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2019年5月 7日 (火)

中島みゆき 作詞/作曲『誰のせいでもない雨が』ソロ:モーツァルトの旅行用クラヴィコード(1763, J.A.Stein)の複製(2002年)で

中島みゆきの『誰のせいでもない雨が』を、かの神童モーツァルトが7歳のとき(1763年)に買ってもらったJ.A.シュタイン製の旅行用クラヴィコードの複製で弾きました。ん? 歴史的楽器で現代の音楽を弾く必然性? 別に全っ然ございませんがナニか? ( ̄ー ̄)

クラヴィコードはピアノ以前の鍵盤楽器のなかで最も大切とされていたフシがあり、現代古楽器w周辺では「独りで音楽の神さまと向き合う」ための楽器とみなされて過度に神聖化wされていたりします。ですが、実は、そのような内なる世界は優しく親密な世界でもあるはずで、現代人にとって大切なのはむしろ後者の性格ですよね。なお、クラヴィコードの音量は世人の想像を超えて小さいですから、背景のノイズが気にならない程度の音量に抑えたうえで少〜し耳を澄ませてくださいませ。聴こえてきますよ〜(・o・ゞ

『誰のせいでもない雨が』は1983年のアルバム《予感》のB面最初に置かれた一曲。この全編に漂うなんとも寂しく悲しく孤独で切なくうすら寒い雰囲気と間奏部分のエレキギターの泣きったら、どうしてくれましょう。まぁ、そりゃ、雨が降ったらどんなに防護しても必ずどこかは濡れるwモノで、このときのなんとも言えぬ微妙な感覚って独特ですよね。難しいことを簡単な言葉で表現できてこその、一流の表現者でありま〜す。・・・まぁ単なる比喩の積み重ねなんですけどw

人の数ほど唯一無二の人生があります(これも中島みゆきのテーマの一つですね)が、<誰のせいでもない>というのは、とどのつまりはどうあがいても抗えない「決まりごと」であって、散るか諦めるか以外の選択肢はないのでしょう。だからこそ、その裏には言いようのない強烈な悲しみそして怒りその他もろもろ複雑な情緒が人の数ほど込められることになります。
そう思うと、この↓出だしって、むちゃくちゃ強烈と思いません?

 誰のせいでもない雨が降っている
  しかたのない雨が降っている

この詩の難解さは並みいる評論家諸氏の腕を鳴らすようですが、どうやらほぼ「学生運動の挫折と当事者の悲哀」という観点に基づく解釈で一致しているようです。・・・ですが、せっかく難解に詠まれた詩なのにそんなに直接的一意的に結論づけてしまってはもったいないと思いませんこと? 結論づけて「わかって」しまうと、下手するとそれ以上味わえなくなるかも知れないですぜ(・o・ゞ

 怒りもて石を握った指先は
  眠れる赤子をあやし抱き
  怒りもて罪を穿った唇は
  時の褥に愛を呼ぶ

東大紛争は1968〜1969年のこと、そして連合赤軍事件の数々は1971〜1972年のこと。中島みゆきは1952年生まれでデビューは1975年ですが、さまざまなコンテストに出場して「コンテスト荒らし」の異名をとっていたのはその少し前の学生時代、同世代が武装闘争で新聞紙上をにぎわせているときに中島みゆき(当時は本名の中島美雪ですな)は音楽で闘争していたのでありました。まぁここまで直接的に表現されれば、関連がないと見なす方に問題があるでしょうw

この『誰のせいでもない雨が』は、1983年発表の《予感》収録。このタイミングは武装闘争の闘士として(念のため賛否は表明しませんよ)活動していた二十台半ばの若者たちにとって干支が一回りして四十の声を聞くタイミング、そしてバブル経済前夜で社会全体がそんな時代を忘れかけていたタイミングなのだろうなぁと。当事者たちに限らず、己がアツかった青春時代を呼び覚ますような詩であったと同時に「あぁ、あいつらも四十に近づいているんだよなぁ」とも思われたでしょうね。「四十而不惑」は『論語』の一節。うぅぅむ。

 黒い枝の先ぽつりぽつり血のように
  りんごが自分の重さで落ちてゆく

人間稼業を重ねて来れば背負うものもまた重なり重くなってくるものでございまして、一人二人と血の涙を流しながら脱落(と言うのもいささかモンダイかも知れませんが(^^;)して社会に飲み込まれざるを得ないもの。ですが中島みゆきは前の年、こうも詠っています。己の業を忘れないことが良いのか、忘れちまうことが良いのか、人により時と場合により、そして都合にwよりますな。まぁそんなモンでしょうて ヽ( ̄▽ ̄)ノ

 としをとるのはステキなことです そうじゃないですか
  忘れっぽいのはステキなことです そうじゃないですか
  悲しい記憶の数ばかり
  飽和の量より増えたなら
  忘れるよりほかないじゃありませんか『傾斜』1982年)

詩的文学的な表現は多様な解釈を可能とさせることで逆に真意をおぼろげながら浮かび上がらせる、という側面があると思うのですが、それは比喩だったり抽象化だったりのレトリックのなせる技。そこにいきなり投下される<滝川と後藤>という人名にはびっくりさせられます。しかも<帰らなかったってね>ですから、全くもっておだやかぢゃございませんで、やはり投獄された闘士たちを思い起こさせられずにはいられませんが、主人公たちと違う世界に袂を分かったのかも知れませんし、はたまた冷たい水の底という怪釈もできなくはなさそうで(ちょっとヤバいかな(^^;)

 きのう滝川と後藤が帰らなかったってね
  今ごろ遠かろうね寒かろうね
  誰かあたしのあの人を救けてよと
  (はだし)の女が雨に泣く

とは言え、この詩は「学生運動の挫折と当事者の悲哀」を詠ったもの、と小さくまとめてしまうにはチト惜しいと思います。あくまでも「学生運動の挫折と当事者の悲哀」は主要題材に過ぎず、誰しも社会的生活を送っている限りは必ず直面するであろう「理想と現実とのはざまでの葛藤」の方を詠んでいるとしたいワタクシでありま〜す。

 もう誰一人気にしてないよね
  早く 月日すべての悲しみを癒せ
  月日すべての悲しみを癒せ

このフレーズがサビとして繰り返されますが、なんという痛切なメッセージでしょう。悲しみを癒せ>と叫んでいるのですから、主人公にとって<悲しみ>は月日の力をもってしてもいまだ癒されていないのです。それなのに現実世界では<もう誰一人気にしてない>という不条理。生きることとは不条理を受け入れることだとも思いますが、この<悲しみ>は底知れず深く冷たい。しかもそれが<誰のせいでもない>という表現によって、強烈な光を放ちます。なるほど、レコードのB面のトップに置かれるべくして置かれた一曲なんでしょうね。

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