も持っていることでしょう。いやワタクシも苦しいっす (´・ω・`)ショボーン

 <夜明け間際の吉野屋では・・・>

横でうつらうつらしている<シティ・ガール>を<なんとかしようと思ってた(送り狼ですなw)のに断念せざるを得なかったのでしょう。ナンパするためにアロハまで買った主人公(これぞ1970年代!)、そっか、どしゃ降り雨でそれどころじゃなかったのかも。あぁ(送り)狼になりたい(なんか違うw)

 <向かいの席のおやじ見苦しいね ひとりぼっちで見苦しいね
  ・・・>

グダグダきわまりない主人公、自分より下に見られる存在を見つけてさげすむほどの救いの無さ、そう、ここは場末のおそらく安牛丼屋。このあふれ出るみじめな生活感はいったいなんでしょ。そして「おやじ」はいつの世にもさげすまれる存在ですな。ほっとけっっっw

さて「狼になりたい」というささやかでグダった想いが次第に強くなって、最後の<俺のナナハンで>以降の一連は、全てが主人公の心の中の叫びでしょう。

おそらくこの主人公はナナハンなんぞ持てるハズはないでしょう。ですが、このような場末の一人の主人公にも夢はあるでしょうし、それは等しく尊重されねばならないかけがえのない夢なのです。世の中にはさまざまな人生があり、このようにおよそ歌の題材になんぞならぬような人生を送らざるを得ない人々も数多くまたいるんですよね。中島みゆきの詩に詠まれる主人公は、よくもまぁこんなにも、と思えるほど多種多様ですね。

2018年10月 7日 (日)

中島みゆき 作詞/作曲『愛から遠く離れて』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『愛から遠く離れて』を、いつもの1894年製アンティークベーゼンドルファーで弾きました。

この『愛から遠く離れて』は1998年の『夜会 VOL.10 海嘯』のために書き下ろされたオリジナル曲。夜会の舞台では中島みゆき扮する主人公が飛行機内で喀血して担ぎ込まれたハワイの結核療養所の場面の冒頭で唄われており、翌1999年のアルバム《月—WINGS》に最後の曲として収録されています。

海嘯(かいしょう)とは満潮時に海水が河を響きをともなってさかのぼる現象で、嘯く(うそぶく)という漢字は「吠える」「うなる」という意味を持っていることを考え併せると、およそ人間の力の及ばぬダイナミックかつ恐ろしい自然現象が想像できます。昔は津波のことも海嘯と言っていたそうですが、むべなるかな。なお、かの宮崎駿氏もコミック版『風の谷のナウシカ(1982〜)の中で王蟲の暴走のことを「大海嘯」と表しており、これまたなるほどな使い方ですね〜(・o・ゞ

『夜会 VOL.10 海嘯』は表面だけを見れば復讐を果たす寸前で果たせず自らの命をも失う、という普通の悲劇wなのですが、曲目には『夢を叶えて』『夢の代わりに』『叶わぬ夢』という3曲。最初に唄われるのが『夢を叶えて』ですが、この詩、のっけから飛ばしてますぞ。

 夢を叶えるまでに失くすものはいくつ
  夢を叶えるまでに奪うものはいくつ
  幸せな隣人のやり方を見習おう
  明日にはその席に誰が上手く座るだろう
  世界は椅子獲りゲームさ
  夢を叶えていつか違う明日へ行こう
  夢を叶えていつか違う席に着こう
『夢を叶えて』1998年)

「夢」の真実は他人を押しのけてその席に座ることで、自他ともに多大な犠牲を伴うもの・・・という恐るべき観点にはそう簡単にはたどり着けないでしょう。ですが『夜会 VOL.10 海嘯』の主人公の夢は復讐ですから、この観点が明白となります。復讐とは、本人以外にとっては「叶えて欲しくない夢」であり、本人にとっては「どのような犠牲を払ってでも叶えねばならぬ夢」。その過程で起こる大きな犠牲や軋轢を比喩として俯瞰的に捉えたのが、山が動く・・・ではなく海が動く『海嘯』というタイトルなのでしょうか。言わずもがなですが、海全体が動いて襲いかかってくる恐ろしさは、2011年3月11日の東日本大震災での大津波の映像を目の当たりにしてしまった我々には忘れようにも忘れられないところですね。

中島みゆきのライフワークたる「夜会」ですから、ただならぬ重層的なメッセージ性を備えているのは当然のこと。それなのにこの『愛から遠く離れて』の音楽、復讐があと少しで成就できると確信したときに機内で喀血して意識が戻った設定の第二幕の口開けにしては、妙な穏やかさというか諦念というか、緊迫感とは無縁の世界をかもし出しているように感じられます。死の淵をかいま見た主人公は、復讐の成就ばかりに多大な犠牲を払ってきた己の人生にフト疑問を感じたのでしょうか・・・

 愛から遥か遠く離れて生きる時は
  時計を海に捨てに行こう 永遠のリフレインに


このフレーズが5回登場します。題名にもなっている<愛から遠く離れて>に至っては7回。<>と<永遠>を関連づけて執拗に繰り返すことは凡百の作品でとっくにヤリ尽されているでしょうが、時計>といういわば永遠の時を区切る存在を織り込んでくるところがキラリと光ります。永遠の時を区切る存在を永遠の象徴たる海に捨てるのですから、主人公は過去の自分との決別だけでなく、自分自身を永遠の海に投げ出しているのです。<永遠のリフレイン>とは変化の無いこと、すはなち愛/夢の実現のために犠牲を払わなくなること、それは彼岸の地でしょう。

 一番好きな服を着て
  一番好きな私でいよう
  いつか或る日思いがけず船が出るかもしれないから


『夜会VOL.10 海嘯』のために書き下ろされた曲でなければ、この一節は<愛から遠く離れて>しまっても愛/夢の成就のために<一番好きな私でいよう>・・・というポジティブな解釈になるのが当然でしょうが、ここでの解釈は死出の旅への船出でしょう。しかも主人公はこの船出を一種の期待を持って静かに待っているのかも知れません。

 一番好きな人がいた
  一番好きな私がいた
  いつか全ての思い出が遥かな海へと変わるから


自分の過去の全てが永遠の<海へと変わる>・・・やはり彼岸の地の象徴であります。『夜会 VOL.10 海嘯』で主人公は復讐を果たせず津波に呑まれて命を落としますが、なんとそのタイミングで主人公が結核療養所で出会った身重の女性が出産します。この身重の女性と主人公の母とは名前が一緒であり主人公もまた結核療養所に産み落とされたことを勘案するに、ここで主人公の「転生/リセット」が行われたという解釈ができようかと思います。主人公は復讐をしなければならぬ生い立ちから死をもって解放されて、これから真の己の人生を歩めるのではないでしょうか。やはり中島みゆきが頻繁に投げかける「自らの生を自ら生き抜け!」というメッセージにつながったようです (`・ω・´)シャキーン

中島みゆきは『肩に降る雨』で、魂の死と再生を何度でも繰り返せ! と唄いました。中島みゆきの楽曲からはどのような形を取ろうとも生き続けろ! というメッセージを強く感じさせられることが少なくありませんが、『夜会 VOL.10 海嘯』ではさらに二歩も三歩も進めて「転生」という肉体の死と再生までに行き着いてしまった感があります。毎年開催していた「夜会」はこの第10回で一区切り、あとはおよそ2年ごとの開催になりましたが、この区切りの回ではここまでイッちまったのですね (((( ;゚Д゚)))

 肩に降る雨の冷たさは生きろと叫ぶ誰かの声
  肩に降る雨の冷たさは生きたいと迷う自分の声
『肩に降る雨』1985年)

・・・と思いきや、デビュー直後の『時代』にはこんな一節が!

 まわるまわるよ 時代はまわる
  別れと出会いをくり返し
  今日は倒れた旅人たちも 生まれ変って歩きだすよ
『時代』1975年)

2018年9月 7日 (金)

中島みゆき 作詞/作曲『36時間』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『36時間』を、いつもの1894年製アンティークベーゼンドルファーで弾きました。

この『36時間』は2015年のアルバム《組曲(Suite)》のトップを飾る曲ですが、キャッチーな曲調とは無縁なまことに穏やかな曲。ですが、出だしの<1日は36時間と決めたんです>という歌詞が実にキャッチーですわ。

 <出来ることが まだ間にあう し残したことが まだ間にあう

ここまでは「生き急ぐな」という万人に通ずるごく普通の指摘、ナニもいまさら中島みゆきが詠むまでもない、とっくに言い古されている歌詞に過ぎない・・・のですが・・・

 <ゆっくりゆっくり 悲しみは癒えるだろう
  大切に大切に 愛する人と歩くだろう
  おそるおそる 人は変わってゆけるだろう


このように「大切な人との時間そして関係をじっくり紡ぐこと」に意識を向けさせられるのが、やはり中島みゆきの歌詞でありま〜す。時を経ても変わらぬ関係は存在し得ないとは言え、それぞれがたとえゆっくりとでも、否、むしろ時間を充分にかけて修正し続けることこそが人生を生き続けることに他ならないのでしょう。ここで思い出させられるのが『慕情』の出だし。『慕情』《組曲(Suite)》の次のアルバム《相聞》のラストに入っていることと無関係ではなさそうな(・o・ゞ

 <愛より急ぐものが どこにあったのだろう
  愛を後回しにして何を急いだのだろう
『慕情』2017年)

確かに人生にはやらなきゃならんことがあふれていますが、自分の生についてしっかりと考えている人にとって、本当に心を注ぐべきは<愛>なんですよね。日々の些事にかまけてしまうことは本当に心を注ぐべき対象を見失うことに他ならず、それを見失ってしまったら心を失って自分が自分でなくなってしまいます。これこそが「生き急ぐこと」の恐ろしさなのではないでしょうか。

 <追いつめられた心たちよ 36時間に来ませんか

とは言え、現代社会を生きていれば生き急がぬ余裕なんぞ誰もが持てるハズもなく、心が追いつめられてしまっている方も少なからずでしょう。中島みゆきの慈愛に満ちたまなざし、まことに心に染みます。世の中の人すべての心に、少しでも余裕が生み出されますように。

 <1日の中に1年を詰め込む
  急ぎすぎる日々が欲望を蝕む
  隙も見せられない警戒の夜が
  いつか涙さえも孤立させてゆく
『泣いてもいいんだよ』2014年/唄:ももいろクローバーZ)

それにしても、慈愛に満ちたまなざしを見せるかと思えば『36時間』発表の前年にこんな歌詞を現代の忙しさそして生き急ぎの象徴たるアイドルグループに歌わせる中島みゆきって、辛辣なのか挑戦なのか揶揄なのか、いやはや、もう笑っちまいますね〜ヽ( ̄▽ ̄)ノ

2018年8月 7日 (火)

中島みゆき 作詞/作曲『I love him』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『I love him』をアンティークピアノで弾きました。この『I love him』は1991年にシアターコクーンにて20公演行われた『夜会VOL.3 KAN(邯鄲)TAN』のラストを飾った、13分に及ぶ大曲です。『I love him』は1995年のアルバム《10 WINGS》にも収録されていますが、全く異なるアレンジになっています。「夜会」ファンにはこの『夜会VOL.3 KAN(邯鄲)TAN』のアレンジも根強い人気だそうで、ワタクシもこっちが好みでありま〜す(・o・ゞ

「夜会」とは、コンサートでもなく、演劇でもなく、ミュージカルでもない「言葉の実験劇場」をコンセプトとして1989年に開始した舞台で、言葉の使い手である中島みゆきにとってライフワークとも言えましょう。中島みゆきはこの『夜会VOL.3 KAN(邯鄲)TAN』で中国の故事「邯鄲の夢」をテーマに、ある女性が夢の中で見た少女から老婆になるまでに至る一生を演じました。そのラストの曲が『I love him』であり、まさに邯鄲の<長い夢のあと>の<本当の願い>を高らかに唄い上げています。

 <それならば私は何も失わずに生きてゆけた
  でも何か忘れたことがある
  でも誰も愛したことがない
  それで生きたことになるの?
  それで生きたことになるの?
  長い夢のあと 本当の願いが胸の中 目を醒ます


「邯鄲の夢」は国語辞典などの記述に見るように「栄枯盛衰のはかないことのたとえ」とされるのが一般的なようですが、実はワタクシ昔っからそれには疑問をいだいておりまして。そして中島みゆきもまた、この『夜会VOL.3 KAN(邯鄲)TAN』で真意はそんな意味にとどまらないと伝えているように思えます。「己の人生にとっての<本当の願い>の前では、人生の栄華なんてはかなく表面的なもの。大切なのは己の生き方こそではないか?」というのが「邯鄲の夢」の問いかけでしょ・・・というメッセージを感じるんですね〜 (`・ω・´)シャキーン
・・・まぁ辞書などでは説明するのがヤヤこしいから「栄枯盛衰のはかないことのたとえ」という表現にせざるを得ないのかなぁ、とも思いますけど(・x・ゞ

「邯鄲の夢」の話として知られるのは、沈既濟(c.750 - c.800)によって中国唐代に書かれた『枕中記』という伝奇小説です。原文はこちらから:https://zh.wikisource.org/wiki/枕中記

神仙の術を心得た呂翁(りょおう)という道士が邯鄲への街道を行く途中、畑仕事に行くところだった地元の若者盧生(ろせい)と出会うところから『枕中記』は始まります。ここで盧生は呂翁にまだ田畑で働いている不遇の身をかこち、およそ男子に生まれたからには立身出世そして栄耀栄華が夢であるのにつらい・・・とこぼします。呂翁が、見たところ病気もしていないし問題なんてなさそうなのにつらいとは? と問うと・・・

生曰:“吾此苟生耳,何適之謂。” 翁曰:“此不謂適,而何謂適。”

生(=盧生)曰く、「吾は此れ苟(いやし)くも生くるのみ。何の適とか之れ謂わん」と。翁(=呂翁)曰く、「此れを適と謂わずして、何をか適と謂わんや」と。

ここで、呂翁は盧生の願う人生が<>であるかどうかを夢の中で体験させます。それは栄枯盛衰浮き沈みが激しく、結局は栄耀栄華を極めて齢80を超えて大往生・・・という人生でした。夢の前の導入部分、この小説が<>とは何かという話だよ、と示しているのではないでしょうか。そして夢のあとの終結部、まことに簡潔にスパッと終わらせていて小気味よいです。

盧生欠伸而悟,見其身方偃於邸舍,呂翁坐其傍,主人蒸黍未熟,觸類如故。生蹶然而興,曰:“豈其夢寐也。” 翁謂生曰:“人生之適,亦如是矣。” 生憮然良久,謝曰:“夫寵辱之道,窮達之運,得喪之理,死生之情,盡知之矣。 此先生所以窒吾欲也。敢不受教。” 稽首再拜而去。

盧生は欠伸して悟(さ)め、其の身の方(まさ)に邸舎に偃(ふ)し、呂翁は其の傍らに坐し、主人は黍を蒸して未だ熟せず、類に觸(触)るるに故(もと)の如きを見る。生(=盧生)は蹶然(けつぜん)として興(お)きて曰く、「豈(あ)に其れ夢寐(むび)なるか」と。翁(=呂翁)は生(=盧生)に謂いて曰く、「人生の適も亦た是くの如し」と。生(=盧生)は憮然たること良(やや)久しくして、謝して曰く、「夫れ寵辱の道、窮達の運、得喪の理、死生の情は、尽く之を知れり。此れ先生の吾が欲を窒(ふさ)ぐ所以なり。敢て教えを受けざらんや」と。稽首(けいしゅ)再拝して去りぬ。

呂翁が盧生に<人生の適も亦た是くの如し>と語るところ、人間の欲とは限りのないもので、その欲望をかなえていくことが本当に貴方にとっての<人生の適>であるのか、という問いかけでしょう。<生(=盧生)は憮然たること良(やや)久しくして>・・・この「憮然」は現代日本人が考える意味ではなく「茫然とする」ぐらいの意味、茫然としばらく考えて盧生はハタと悟るところがあったのでしょう。<此れ先生の吾が欲を窒(ふさ)ぐ所以なり>。人生において欲望を抱くのは避けられないことですが、それを制御できなければ結局は不幸なことになってしまうのはご存知の通り。すなはち、欲望を抑制することなしには<人生の適>にはたどり着き得ないのでした。『枕中記』は「<人生の適>とは何ぞや?」と問いかけて、この主題を伝えようとしているのだと思うんですね〜。

・・・さて『I love him』の歌詞にまいりましょう。

 <夢見続けた願いはいつも 愛されること愛してもらうこと
  それが人生の幸せだって いつも信じてた
  信じて待った 待って夢見た


人生の適」=<夢見続けた願い>をどこに求めるか・・・はそれぞれの価値観と直結するのでいちがいには決められませんが、このように自ら動かず欲して待つだけの人生に対して、中島みゆきは<それで生きたことになるの?>と突っ込みます。なかなかの破壊力ではないでしょうか。

 <与えられる愛を待つだけならば
  もらいそこねても悪くてもゼロ マイナスはない


まことに明〜快な損得勘定wで、さすがは中島みゆきの詩。傷つく怖れから自ら動くことを止めることもそれはそれで人生ではありましょうが、しかしやはりこのあとに<それで生きたことになるの?>と突きつけられます(^^;;;;;

 <I love him I love him I love him I love him
  I love him I love him 返される愛は無くても


返される愛は無くても>という表現が、いかにも中島みゆきらしくエラく切ないですね。損得勘定なんぞ抜きに自ら考え判断し行動してこその己の人生。中島みゆきは『枕中記』が投げかける「人生の適とは何ぞや?」という問いかけを踏まえたうえで、たとえ傷つこうとも自らの心の叫びに気づき自らの生を自ら生き抜け!・・・というメッセージを伝えているのではないでしょうか。実はこのメッセージ、中島みゆきの大きなテーマの一つなんですぞ。

 <ファイト!   闘う君の唄を
  闘わない奴等が笑うだろう
  ファイト!   冷たい水の中を
  ふるえながらのぼってゆけ
『ファイト!』1983年)

 <くり返す哀しみを照らす 灯をかざせ
  君にも僕にも すべての人にも
  命に付く名前を「心」と呼ぶ
  名もなき君にも 名もなき僕にも
『命の別名』1998年)

 <その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
  おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな
『宙船(そらふね)』2006年)

 <がんばってから死にたいな  がんばってから死にたいな
  這いあがれ這いあがれと  自分を呼びながら 呼びながら
『重き荷を負いて』2006年)

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