フォト

カテゴリー

カテゴリー「音楽>YouTube」の219件の記事

2019年5月14日 (火)

モンポウの『風景/Paisajes』から第一曲「泉と鐘/La fuonte y campana」を、バッハアカデミー(大宮公園)の1927年製ベヒシュタインL型(165cm)で

大宮公園の「バッハアカデミー」主宰の 山田康弘 氏が「ドミソを弾いただけで惚れ込んだ」・・・という、まさに運命的な出会いをした1927年製のベヒシュタインL型(165cm)を使って、モンポウの『風景/Paisajes』から第一曲「泉と鐘/La fuonte y campana」を弾きました。
・バッハアカデミー:http://www002.upp.so-net.ne.jp/bach/

・・・ベヒシュタインを弾きに行ったのに写真を撮り忘れて 小山屋の取材報告 になってしまったこともあり、動画収録をイイことにソッコー再襲撃してその足で 西川口で本格中華を食したw、というのはココだけのハナシ ヽ( ̄▽ ̄)ノ

つくづく思いますが、楽器って新しい古いに関わらず「出会った必然」を耳にすることが少なくなく、なんだかわからないですが「単なるモノ」ではない存在なんですよね〜。まぁ現代の工場で作るような楽器に比べれば、古い楽器の方が作り手が込める手の力そして意思の力ははるかに強かったであろうことは容易に想像できますし、古い楽器の方が「いろんな運命」を感じることが多いような気もしますが、電子楽器の周りであっても「出会いの感動」はちゃぁんと存在しているようです。

このベヒシュタインL型がバッハアカデミーにやってきたのは2018年4月だそうで、1年を経て空気にもなじんできたことでしょう、光栄にも動画を録らせていただけました。古いベヒシュタインですが古臭い音色ではなく、現代的に平板になりやすい(おっとw)わけでもない、という素晴らしい楽器です。ですが・・・それはとりもなおさず、まことに「教育的」な楽器である ということでもありまして、変な凸凹を作らず、かつさまざまな声部を弾き分け整理できるように心がけて一曲を弾くのは、なんとも大変なことでした。いやはや、止められませんわ〜 (`・ω・´)

2019年5月 7日 (火)

中島みゆき 作詞/作曲『誰のせいでもない雨が』ソロ:モーツァルトの旅行用クラヴィコード(1763, J.A.Stein)の複製(2002年)で

中島みゆきの『誰のせいでもない雨が』を、かの神童モーツァルトが7歳のとき(1763年)に買ってもらったJ.A.シュタイン製の旅行用クラヴィコードの複製で弾きました。ん? 歴史的楽器で現代の音楽を弾く必然性? 別に全っ然ございませんがナニか? ( ̄ー ̄)

クラヴィコードはピアノ以前の鍵盤楽器のなかで最も大切とされていたフシがあり、現代古楽器w周辺では「独りで音楽の神さまと向き合う」ための楽器とみなされて過度に神聖化wされていたりします。ですが、実は、そのような内なる世界は優しく親密な世界でもあるはずで、現代人にとって大切なのはむしろ後者の性格ですよね。なお、クラヴィコードの音量は世人の想像を超えて小さいですから、背景のノイズが気にならない程度の音量に抑えたうえで少〜し耳を澄ませてくださいませ。聴こえてきますよ〜(・o・ゞ

『誰のせいでもない雨が』は1983年のアルバム《予感》のB面最初に置かれた一曲。この全編に漂うなんとも寂しく悲しく孤独で切なくうすら寒い雰囲気と間奏部分のエレキギターの泣きったら、どうしてくれましょう。まぁ、そりゃ、雨が降ったらどんなに防護しても必ずどこかは濡れるwモノで、このときのなんとも言えぬ微妙な感覚って独特ですよね。難しいことを簡単な言葉で表現できてこその、一流の表現者でありま〜す。・・・まぁ単なる比喩の積み重ねなんですけどw

人の数ほど唯一無二の人生があります(これも中島みゆきのテーマの一つですね)が、<誰のせいでもない>というのは、とどのつまりはどうあがいても抗えない「決まりごと」であって、散るか諦めるか以外の選択肢はないのでしょう。だからこそ、その裏には言いようのない強烈な悲しみそして怒りその他もろもろ複雑な情緒が人の数ほど込められることになります。
そう思うと、この↓出だしって、むちゃくちゃ強烈と思いません?

 誰のせいでもない雨が降っている
  しかたのない雨が降っている

この詩の難解さは並みいる評論家諸氏の腕を鳴らすようですが、どうやらほぼ「学生運動の挫折と当事者の悲哀」という観点に基づく解釈で一致しているようです。・・・ですが、せっかく難解に詠まれた詩なのにそんなに直接的一意的に結論づけてしまってはもったいないと思いませんこと? 結論づけて「わかって」しまうと、下手するとそれ以上味わえなくなるかも知れないですぜ(・o・ゞ

 怒りもて石を握った指先は
  眠れる赤子をあやし抱き
  怒りもて罪を穿った唇は
  時の褥に愛を呼ぶ

東大紛争は1968〜1969年のこと、そして連合赤軍事件の数々は1971〜1972年のこと。中島みゆきは1952年生まれでデビューは1975年ですが、さまざまなコンテストに出場して「コンテスト荒らし」の異名をとっていたのはその少し前の学生時代、同世代が武装闘争で新聞紙上をにぎわせているときに中島みゆき(当時は本名の中島美雪ですな)は音楽で闘争していたのでありました。まぁここまで直接的に表現されれば、関連がないと見なす方に問題があるでしょうw

この『誰のせいでもない雨が』は、1983年発表の《予感》収録。このタイミングは武装闘争の闘士として(念のため賛否は表明しませんよ)活動していた二十台半ばの若者たちにとって干支が一回りして四十の声を聞くタイミング、そしてバブル経済前夜で社会全体がそんな時代を忘れかけていたタイミングなのだろうなぁと。当事者たちに限らず、己がアツかった青春時代を呼び覚ますような詩であったと同時に「あぁ、あいつらも四十に近づいているんだよなぁ」とも思われたでしょうね。「四十而不惑」は『論語』の一節。うぅぅむ。

 黒い枝の先ぽつりぽつり血のように
  りんごが自分の重さで落ちてゆく

人間稼業を重ねて来れば背負うものもまた重なり重くなってくるものでございまして、一人二人と血の涙を流しながら脱落(と言うのもいささかモンダイかも知れませんが(^^;)して社会に飲み込まれざるを得ないもの。ですが中島みゆきは前の年、こうも詠っています。己の業を忘れないことが良いのか、忘れちまうことが良いのか、人により時と場合により、そして都合にwよりますな。まぁそんなモンでしょうて ヽ( ̄▽ ̄)ノ

 としをとるのはステキなことです そうじゃないですか
  忘れっぽいのはステキなことです そうじゃないですか
  悲しい記憶の数ばかり
  飽和の量より増えたなら
  忘れるよりほかないじゃありませんか『傾斜』1982年)

詩的文学的な表現は多様な解釈を可能とさせることで逆に真意をおぼろげながら浮かび上がらせる、という側面があると思うのですが、それは比喩だったり抽象化だったりのレトリックのなせる技。そこにいきなり投下される<滝川と後藤>という人名にはびっくりさせられます。しかも<帰らなかったってね>ですから、全くもっておだやかぢゃございませんで、やはり投獄された闘士たちを思い起こさせられずにはいられませんが、主人公たちと違う世界に袂を分かったのかも知れませんし、はたまた冷たい水の底という怪釈もできなくはなさそうで(ちょっとヤバいかな(^^;)

 きのう滝川と後藤が帰らなかったってね
  今ごろ遠かろうね寒かろうね
  誰かあたしのあの人を救けてよと
  (はだし)の女が雨に泣く

とは言え、この詩は「学生運動の挫折と当事者の悲哀」を詠ったもの、と小さくまとめてしまうにはチト惜しいと思います。あくまでも「学生運動の挫折と当事者の悲哀」は主要題材に過ぎず、誰しも社会的生活を送っている限りは必ず直面するであろう「理想と現実とのはざまでの葛藤」の方を詠んでいるとしたいワタクシでありま〜す。

 もう誰一人気にしてないよね
  早く 月日すべての悲しみを癒せ
  月日すべての悲しみを癒せ

このフレーズがサビとして繰り返されますが、なんという痛切なメッセージでしょう。悲しみを癒せ>と叫んでいるのですから、主人公にとって<悲しみ>は月日の力をもってしてもいまだ癒されていないのです。それなのに現実世界では<もう誰一人気にしてない>という不条理。生きることとは不条理を受け入れることだとも思いますが、この<悲しみ>は底知れず深く冷たい。しかもそれが<誰のせいでもない>という表現によって、強烈な光を放ちます。なるほど、レコードのB面のトップに置かれるべくして置かれた一曲なんでしょうね。

2019年4月29日 (月)

グリーグ『抒情小品集』から「フランス風セレナード op.62-3」を、バッハアカデミー(大宮公園)の1927年製ベヒシュタインL型(165cm)で

大宮公園の「バッハアカデミー」主宰の 山田康弘 氏が「ドミソを弾いただけで惚れ込んだ」・・・という、まさに運命的な出会いをした1927年製のベヒシュタインL型(165cm)を使って、グリーグの『抒情小品集』から「フランス風セレナーデ op.62-3」を弾きました。
・バッハアカデミー:http://www002.upp.so-net.ne.jp/bach/

・・・ベヒシュタインを弾きに行ったのに写真を撮り忘れて 小山屋の取材報告 になってしまったこともあり、動画収録をイイことにソッコー再襲撃してその足で 西川口で本格中華を食したw、というのはココだけのハナシ ヽ( ̄▽ ̄)ノ

つくづく思いますが、楽器って新しい古いに関わらず「出会った必然」を耳にすることが少なくなく、なんだかわからないですが「単なるモノ」ではない存在なんですよね〜。まぁ現代の工場で作るような楽器に比べれば、古い楽器の方が作り手が込める手の力そして意思の力ははるかに強かったであろうことは容易に想像できますし、古い楽器の方が「いろんな運命」を感じることが多いような気もしますが、電子楽器の周りであっても「出会いの感動」はちゃぁんと存在しているようです。

このベヒシュタインL型がバッハアカデミーにやってきたのは2018年4月だそうで、1年を経て空気にもなじんできたことでしょう、光栄にも動画を録らせていただけました。古いベヒシュタインですが古臭い音色ではなく、現代的に平板になりやすい(おっとw)わけでもない、という素晴らしい楽器です。ですが・・・それはとりもなおさず、まことに「教育的」な楽器である ということでもありまして、変な凸凹を作らず、かつさまざまな声部を弾き分け整理できるように心がけて一曲を弾くのは、なんとも大変なことでした。いやはや、止められませんわ〜 (`・ω・´)

2019年4月 7日 (日)

中島みゆき 作詞/作曲『グッバイ ガール』ソロ:モーツァルトの旅行用クラヴィコード(1763, J.A.Stein)の複製(2002年)で

中島みゆきの『グッバイ ガール』を、かの神童モーツァルトが7歳のとき(1763年)に買ってもらったJ.A.シュタイン製の旅行用クラヴィコードの複製で弾きました。ん? 歴史的楽器で現代の音楽を弾く必然性? 別に全っ然ございませんがナニか? ( ̄ー ̄)

『グッバイ ガール』は1988年のアルバム《グッバイ ガール》の収録曲と思うのが当然でしょうが、なんとまぁ、このアルバムには入っていないどころかこの『グッバイ ガール』の発売は1989年のシングル盤のみ、しかも2曲めとしてリリースされているというオチ。なのでこの「曲」をWebで検索するのは案外と面倒なのですが、中島みゆきにはもっと手強い相手がおりまして。《グッバイ ガール》と同じ1988年に《中島みゆき》というアルバムを発売していやがって、なんとまぁ検索しづらいことw

・・・閑話休題、クラヴィコードはピアノ以前の鍵盤楽器のなかで最も大切とされていたフシがあり、現代古楽器周辺では「独りで音楽の神さまと向き合う」ための楽器とみなされて過度に神聖化wされていたりします。ですが、実は、そのような内なる世界は優しく親密な世界でもあるはずで、現代人にとって大切なのはむしろ後者の性格ですよね。なお、クラヴィコードの音量は世人の想像を超えて小さいですから、背景のノイズが気にならない程度の音量に抑えたうえで少〜し耳を澄ませてくださいませ。聴こえてきますよ〜(・o・ゞ

 グッバイガール 何とでも 私のことを
  他人は語るがいいさ
  グッバイガール はじめから さよなら目当て
  そんなふうに 語るがいいさ


中島みゆきは「失恋歌の女王」とまで称されますし事実その通りだと思いますが、最初っっっから<さよなら目当て>と言われる主人公が登場するこの曲は、のっけからなかなかシビれますわな。「ふられぐせ」がついてしまったがごとき主人公ですが、今回ばかりは未練たっぷりで大変なようです。

 あの人は恋 私には恋
  誰も信じなくても だけど
  あの人は恋 私には恋
  あの人も信じないけど


この<あの人も信じないけど>が、ホントに切ないですね〜。主人公は自虐的になっているようなそぶりこそ見せて自分をも欺こうとしているようですが、この切なさはそれを突き抜けて心に刺さります。

 あの人は恋 私には恋
  いつでも忘れがたい だけど
  あの人は言う 街角で言う
  別れやすい奴だってさ


主人公が切々と恋いこがれているのに<あの人>と言ったら、まっっったくも〜。ですが、恋愛に限らずですが、強く強く想えば想うほど案外と自分一人で盛り上がってしまっていてナニも伝えられていないことが少なくない・・・と思いませんか? 態度に出しているつもりで全っ然出せていなかったとか、言葉に出したつもりなのに婉曲に過ぎてポカ〜ンとされちまうとか (´・ω・`)

 汚れてゆく雪のようです 女たちの心は
  汚れながら春になります 不埒でしょうか


もろもろのモヤモヤを吹き飛ばすような、締めくくりのこの二行。美しいだけでない、このナンとも言い難い雰囲気は一体どうしたことでしょうか。雪国で春が近づいて雪が溶け始めたときの凄まじい泥んこぐあいは札幌生まれ帯広育ちの中島みゆきですからイヤというほど経験しているわけで、そのような悲惨な泥んこぐあいがなければ<>は訪れない、と強く刷り込まれていることでしょう。中島みゆきにしては解りやすい比喩ではありますが、<汚れながら春になります>という表現ができるかどうかとはまた別なモンダイですね。まことに美しい表現でありますが・・・いやいや、泥んこで凄まじい汚れっぷりなんですけどw

さて、この動画で使っているクラヴィコードという鍵盤楽器の音は極めて小さく、弾き手の注意力は自然に研ぎ澄まされます。それがために「独りで音楽の神さまと向き合う」楽器とされるのでしょうが、その向き合い方は求道者のごとく禁欲的な姿だけではございません。クラヴィコードを弾くと世の中がいかに多種多彩な音に満ちているかにはっとさせられますし、それはとりもなおさず、自分が今まで気づかなかった外界の動きに気づかされる機会が与えられたことに他なりません。神さまとは実は身近な存在で、どれくらい身近かというと、自分の感性の中におはしまするぞ (`・ω・´)シャキーン

2019年4月 2日 (火)

ポンセ『間奏曲第1番』を1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

メキシコの作曲家、ポンセ(1882-1948)の「間奏曲第1番」を、ポンセが生きていた時代の1894年ベーゼンドルファー製のピアノで弾きました。ベーゼンドルファーはメキシコではなくウィーンのピアノですが、まぁそこはご堪忍(・o・ゞ

ポンセはメキシコに生まれて幼くして大変な才能を発揮、メキシコからヨーロッパに一度ならず二度までも出向いて研鑽を積んだという、メキシコの西洋的調性音楽のいわば斬り込み隊長的な存在です。とりわけ有名なのは作詞も自身で行ったという「エストレリータ」でしょうね。

ポンセの作品の作曲年はあまり明確ではなく紛失してしまった作品も少なくないようですが、この「間奏曲第1番」は1909年ごろの作曲とされています。1905年に初めてヨーロッパに渡って1907年にメキシコに戻ってから作曲された作品で、物憂げでいながら悩ましい、といういかにもラテンな曲調はもっともっと人気が出てしかるべき曲ではないでしょうか。まぁどこにでもありそうなラテンなノリの軽〜い曲、という見方もできなくもないwかも知れませんが、それはそれで人気が出るために大切な要素の一つですよね〜。

2019年3月 7日 (木)

中島みゆき 作詞/作曲『彼女によろしく』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『彼女によろしく』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

この『彼女によろしく』は1984年に発売されたアルバム《はじめまして》のA面ラスト。あ、念のため、LPレコードは基本的に裏表に音溝が刻まれていて、A面B面(または1面2面)と表示されていたのですぞ。CDの出始めのころ、さすがCDってA面だけでも長いな〜と思いながら無意識にひっくり返して再生ボタンを押そうとしてもナニも起こらなかった・・・という笑い話はワリと普通にございましたでした。CDプレーヤー壊れないでヨかったネ(・o・ゞ

 あと幾日生きられるか 生命線に尋ねてみても
  昨日死んだ若い人の掌は長生き示してた


失恋ソングの女王wこと中島みゆきのA面ラストとしての面目躍如なこの曲ですが、『彼女によろしく』という題名の詩にして、なかなかの刺激的な唄い出しですねぃ。この『彼女によろしく』は、曲調こそ穏やかで淡々と寂しさを語る雰囲気ですが、詩に触れてみるとちょ〜っとアブない気にさせられます。主人公は男や相手の女に対しては恨みも憎しみも呪いも口に出さないのですが、だからこそ秘められた情感が強烈に迫ってくるのでしょうか。しかもこの唄い出しに続けて・・・

 明日が見えなくて良かったわ
  だからあなた信じられたもの


このつながりで、この詩が俄然恐ろしく感じられます。この一節を皮肉だと感じられるのは逆にまことに喜ばしく、幸せな人生を送ってきた方なんだろうなぁ・・・と。この詩では相手を失ったことで主人公は死んだも同然になってしまったのではないでしょうか。「信じる心」は生きるための原動力としてなにものにも勝りますが、当の信じてきた対象を失ってしまえばその痛手もまたはかりしれないものになってしまいます故。ですが、曲調はいきなりここで虚無感を漂わせる短調から前向きに変わりはじめ、<信じられたもの>の一言で劇的に長調に変貌します。

 時計は二度と回らない
  God bless you 彼女によろしく


二度と回らない時計>という「存在として死んでしまっているナニかの象徴」を使って主人公と相手との関係を示すのは、まぁ常套手段と言えましょう。それにしても、ここの転調はごく古典的で普通な転調であるのに、妙〜に明るく劇的な印象を与えてくれますね〜。この『彼女によろしく』は地味なようでかなり印象に残りやすいらしく、それもまぁ必然なのでしょう。

さて、ココであらためて<God bless you>を辞書で牽いてみると・・・実はコレが祝福の意味になるのは、ご好意を受けたときに「神のご加護があらんことを」と返すときだったんですね〜。イヤ知らなかった、すんません。そりゃ〜<God bless you>と唄っておきながら、主人公ってば祝福する気なんぞさらさらないと読めるのは当〜然でしたワw

 仕事をしていて良かったわ
  愛どころじゃないふりができる


中島みゆきの詩にわりと登場する「強がる女」ですね〜。そういえば、1988年のアルバム《中島みゆき》所収の『御機嫌如何』には、

 なさけないものですね あなたを忘れました
  女は意外と 立ちなおれるものなのでしょう
『御機嫌如何』1988年)

という一節があります。『御機嫌如何』では過ぎた恋を忘れた「私」をことさらに強調しますが、曲の締めくくりではまぁお約束、

 涙で 濡らした 切手を最後に貼ります『御機嫌如何』1988年)

・・・さて、こちら『彼女によろしく』の最終節。

 私が彼女にみえるほど
  酔った時だけ言えたね愛を


酒に酔ったときって意外とホンネがこぼれ出るものですが、はて、相手が酔ったのは酒だったのでしょうか。主人公に酔って彼女に見えりゃ、そりゃ愛を語りますでしょ〜。ひょっとしたら相手が本当に愛しているのは主人公なのかも知れませんね。心の底のホントのところでは<私>=主人公のことが好きなくせに、と主人公は言いたいのかもしれませんがしかし・・・ナンたることぞ = God bless you

 時計は二度と回らない
  God bless you 彼女によろしく


2019年2月 7日 (木)

中島みゆき 作詞/作曲『風にならないか』ソロ:モーツァルトの旅行用クラヴィコード(1763, J.A.Stein)の複製(2002年)で

中島みゆきの『風にならないか』を、かの神童モーツァルトが7歳のとき(1763年)に買ってもらったJ.A.シュタイン製の旅行用クラヴィコードの複製で弾きました。

『風にならないか』は1994年のアルバム《LOVR OR NOTHING》の一曲。演歌調にただただ独りごちて「・・・まいっか(・ω・ゞ」というような地味な曲調は、深遠で高潔な思想とは無縁の世界観。それでいながらちょっとした言葉のスパイスが耳に残る佳曲だと思います。いつもながら対語法が秀逸。

クラヴィコードはピアノ以前の鍵盤楽器のなかで最も大切とされていたフシがあり、現代古楽器周辺では「独りで音楽の神さまと向き合う」ための楽器とみなされて過度に神聖化wされていたりします。ですが、実は、そのような内なる世界は優しく親密な世界でもあるはずで、現代人にとって大切なのはむしろ後者の性格ですよね。なお、クラヴィコードの音量は世人の想像を超えて小さいですから、背景のノイズが気にならない程度の音量に抑えたうえで少〜し耳を澄ませてくださいませ。聴こえてきますよ〜(・o・ゞ

 むずかしい言葉は自分を守ったかい
  振りまわす刃は自分を守ったかい
  降りかかる火の粉と 降り注ぐ愛情を
  けして間違わずに来たとは言えない


中島みゆきの曲でのっけからこう始まると「来たな」と身構えたくなりますが、このユルい曲調だとなんだか身構えようがないwのも事実。「頑張るのはご苦労なこったけど、わりかし勘違いするんだよねぃ」な程度の雰囲気を感じるのはワタクシだけでしょうかw ふむ、確かに<降りかかる火の粉>と<降り注ぐ愛情>って、意外と間違いやすいような気はしますね。

さて、モンダイは2番の歌詞、なかなか意味深でございます。

 自由になりたくて孤独になりたくない
  放っておいてほしい 見捨てないでほしい


なんだかコレ、かまってちゃんwな雰囲気満載ですが、誰しもこのような想いに至ってしまうのではないでしょうか。自由な状態とはある意味「我関せず」な状態ですが、だれしも多かれ少なかれ承認欲求はあるもので、本当に「我関せず」になってしまっては実は満足できないんですよね〜。声高に「人は人、自分は自分」と吹聴しながら実際のところは理解者を切望してしまうのは、仙人でもない限り、無理もないことでありま〜す。

 望みはすばしこく何処へでも毒をまく
  やがて自分の飲む水とも知らないで


自由でありたい人は往々にして意識が高い方々であることが多く、そのような方々の承認欲求は実は笑っちゃうぐらいに高かったりします。自分の「意識の高さ」はそもそも他者から独立しては存在し得ず、孤高の存在であろうとすればするほど逆にあちこちに顔を出して口を出して疎まれてしまったり。「自分は人とは違う」とか「自分の方が正しい」とか「自分が見ている世界こそが本物だ」とか、ま〜、なんつ〜か、いわゆる「勘違いオヤジ」なマウンティングの典型ですわな。・・・あ、しまった、こうやって書いているコト自体が<何処へでも毒をまく>展怪ではないかっっっw

 我が身可愛いと心は揺れる
  あてにならぬ地図を持ち ただ立ちすくんでいる
  もう風にならないか
  ねぇ風にならないか


人間なんて所詮は人間関係から逃れられるハズもなく、自分が可愛くてどうしようもない存在。そのようなものである人間にとっての本当の自由とは、さまざまな関係性を描いた<あてにならぬ地図>の間をさらさらと吹き抜けて行く風のような存在になることでしょう。まぁこのように利いた風な口を叩いたところで、この「風」とはなんぞやと常に考えずして自由は得られず、よしんば「風の通り道を記した地図」を手に入れたところで逆に地図に縛られる可能性が浮上しますから、結局、考えることでしか自由は得られないのです。・・・どないせぇっちゅ〜んじゃw

さて、この動画で使っているクラヴィコードという鍵盤楽器の音は極めて小さく、弾き手の注意力は自然に研ぎ澄まされます。それがために「独りで音楽の神さまと向き合う」楽器とされるのでしょうが、その向き合い方は求道者のごとく禁欲的な姿だけではございません。クラヴィコードを弾くと世の中がいかに多種多彩な音に満ちているかにはっとさせられますし、それはとりもなおさず、自分が今まで気づかなかった外界の動きに気づかされる機会が与えられたことに他なりません。この「外界の動き」とはある意味で空気の動きであり、それはまさに<風>であります。たとえ屋内であっても、クラヴィコードの周辺では<風>の存在を意識することができるんですよ〜 (`・ω・´)シャキーン

2019年1月24日 (木)

カベソン『騎士の歌によるディファレンシアス』を、高橋靖志作のミニマムなイタリアンチェンバロで

かなり古い時代の大作曲家、アントニオ・デ・カベソン (1510-1566) の手による『騎士の歌によるディファレンシアス』を、ほぼミニマムな小型イタリアンチェンバロで弾きました。

音域C/E-c3の4オクターヴでしかもショートオクターヴなので45鍵、弦は8フィートのみで音質の切り替えも不可というシロモノ。新潟県三条市の山奥、旧下田村(しただむら)景勝地「八木が鼻」のすぐ近くでチェンバロやクラヴィコードを製作している 高橋靖志氏 の最初期のチェンバロです。このような「限られた楽器」でいったいナニができるのか・・・と申されても、昔はこのような楽器もまた「普通の楽器」でしたからじゅ〜ぶん満足な音楽ができていた、というのが実際のところでありま〜す。

「演奏」というシロモノが「正しいことを開陳する」だけならば「最高に正しい演奏者1人だけ」で事足りますが、そんなことは全くございませんで。演奏者は自分が楽譜から読み取った「音楽」の世界に聴き手を案内する役目を担っていますから、案内する方向を理解していれば使える道具(=楽器)に応じた方法が考え出せて当然なのです! ・・・だいたいそもそも「正しい」ってなんざんしょ? (。_°)? (°_。)?

表現の世界はとにかく多彩ですから「大は小を兼ねず」というのが本来の姿です。この音域4オクターヴかつショートオクターヴ、という非常に「限られた楽器」には、まだまだ現代人が気づいていない魅力がたくさん秘められているような気がしますね〜 (`・ω・´)シャキーン

2019年1月 7日 (月)

中島みゆき 作詞/作曲『六花』ピアノソロ:1894年ベーゼンドルファー社製ピアノ(ウィーン式アクション/85鍵)で

中島みゆきの『六花』を、いつもの1894年製アンティークピアノで弾きました。

この『六花』は2000年『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』オリジナル曲。舞台では、完膚なきまでに打ちのめされた心を慰めるように降る雪の場面で主人公の女(谷山浩子)と犬(中島みゆき)によって唄われ、そして、翌2001年に発売されたアルバム『心守歌』に収録されています。ここでは『心守唄』バージョンで弾きました。

「雪は天から送られた手紙である」と遺したのは雪の結晶の研究で名高い物理学者の中谷宇吉郎博士(1900-1962)ですが、中島みゆきはこの言葉を手がかりとして雪と氷の不思議な世界を『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』で表現しようとしたとのこと。この『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』を再現した詩詞集のまえがきで、中島みゆきは

 天からの数限りない手紙を、一行なりとも端切れなりとも読み受けたいと願いながら
  私は繰り返し雪の湿原に立ちました


と記しています。前述のように『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』が上演されたのは2000年、詩詞集のまえがきにあるように<中谷博士が生まれてちょうど百年目の年の冬>であります。

 広い空の中には 罪もけがれもある
  広い空の中には 何もないわけじゃない
  広い空の上から さまよい降りて来る
  泣いて泣いてこごえた 六つの花びらの花


『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』の主人公の女(谷山浩子)は原野商法に引っかかり、不正をはたらいてまで貯めたお金を「あの人」と暮らすことを夢見ていた不動産の頭金として全て取られてしまいました。しかもその不動産は早晩底なし沼に沈む運命の物件であり、「あの人」とは姉の夫。『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』の終盤、姉からお腹に妊娠七ヶ月の赤ちゃんがいることを知らされ、<あの人と新しい時を刻む為に、居ない私になるんです・・・>と希望をもってこの原野の家に来て待っていた自分が気がつけば「あの人」の心の中にも居ない女になっていた・・・というまことに救いの無い状況で泣き崩れる主人公の女(谷山浩子)、それを慰めるように犬(中島みゆき)がこのように歌い始めます。

空から落ちてくる雪の結晶は、故中谷宇吉郎博士が述べたように、天から人間へのメッセージ。たとえそれが<>であっても<けがれ>であっても広く限りのない天からのメッセージであることには変わりがなく、あとは人間(=自分)がそのメッセージたちの何に気づくか、何を選ぶか、そして何をどう使うかの問題でありましょう。・・・それにしても<泣いて泣いてこごえた>メッセージなんですね〜(T_T)

 六花の雪よ 降り積もれよ
  すべてを包んで 降り積もれよ


雪国の方々は先刻ご承知、雪とは<すべてを包んで 降り積もる>もので、美しいよりも人間ごときの力ではどうすることもできない強大な相手なんですね。この強さはゆったりした雰囲気の曲調とは相容れぬように思えますが、実はこの雰囲気の曲調のようにしんしんと降り続く雪の中にこそ、恐るべき強さがひそんでいるのだと思います。『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』の主人公の女がわずかずつの横領を続けて四千万円を作り出して不動産の頭金にしてのけた強さ、これを象徴すると「雪の強さ」なのかも知れませんね。

思春期を帯広で過ごした中島みゆきですから、一晩中音も無く降り続けた雪で翌朝の景色が全く変わってしまう経験はごく普通のことだったでしょう。そして北海道の地吹雪の凄まじさたるや、雪が上からも横からも下からも吹きつけてくるんですよ〜。ワタクシ、実は何度かマトモに巻き込まれたことがありまして、それこそ自分の目の前に伸ばした腕が途中で白い闇の中に消えてしまうほどでした。そりゃ、地吹雪のときにうかつに戸外に出たら、通い慣れた道でも簡単に凍死しますぜよ。

 地吹雪から運ばれる積雪の量は、降ってくる量の100倍!『夜会VOL.11 ウィンター・ガーデン』(2000年)槲の樹の言葉)

・・・そういえば、有名な「六花亭」は本社が帯広でしたっけ(・o・ゞ

 すさぶ大地の下で 花は眠っている
  吹きつける北風の 子守歌聴いている
  広い空の上では 手紙がつづられる
  透きとおる便箋は 六つの花びらの花


この一連、ホントに美しいですね〜。
強大な「雪」という存在に包まれ覆い隠されても、その雪が解ける春は必ずやってきます。春を迎えると雪は大地をうるおす恵みとなり(まぁ雪解けの頃の北海道のどろんこ具合ってハンパないのですがw)、なるほど、この意味でも「雪は天から送られた手紙である」ですよね。雪が敵となるか味方となるかは紙一重というか運命のいたずらというか裏表というか・・・まぁ、たまたまよ。たまたまw

氷雪の世界の限りなさに対して、中谷宇吉郎博士も中島みゆきもともに限りない畏敬の念を持っていますね。自然は偉大で美しく恐ろしく、そして身近な存在であります。

2018年12月24日 (月)

12月15日ライブ動画/ショパン『ノクターン第16番 op.55-2』を1909年製ブリュートナー・ピアノで

一週間ちょい前の12月15日に行った 古き佳き独逸の銘器 1909年製ブリュートナー・ピアノのいぶし銀の輝き で弾いた、ショパンのノクターン第16番です(・o・ゞ

1909年製で、しかもときのドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が従妹のアレキサンドラ皇后(ロシア最後の皇帝ニコライ2世の妻)に贈ったものとされており、ロシア革命勃発の際にさる女官の手に渡り、その後1970年代末に彼女が亡くなるまで“聖なる遺品“として大切に保管されていた・・・という言い伝えのある、まことに高貴な楽器。

昔のピアノに触れる機会にはワリと恵まれているワタクシですが、このピアノはそのなかでもかなり不可思議な挙動をするシロモノでして、かなり「持っている」楽器なんだろうなぁ・・・と。惜しむらくは、否、幸いにと言うべきでしょうw、この不可思議な空気感は録音なんぞでは到底伝わりません。来年以降もこの楽器で演奏会ができるかどうかはわかりませんが、可能な限りこの雰囲気を伝え続けていきたいなぁと思っています。

怪しい妖しいクリスマスイヴプレゼントをどうぞ! (・∀・)ニヤニヤ

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

イベント・演奏会 グルメ・クッキング ファッション・アクセサリ レッスン 写真>Instagram 写真>昔のレンズ/カメラ 学問・資格 文化・芸術 旅行>アメリカ 旅行>ヨーロッパ 旅行>中国 旅行>台湾 旅行>韓国 旅行>香港 旅行・地域 日記・コラム・つぶやき 書籍・雑誌 鉄道 音楽 音楽>Soundcloud 音楽>YouTube 音楽>アンドレ・ギャニオン 音楽>クリストフォリピアノ 音楽>ピアノなど鍵盤楽器の歴史 音楽>メーカー>BECHSTEIN 音楽>メーカー>Blüthner 音楽>メーカー>Broadwood 音楽>メーカー>Bösendorfer 音楽>メーカー>DIAPASON 音楽>メーカー>FAZIOLI 音楽>メーカー>Grotrian 音楽>メーカー>Gröber 音楽>メーカー>HORUGEL 音楽>メーカー>NISHIKAWA 音楽>メーカー>PETROF 音楽>メーカー>Pleyel 音楽>メーカー>Steinway 音楽>メーカー>Streicher 音楽>メーカー>YAMAHA 音楽>中島みゆき 音楽>作曲家>Alberti 音楽>作曲家>Alkan 音楽>作曲家>Bach 音楽>作曲家>Beethoven 音楽>作曲家>Boëllmann 音楽>作曲家>Brahms 音楽>作曲家>Burgmüller 音楽>作曲家>Buxtehude 音楽>作曲家>Cabezón 音楽>作曲家>Cage(1912-1992) 音楽>作曲家>Chopin 音楽>作曲家>Clark 音楽>作曲家>Couperin 音楽>作曲家>Czerny 音楽>作曲家>Debussy 音楽>作曲家>Dubery(1948- ) 音楽>作曲家>Dvořák 音楽>作曲家>Faurè 音楽>作曲家>Fibich 音楽>作曲家>Field 音楽>作曲家>Fischer 音楽>作曲家>Franck 音楽>作曲家>Frescobaldi 音楽>作曲家>Froberger 音楽>作曲家>Galuppi 音楽>作曲家>Giustini 音楽>作曲家>Granados 音楽>作曲家>Grieg 音楽>作曲家>Haydn 音楽>作曲家>Händel 音楽>作曲家>Janáček 音楽>作曲家>Lefébure-Wély 音楽>作曲家>Liszt 音楽>作曲家>Marcello 音楽>作曲家>McDowell 音楽>作曲家>Mendelssohn 音楽>作曲家>Merikanto 音楽>作曲家>Moir 音楽>作曲家>Mompou 音楽>作曲家>Monti 音楽>作曲家>Mozart 音楽>作曲家>Pachelbel 音楽>作曲家>Ponce 音楽>作曲家>Royer 音楽>作曲家>Rubinstein 音楽>作曲家>Satie 音楽>作曲家>Scarlatti 音楽>作曲家>Schubert 音楽>作曲家>Schumann 音楽>作曲家>Scriabin 音楽>作曲家>Sibelius 音楽>作曲家>Suk 音楽>作曲家>Séverac 音楽>作曲家>Wagner 音楽>作曲家>三島元樹 音楽>作曲家>吉松隆 音楽>作曲家>大中寅二 音楽>作曲家>鷲見五郎 音楽>楽器>アップライトピアノ 音楽>楽器>クラヴィコード 音楽>楽器>スクエアピアノ 音楽>楽器>チェンバロ 音楽>楽器>フォルテピアノ 音楽>楽器>リードオルガン 音楽>楽器>鍵盤ハーモニカ 音楽>楽譜作成(lilypond) 音楽>蓄音器 音楽>高橋靖志ハープシコード&クラヴィコード 音楽に思うこと

2019年5月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

最近のコメント

無料ブログはココログ